第1話「静かな図書館と、人生を変えた一言」
大学の午後の図書館は、いつも通り静かだった。
空調の低い音と、紙をめくるわずかな音だけが、規則正しく流れている。
仲嶋颯汰は、ノートを開くこともなく、ただ一点を見つめていた。
その視線の先にいるのは、ひとりの女性。
哀川穂希。
同じ大学に通う学生だということは知っていた。けれど話したことはない。
ただ、講義で見かけるたびに、どこか印象に残る存在だった。
今日の彼女は、机に寄りかかるようにして眠っていた。
長い髪が頬にかかり、呼吸に合わせてわずかに揺れている。
その姿は、あまりにも静かで、現実味がなかった。
「……なんで、こんなに目が離れないんだ」
颯汰は小さく呟き、慌てて視線を逸らした。
けれど、数秒後にはまた見てしまっていた。
⸻
その夜。
颯汰は自室のベッドで、何となくスマホを眺めていた。
特に目的もなく、ただ時間を潰していただけだった。
流れてくる動画の中で、ある映像が偶然目に止まる。
成人向けの映像だった。
深い意味はなかった。
ただスクロールの途中で止まっただけだった。
しかし、その中に映った女性の首筋を見た瞬間、颯汰の指が止まった。
髪の隙間から覗く、小さなほくろ。
「……え?」
その位置、その形。
今日、図書館で見た彼女と、妙に重なる。
哀川穂希の首筋にも、同じような位置にほくろがあった。
一瞬の記憶が、やけに鮮明に蘇る。
(まさか……いや、そんなわけない)
そう思う一方で、その違和感は頭から離れなかった。
⸻
翌日。
颯汰は、気づけば図書館に足を運んでいた。
そこには昨日と同じように、穂希がいた。
そして、今日も眠っている。
無防備で、静かで、まるで世界から切り離されたように。
颯汰はしばらくその姿を見つめていたあと、ゆっくりと立ち上がった。
「……あの」
声をかけると、穂希のまぶたがゆっくりと開く。
「なに?」
寝起きのような、気だるい声。
颯汰の心臓が一気に跳ねた。
言うべきではない。
普通なら絶対に言わない。
それでも、口は止まらなかった。
「結婚してください」
沈黙。
図書館の音が、一瞬消えたような気がした。
穂希は数秒間、じっと颯汰を見つめて——
「いいよ」
あっさりと、そう答えた。
⸻
「……え?」
颯汰は思わず聞き返す。
穂希は軽く目を細める。
「冗談でしょ?」
「いや、冗談じゃ……」
言いかけて、言葉が詰まる。
自分でも、この状況が現実なのか分からなくなっていた。
⸻
その日の午後。
二人は市役所にいた。
婚姻届が机の上に置かれている。
颯汰の手は少し震えていた。
一方で穂希は、まるで日常の延長のように淡々としている。
「本当にいいのか?」
「別に。困らないし」
その一言で、すべてが進んでいく。
名前を書く。
仲嶋颯汰。
哀川穂希。
それだけで、“他人”だった二人は“夫婦”になった。
⸻
夕暮れの帰り道。
穂希が当然のように言う。
「今日から同じ家ね」
「……え?」
「結婚したんだから普通でしょ」
あまりにも自然な言い方だった。
颯汰は何も言えず、そのまま彼女の後ろを歩いた。
⸻
その夜。
同じ部屋。
同じ空間。
そして、隣にいる“妻”。
穂希はソファに座り、スマホを触っている。
颯汰は天井を見つめたまま、現実を整理できずにいた。
(どうして、こうなった?)
ただ一言の冗談のような言葉から始まったはずなのに。
もう戻れない場所まで来てしまっている。
穂希がふとこちらを見る。
「ねえ」
「……なに?」
「大学では普通にしてね。バレると面倒だから」
その言葉に、颯汰は小さくうなずいた。
この関係は誰にも知られてはいけない。
そして——まだ彼は知らない。
目の前の“哀川穂希”が、大学では決して見せないもう一つの顔を持っていることを。
“橋下誉”という名前で、まったく別の世界に存在していることを。
⸻
翌朝。
二人は何もなかったような顔で、それぞれ大学へ向かった。
誰も知らない。
この大学に、“昨日結婚したばかりの夫婦”がいることを。
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