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第7話「もう戻れない問いと、彼女の境界線」


部屋の空気が、少しずつ冷えていく気がした。


仲嶋颯汰なかじま・そうたは立ったまま、穂希ほまれを見ていた。

穂希はソファの横に立ち、視線を逸らさない。


逃げていない。

けれど、近づくことも許していない目だった。



「知りたい?」


穂希がもう一度言う。


その声は静かで、柔らかいのに、どこか刃物みたいだった。


颯汰は喉の奥が乾くのを感じる。


「……ああ」


それでも、答えた。



穂希は一度だけ目を伏せた。


そしてゆっくりと口を開く。


「私は……大学にいる“哀川穂希”だけじゃない」


颯汰の胸が小さく跳ねる。



「それは、もう気づいてるだろ」


「……」


否定できなかった。



穂希は続ける。


「でも、全部を“ひとつ”だと思わない方がいい」


「ひとつ……?」


「そう」


彼女は少しだけ視線を上げる。


「大学の私。家の私。もう一つの私」


「それぞれ、繋がってるようで、別の場所にいる」



颯汰は眉をひそめる。


「意味が分からない」


穂希は小さく息を吐いた。


「分からなくていい」


その言葉が、少しだけ優しいのが余計に怖かった。



沈黙。


エアコンの音がやけに大きい。



颯汰は一歩近づく。


「じゃあ聞く」


「どれが本当の穂希なんだよ」



穂希はすぐに答えない。


数秒。


長く感じる沈黙のあと、彼女は静かに言った。


「全部」



颯汰の表情が固まる。



「全部って……どういうことだよ」


穂希は少しだけ視線を逸らす。


「どれも嘘じゃないってこと」



その答えは、説明になっていないのに、妙に“逃げていない”。


だからこそ不気味だった。



颯汰は拳を握る。


「だったら」


「俺には何を見せてるんだよ」



穂希の目が、ほんの一瞬だけ揺れる。


そして——


「颯汰には」


「“穂希”を見せてる」



その言葉に、胸がざわつく。



(穂希だけ?)


(じゃあ、橋下誉は?)



颯汰は言いかけて、飲み込む。


代わりに、別の言葉が出た。


「今日いなかったのも、その一つか?」



穂希の表情が、わずかに変わる。


ほんの少しだけ“警戒”の色。



「……見てたの?」


「見てたっていうか、いなかった」


「連絡もなかった」



穂希は数秒黙る。


そして小さく言った。


「ごめん」



その一言が、逆に距離を感じさせた。



颯汰は一歩後ろに下がる。


「謝るってことは、やっぱり隠してるんだろ」



穂希は否定しない。


その沈黙が答えだった。



やがて彼女はソファに座る。


少し疲れたように。


「……全部を説明すると」


「颯汰は戻れなくなるよ」



その言葉に、颯汰は固まる。



「もう戻れないだろ」


思わず出た声は、少しだけ震えていた。



穂希は颯汰を見上げる。


その目は、どこか悲しい。


「まだ、戻れる」


「今なら」



颯汰は息を飲む。



(戻れる?)


(何に?)


(この結婚?)


(この関係?)


それとも——


彼女そのものに?



颯汰はしばらく黙っていた。


そして、ゆっくり言う。


「戻る気はない」



その瞬間、穂希の表情がほんの少しだけ変わった。


驚きでも、安心でもない。


もっと曖昧な——“覚悟を見た顔”。



「……そう」


穂希は立ち上がる。


「じゃあ、知ってもらうしかないね」



その言葉が落ちた瞬間。


空気が少しだけ変わった。



翌日。


大学の廊下で、颯汰はある噂を耳にする。


「最近さ、撮影とかで有名な人がこの辺来てるらしいよ」


「芸名“橋下誉”ってやつ」



その名前を聞いた瞬間。


颯汰の背中に、冷たいものが走った。



(もう、日常じゃない)


(確実に何かが“外側”から入り込んできてる)



そしてその夜。


穂希のスマホには、短いメッセージが届いていた。


「次の撮影、大学の近くで決まった」


彼女は画面を見つめたまま、長く息を吐く。



(もう隠せないかもしれない)



一方その頃。


颯汰は窓の外を見ていた。


遠くの街の灯りが、やけに薄く見える。



恋愛はまだ終わっていない。


けれど——


この関係はもう、“恋愛だけでは説明できない領域”に入っていた。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

もしこの物語に少しでも「面白い!」と感じていただけたなら——


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