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第5話「確信と、触れてはいけない距離」


部屋の空気は、さっきよりさらに静かだった。


仲嶋颯汰なかじま・そうたは、ソファに座ったまま動けない。

穂希ほまれはその数歩先、窓際に立っていた。


背中だけが見える。


それなのに、なぜか視線はそこから離れない。



「ねえ」


穂希が振り返らずに言った。


「もし私が“ほまれ”だったら、何かするの?」


その声は、やけに落ち着いていた。


試すようでいて、逃げ道もある問い。



颯汰はすぐに答えられなかった。


喉が少しだけ詰まる。


(もし本当にそうだったら)


頭の中で、何度も考えてきた名前。


橋下誉。


そして目の前にいる、哀川穂希。


同じ人間だとしたら——



「……何かするかって言われたら」


颯汰はゆっくり立ち上がった。


穂希の背中に近づく。


「多分、何もしないって言えない」


穂希の肩がわずかに動く。


振り返らない。



颯汰は少し距離を詰めた。


「でも」


「もし本当に誉だったら」


声が少しだけ低くなる。


「……抱いてみたい、って思うかもしれない」



その瞬間。


空気が止まった。


穂希の指先が、わずかに震える。



次の瞬間だった。


颯汰は、ほぼ衝動のまま穂希の肩を引き寄せた。


そして——キスをした。


短く、逃げるような距離じゃない。


確かめるような、止められない距離。



穂希の体が一瞬だけ固まる。


抵抗はない。


けれど、受け入れているわけでもない。


ただ、“動けない”という沈黙だった。



数秒後、颯汰はゆっくり離れる。


呼吸が少し乱れている。


そして視線が、自然と穂希の首筋へ落ちた。



髪の隙間。


そこにある、小さなほくろ。


昨日からずっと引っかかっていた場所。


颯汰はそこを見つめる。


まるで答えを確かめるように。



穂希はすぐに反応した。


「……見ないで」


そう言って、髪を手で押さえる。


隠すように。


反射のように。



その動きが、余計に確信を強くした。



颯汰の目が細くなる。


「やっぱり」


声が少し震えていた。


「穂希は……あの誉だったんだろ」


視線は、首筋から離れないまま。



穂希は答えない。


ただ髪を押さえたまま、静止している。



沈黙。


長い沈黙。



やがて穂希は、小さく息を吐いた。


「……それを知って、どうするの?」


その声は、さっきまでより少しだけ弱かった。



颯汰はすぐに答えられない。


さっきのキスの余韻が、まだ残っている。


でもそれ以上に——胸の中がざわついていた。



(やっと繋がった)


(全部、偶然じゃなかった)


でも同時に、もう一つの感情が生まれていた。


(でもこの人は……穂希でもある)



颯汰は一歩下がる。


距離を取るように。


けれど視線は外さない。


「どうするかは、まだ分からない」


「でも」


少し間。


「逃げるつもりはない」



穂希の指が、わずかに緩む。



その夜。


二人は同じ部屋にいるのに、いつもより遠かった。


キスをした距離と、今の距離が一致しない。


むしろ遠くなっている。



穂希はソファに座ったまま、何も言わない。


颯汰は窓の外を見ている。



(あれが本当に“橋下誉”なら)


(俺は今、とんでもないものに触れてるのかもしれない)



そしてその頃。


穂希のスマホには、再び通知が入っていた。


「スケジュール、そろそろ戻せるか?」


画面を見つめたまま、穂希は長く息を吐く。


そして——静かにロックをかけた。



この夜、二人の関係は「夫婦」でも「同級生」でもなくなり始めていた。


そして同時に、もう一つの顔が完全に“現実”として浮かび上がった。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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