第2話「同じ日常のふりと、消えない違和感」
翌朝の空気は、やけに普通だった。
仲嶋颯汰は、いつも通りの時間に家を出て、いつも通りの電車に乗った。
昨日までと何一つ変わらないはずの通学路。
けれど、ひとつだけ決定的に違うことがある。
——家に“妻”がいる。
その事実だけが、頭の片隅でずっとノイズのように残っていた。
⸻
アパートの部屋。
穂希はすでに起きていた。
ソファに座り、スマホを見ながら淡々と朝食を食べている。
パンとコーヒー。驚くほど普通の光景だった。
「おはよう」
颯汰が声をかけると、穂希は目だけを上げた。
「おはよ」
それだけ。
昨日、市役所で婚姻届を出した相手とは思えないほどの温度だった。
颯汰はコーヒーを一口飲みながら、つい視線を向けてしまう。
(本当に、結婚してるんだよな……)
その違和感だけが、現実の証拠みたいに残っていた。
⸻
大学。
講義室はいつも通りのざわめきに包まれていた。
友人たちの笑い声、スマホをいじる指先、教授の淡々とした声。
その中に、哀川穂希の姿もあった。
昨日と同じように、少し後ろの席。
ただ、今日は眠っていない。
まっすぐ前を見て、ノートを取っている。
(……普通だ)
颯汰はそう思った。
普通の大学生。
普通の同級生。
昨日までと何も変わらない。
——少なくとも、外から見れば。
⸻
昼休み。
颯汰は一度だけ、穂希とすれ違った。
廊下。人の流れの中。
目が合う。
一瞬だけ、穂希の視線が止まる。
「……」
何か言うわけでもなく、彼女はそのまま通り過ぎた。
それだけだった。
なのに、その“間”が妙に引っかかった。
(今の、なんだったんだ?)
⸻
夕方。
講義が終わり、颯汰は図書館へ向かった。
なぜか、昨日と同じ場所に行ってしまう。
そこに、また穂希はいた。
今日は机に突っ伏しているのではなく、窓際の席で本を読んでいた。
髪が光に透けて、少しだけ印象が違って見える。
颯汰は数メートル離れた席に座った。
声をかけるべきか迷う。
けれど、結局何も言えなかった。
⸻
しばらくして、穂希が本を閉じた。
そして、ふと颯汰の方を見る。
「昨日さ」
いきなりだった。
颯汰は少し身構える。
「……うん」
穂希は淡々と続けた。
「ほんとに、あれ冗談じゃないの?」
その言葉に、颯汰の心臓が少しだけ跳ねる。
「冗談じゃない」
即答した。
穂希はしばらく黙って、それから小さく息を吐いた。
「そっか」
それだけだった。
驚くほどあっさりした反応。
⸻
沈黙が流れる。
図書館の静けさが、逆に重く感じる。
颯汰は思い切って口を開いた。
「穂希は……なんで、あの時あっさりOKしたんだ?」
穂希は少しだけ視線を落とす。
「別に。面白そうだったから」
「面白そう?」
「うん」
それ以上は言わない。
けれど、その言い方には妙な距離があった。
まるで、彼女自身のことなのに“他人事”のような。
⸻
その夜。
颯汰は一人でコンビニに寄った帰り道、スマホを開いた。
何気なく検索欄に指が動く。
「哀川穂希」
結果は出ない。
当然だ。
ただの大学生のはずだから。
けれど、指は止まらなかった。
何度か入力を変える。
そのとき、ふと別の名前が頭をよぎる。
——橋下誉。
偶然見た、あの映像の名前。
しかし、検索しても何も確信には届かない。
曖昧で、輪郭のない情報だけが断片的に残るだけだった。
「気のせいか……」
そう呟いて、スマホをポケットに戻す。
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アパートに戻ると、穂希はもう部屋にいた。
ソファで膝を抱えて座っている。
電気はついていない。
薄暗い部屋の中で、彼女だけが静かにそこにいた。
「おかえり」
「ただいま」
短い会話。
それだけで終わるはずだった。
けれど、颯汰は気づく。
穂希がほんの一瞬だけ、こちらを見たときの目が——
昼間の彼女とも、図書館の彼女とも違っていた。
何かを隠しているような。
いや、隠しているというより。
“別の世界を見ている目”だった。
⸻
「ねえ」
穂希が言った。
「明日、ちょっと出かける」
「どこに?」
「秘密」
それだけ言って、彼女は立ち上がる。
颯汰は何も聞けなかった。
⸻
その夜。
電気を消した部屋の中で、颯汰は思う。
(この結婚って、本当に何なんだ?)
ただの冗談のはずだった。
でも、冗談では終わらなかった。
そして彼はまだ知らない。
穂希が“哀川穂希”として大学にいる時間の裏で、
まったく別の名前で呼ばれている世界があることを。
その秘密が、もうすぐ静かに彼の前に現れようとしていることを。
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