第3話「近づく距離と、知らない彼女の気配」
朝の光は、やけに優しかった。
仲嶋颯汰が目を覚ますと、隣の空間にはもう穂希の姿はなかった。
代わりに、テーブルの上にコーヒーと簡単な朝食だけが置かれている。
メモはない。
ただ、それだけ。
(……普通じゃないよな)
結婚しているのに、生活は妙に“独立している”。
それが逆に、現実味のなさを強めていた。
⸻
リビングのドアが開く音がした。
穂希が戻ってきたのは、颯汰がまだ朝食に手をつけている最中だった。
「おはよ」
「……おはよう」
短い会話。
昨日よりは、ほんの少しだけ距離が近い気がした。
気のせいかもしれないが。
穂希はバッグを置き、髪を軽く結び直す。
その仕草が、なぜか颯汰の視線を引き止めた。
(こういう普通のことをするんだな、この人も)
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
⸻
大学。
この日は、いつもより穂希の存在が気になった。
講義室の後ろ。
ノートを取る指先。
ふとした瞬間に、前髪を耳にかける動き。
どれも“普通”なのに、妙に目が離せない。
(昨日までは、ただの同級生だったのに)
今は違う。
彼女は“妻”だ。
その事実だけで、見える世界が少し歪む。
⸻
昼休み。
学食の前で、偶然二人はすれ違った。
「一緒に食べる?」
穂希の方から、何気なく言った。
颯汰は一瞬固まる。
「……いいのか?」
「別に禁止してないし」
その言い方が少しだけ柔らかかった。
⸻
二人は窓際の席に座った。
向かい合う形。
距離は近いのに、会話は少ない。
けれど、沈黙は不思議と苦しくなかった。
むしろ——少し落ち着く。
「颯汰ってさ」
穂希がスプーンを動かしながら言った。
「なんであの日、あんなこと言ったの?」
「……分からない」
正直な答えだった。
「でも、気づいたら言ってた」
穂希は少しだけ目を細めた。
「怖くなかったの?」
「普通は怖い」
「じゃあなんで?」
颯汰は言葉に詰まる。
しばらくして、小さく言った。
「……君が、消えそうに見えたから」
その瞬間、穂希の手が止まった。
⸻
一瞬の沈黙。
窓の外の光が、テーブルに落ちる。
穂希は視線を落としたまま、少しだけ笑った。
「変なこと言うね」
「そうかもな」
でもその空気は、さっきより少しだけ近かった。
⸻
放課後。
図書館。
いつもの席。
穂希は本を読んでいる。
颯汰は隣の席で、ノートを開いている。
勉強しているふりをしながら、彼女の横顔を見ていた。
(本当に、ただの大学生に見える)
けれど。
その“普通”が逆に不自然だった。
⸻
穂希がふと顔を上げた。
「ねえ」
「うん?」
「私のこと、ちゃんと見てる?」
突然の言葉。
颯汰は固まる。
「見てるだろ」
「そういう意味じゃなくて」
穂希の目が、少しだけ真っすぐになる。
「“今の私”じゃなくて、“全部の私”」
その言葉に、颯汰の胸がざわついた。
「全部って、何だよ」
穂希は答えない。
ただ、本を閉じた。
⸻
その夜。
帰宅途中。
颯汰はふと、穂希が少し遅れて歩いていることに気づく。
「どうした?」
振り返ると、穂希は立ち止まっていた。
街灯の下。
一瞬だけ、表情が見えない。
「……誰かに見られてる気がする」
「え?」
颯汰は周囲を見る。
誰もいない。
車の音だけが遠くにある。
「気のせいじゃないのか?」
「……そうかも」
穂希はそう言って歩き出した。
でも、その歩き方はいつもより少しだけ速かった。
⸻
帰宅後。
部屋の鍵を閉めた瞬間、穂希はようやく息を吐いた。
「今日さ」
「うん」
「大学の外で、誰かとすれ違った気がした」
颯汰は眉をひそめる。
「知り合い?」
「分からない」
その一言が、やけに重かった。
⸻
夜。
同じ部屋。
同じ空間。
けれど、今日は少しだけ違う。
穂希はソファに座り、いつもより無言だった。
颯汰はその横に座る。
少し距離を空けて。
「なあ」
「なに」
「本当に、何か隠してるだろ」
穂希はすぐには答えない。
数秒後。
「……隠してるというより」
彼女は視線を落とした。
「言うと、今の関係が壊れる気がする」
その言葉に、颯汰の胸が強く締まる。
「俺たち、もう壊れるものあるのか?」
穂希は少しだけ笑った。
でも、その笑いはどこか寂しかった。
「あるよ」
⸻
沈黙。
エアコンの音だけが響く。
颯汰は気づく。
この結婚は、ただの衝動じゃない。
穂希の中に、最初から“何かの理由”があった。
そしてそれはまだ、彼に向けて開かれていない。
⸻
穂希が立ち上がる。
「明日、少しだけ一人で出る」
「またか」
「すぐ戻る」
その言い方は、約束というより“報告”だった。
⸻
ドアが閉まる音。
颯汰は一人残される。
静かな部屋。
けれど、その静けさの中で確実に思う。
(この人、どこか遠くにいる)
隣にいるのに。
一番近いはずなのに。
⸻
そしてその夜、穂希は知らない場所で小さくスマホを開いた。
画面に表示されたのは、大学とはまったく違う名前。
“橋下誉”。
その文字を見つめたまま、彼女はしばらく動かなかった。
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