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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第二部

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第11話

1.


 一二二七年十一月初め。通州を発って燕京へ入るまで、馬車でかかるのはせいぜい一日である。


 だが、同じ一日でも、李家から分家された成安にとっては、もっと長い道のりに違いなかった。


 私は道中、何度かその横顔を見た。父上の短い言葉も、贖い状の燃える臭いも、道の揺れも、その顔にはあまり残っていない。妙に静かで、妙に冴えていた。


 家を離れる男の顔というより、やっと帳面の続きへ辿り着く男の顔に近かった。


 李家の倉や帳場や水場は、夜になると同じ家の匂いへ沈んでゆく。湯気、塩、濡れた縄、乾ききらぬ紙。そういうものの置き場所まで含めて、あれは家であった。


 そこから切り離されて外へ出る。追い出されたのではない。認められたからこそ、内へは置けぬ。商人の家には、そういう裁きがある。珍しくないからこそ、受ける方には長く残る。


 燕京の城門をくぐり、政庁へ足を踏み入れた時、若様の顔つきはかえって軽くなったように見えた。


 文書の束、役人どもの足音、控えの汚れ方、机の上で少しずつ位置のずれる筆と硯。李家の帳場と同じで、しかもずっと大きく、最初から綺麗ではない。綺麗ではないものを、順に通してどうにか動かす場所である。


 成安はそこで、むしろ水を得た魚のように見えた。


 細い顔色は相変わらず悪い。声も大きくない。だが、人の顔色より先に紙の傷み方へ目が行くところだけは、いっそう落ち着いていた。


 若様は耶律楚材様筋の一門に連なる書記組へ回され、古参書記の下で働くことになった。私は通詞と雑役のような顔でそれに付いたが、実のところ、最初に何が動くかを見張る役でもあったのだと思う。


 家を出された次男が、帝国の帳場でどこまで通じるか。


 私もまた、それを見に来たのである。


2.


 数日後、徴発品目録の数字が合わぬと騒ぎになった。


 軍へ回した穀、馬具、革、塩。その控えの合い口がどこかで崩れていた。


 こういう時、たいていの者は先に言い訳を探す。急ぎだった、転記が遅れた、道中で数え違えた、と。人は責を負いたくないときほど、曖昧な言葉を好む。


 若様は、それを一晩で洗い出した。


 夜更けの書記部屋は、灯りが一つ減り、二つ減りして、最後には紙の白さばかりが妙に目についた。私は湯の冷めた椀を片づけながら、成安の手許を見ていた。


 草原式の軍営帳簿が一束。漢地の税簿が一束。どちらも数字は並んでいる。だが並び方の理が違う。


 向こうは動かす順に寄り、こちらは取る順に寄る。同じ戦の後ろで噛み合うべき二つの秩序が、紙の上ではもう軋んでいた。


 成安はそれを、黙って嗅ぎ分けていた。


 転記の筆の癖を見る。印の押し直しを見る。行の詰まり方を見る。誰がどこで数字を丸め、誰があとで帳尻を合わせたか、まるで湿った縄の端でも拾うように一つずつ辿ってゆく。


 夜明け前、若様はようやく筆を置いた。


「ここです」


 そう言って示したのは、徴発担当の小役人が草原式帳簿にだけ数を多く載せ、税簿側では別の月へ逃がした筋であった。


 今すぐ誰かの腹が減るようなごまかしではない。だが、そのまま積めば、あとで必ず倉が空になる類の破れである。


 翌朝、それを受け取った古参書記は、若様を褒めなかった。


「それで、誰が困る」


 低い声で、まずそう訊いた。


 成安は一拍置いて、


「今は誰も困っていません」


 と答えた。


「だが、このまま春まで積めば、

  徴発の名目だけが残り、

  実物の補いが立ちません。

  あとで倉が空になります」


 古参書記は鼻を鳴らした。


 笑ったのでも、怒ったのでもない。ただ、その答えが数字遊びでないことだけは分かった顔であった。


 私には、その短い問答が祈祷文より信じられるものに思えた。倉が空になれば、信仰も名誉も腹を満たさぬ。私はその種の現実を、幼いころから見すぎるほど見てきた。


 だから若様の答えは、少しも美しくないくせに、妙に真に迫って聞こえたのである。


3.


 古参書記はそれ以上何も言わず、帳面を持って書記部屋の奥へ入っていった。


 私は湯の器を持って立ったまま、何とはなしにそちらを見た。


 あの男は枯れている。若い書記が転記を誤っても声を荒げず、筆順が汚くても眉一つ動かさぬ。褒める時も「それでよい」と言うだけで済ませる類の人間である。


 その枯れた男が、部屋の奥では珍しく熱を帯びていた。


 声は低い。何を言っているかまでは取れぬ。だが手が動く。帳面の角を指で叩き、行を追い、何かを説明している。


 向かいにいる元締めは、ほとんど身じろぎもせずに聞いていたが、古参書記の方は明らかに熱を入れていた。


 私はそこで少し足を止めた。


 若い書記どもには鼻も鳴らさぬ男が、あんな顔をするのを初めて見たのである。


 元締めは書記組の名簿と帳面を束ねる人で、私でも顔くらいは知っていた。


 軽い相手ではない。だが軽くない相手へ、古参書記がああまで熱を持って話すなら、若様の見つけた破れは、もうこの部屋の中だけでは済まぬのだろうと思えた。


 若様は、そのあいだも次の帳面を開いていた。


「若様」


「何です」


「お疲れでしょう」


「まだ合っていません」


 それだけで話は終わった。


 若様は、古参書記の冷たさにも、書記部屋の奥で何かが上へ通っている気配にも、気を取られぬ顔をしていた。


 いや、気づいていないのではあるまい。ただ、自分がいま何を残すべきか、その順だけを先に見ているのである。


 李家の帳場では、そういう見方は家の空気を冷やした。


 だがここでは、冷えることそのものが役に立つらしかった。


4.


 もっとも、役に立つからといって、それで温かく迎えられるわけではない。


 政庁の人間どもは、若様を若様として扱わなかった。李家の次男でもなく、分家された商家の子でもなく、ただ「使える若い書記」として扱った。


 便利なら呼び、邪魔なら黙らせ、当たれば次を積ませる。そういう冷えた手つきである。


 私は、その手つきに馴染みがあった。


 宮廷でも軍営でも帳場でも、使われる場所ほど人は冷たくなる。祈りより先に順序が物を言い、情より先に役が立つ。私のような者は、そういう場でこそ長く生きてきた。


 だから私は、若様を大げさに憐れまなかった。


 むしろ、ようやく自分の数字が通じる場所へ来たのだ、と見ていた。家の中では利きすぎて置けなかった才が、ここではそのまま値になる。若様もまた、帳面の傷み方がそのまま働きになる場へ来て、少し息がしやすそうに見えた。


 それでも私は、少しだけ胸が悪かった。


 李家では、たとえ冷えても、まだ誰かが若様の椀の置き場所を知っていた。父上は短い声で段取りを渡した。長男様は家の空気を荒らさぬよう一歩引いた。私は湯を運んだ。


 家というものは、そういう小さな手つきでどうにか続く。


 だが燕京の政庁には、それがない。


 正しければ採られる。使えれば残る。そうでなければ消える。ただそれだけである。


 若様はいま、その場所へ立っていた。


 家の中で浮いた正しさが、外へ出て初めて役に立つ。役に立つようになった時、人はたいてい、家のぬくもりから遠くなる。


 書記部屋の奥で、枯れた古参書記が珍しく熱を帯びていた。そのことだけは、なぜだか妙に気にかかった。若様の見つけた破れが、誰の首へつながり、その首が誰の恨みを呼ぶのか、私にはまだ見えなかった。


 ただ一つ分かるのは、李家の帳場で冷えた若様の正しさが、燕京では別の値で量られ始めたということだけである。


 それは若様にとって、ようやく来た居場所なのかもしれぬ。


 だが、使われる場所が居場所と同じとは限らない。


 私はその違いを知っている。そして若様は、たぶんまだ、その両方を同じ顔で見ていた。

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