第6話「崩れた日常と、戻れない距離」
翌朝の空気は、妙に軽かった。
それが逆に、颯汰には不気味だった。
昨夜のキス。
首筋に浮かんだ小さなほくろ。
そして——穂希の沈黙。
全部が、まだ頭の中に残っている。
なのに、部屋はいつも通り朝の光で満たされていた。
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キッチンでは、穂希がコーヒーを淹れていた。
何事もなかったような手つき。
「おはよう」
「……おはよ」
短い会話。
ただそれだけで、昨夜の出来事が“なかったこと”にされそうになる。
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颯汰は思わず、穂希の横顔を見た。
(本当に、同じ人なのか?)
大学で見せる顔。
家での顔。
そして、昨夜の“隠された反応”。
どれが本当なのか分からない。
いや、全部が本当なのかもしれない。
それが一番怖かった。
⸻
大学。
講義中。
穂希は普通だった。
ノートを取り、教授の話を聞き、周囲に溶け込んでいる。
誰も気づかない。
昨日、あの部屋でキスをしたことも。
その直後に、“橋下誉”という名前が現実になりかけたことも。
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颯汰は授業内容が一切頭に入らなかった。
ペンを握ったまま、ずっと考えている。
(もし本当に誉なら)
(なんで俺と結婚してるんだ)
(なんで“哀川穂希”としてここにいる)
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昼休み。
廊下で、穂希が突然立ち止まった。
「今日、早く帰る」
「……また?」
颯汰の声に、少しだけ棘が混じる。
穂希は振り返らないまま言った。
「用事」
それだけ。
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その背中を見て、颯汰は気づく。
(俺、もう“普通の生活”に戻れない)
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放課後。
颯汰は一人で図書館に向かった。
しかし席には座らなかった。
窓の外を見ているだけ。
穂希の姿を探している自分に気づく。
(依存してるのか?)
そう思った瞬間、胸が少しだけ冷えた。
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その夜。
穂希は帰ってこなかった。
スマホにも連絡はない。
部屋は静かすぎて、逆に耳鳴りがする。
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颯汰は椅子に座ったまま、スマホを見つめていた。
連絡するべきか。
問いただすべきか。
でも指が動かない。
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「……どこにいるんだよ」
小さく漏れた声は、誰にも届かない。
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その頃。
穂希は、大学から離れた駅のホームにいた。
帽子を深くかぶり、マスクをしている。
別人のような装い。
ポケットの中でスマホが震える。
見ない。
見なくても分かる。
相手は颯汰だ。
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その代わりに、別の通知が来る。
「現場入り確認」
短いメッセージ。
穂希は一瞬だけ目を閉じる。
そして——電車に乗った。
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颯汰が知らない世界へ。
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その夜遅く。
ようやく帰宅した穂希は、静かにドアを開けた。
電気はついている。
颯汰はそこにいた。
ソファに座ったまま、こちらを見ている。
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「どこ行ってた」
低い声だった。
穂希は一瞬止まる。
「……ちょっと」
「ちょっとで一日いなくなるのか?」
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空気が張りつめる。
昨日とは違う。
甘さも、距離の曖昧さもない。
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颯汰は立ち上がった。
「俺さ」
「もう誤魔化されるの嫌なんだけど」
穂希の表情がわずかに揺れる。
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沈黙。
数秒。
そして穂希は、静かに言った。
「じゃあ、知りたい?」
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その言葉は、優しくもあったし、危険でもあった。
颯汰は息を呑む。
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穂希の目が、ほんの少しだけ“別の色”になる。
「私がどこで、何をしてるか」
「本当に全部、知ってもいいの?」
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その瞬間、颯汰は直感する。
ここから先は——
もう“知らなかった頃”には戻れない。
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