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【幕間】辰丸の幸せ

永禄2年(1559年)5月2日――



 長尾景虎の上洛を翌日に控えた春日山は、城内も城下もどことなくそわそわした空気に包まれている。無論、当主が将軍と謁見することによって、その威光が強まるということであれば、例え長尾家家中の者でなく、越後に住む者であれば誰でもわくわくと胸を高鳴らせるというものだ。

 

 しかし、そんな中にあって、辰丸はいつも通り泥仕事に精を出していた。


 この頃は、田植えがおわったばかり。

 雑草を抜いたり、余計な虫がついていれば取ったりと、細かい仕事に汗を流していたのである。

 

 

「辰丸さまぁぁぁ!! またここにおられるのでしょう!? 辰丸さまぁぁぁ!! 」



 これまた聞きなれた辰丸を呼ぶ透き通った少女の声が、晴天の越後の空にこだますと、農民たちは顔を上げて、少女に向けて笑顔を振舞いた。

 

 

――おやまあ、宇佐美様のところの勝姫様。今日も御苦労なことじゃ!


――辰丸様なら、あそこで爺様を手伝っておるよ~!



 この頃になると、少女、すなわち勝姫の事も、辰丸の素性も既に農民たちの知るところになっていた。

 そして、長尾家の重臣の身でありながら、そのような事をおくびにも出さない辰丸の事を、農民たちは慕っていたし、何かと彼の面倒を見ている勝姫の事も、彼らは暖かく迎えているのだった。

 

 

 勝姫は農民たちに「ありがとう! 」と頭を下げると、辰丸が精を出している田んぼまで駆けていく。すると田んぼの丁度真ん中で、腰を低くかがめながら雑草取りをしている辰丸の姿が目に入ってきた。

 

 勝姫は再び大きな声で呼びかけた。

 

 

「辰丸さまぁぁ! もう明日は出立の日なのですよ! 畑仕事などしている場合ではありません! 」



 その声にひょっこり顔を上げた辰丸。

 白い顔に茶色の泥があちこちにこびりついているが、そんな事も気にせずに、心の底から畑仕事を楽しんでいることを示すような笑顔であった。

 

 勝姫はいつもの通り、その笑顔を見て赤面する。


 時が経つにつれて、顔を赤くした時の胸の高鳴りが大きくなっているような気がしてならないが、彼女はそれを否定するように、ぷくりと頬を膨らませると、ずんずんと泥の田んぼの中を進んでいったのだった。

 

 

「早く帰りますよ! 私も準備をお手伝いしますから!

……って、あれ!? あれれ!? 」



 越後の土は水分を多く含み、泥のようになっているのが特徴だ。

 畑仕事などした事がない勝姫は、その事を知らずに田んぼに足を踏み入れたのが失敗だった。

 

 深く足を取られた彼女は、なんとその場で動けなくなってしまったのである。

 

 その様子を見た辰丸は、ニコリと微笑むと、泥を物ともせずに、彼女の方へと近づいてきた。

 

 

「今お助けいたしますから、動かないでください」



 そう優しい声をかけられると、勝姫は泥の重みで動けなくなった両足とは対照的に、心はどこかふわふわと飛んでいってしまいそうなほどに浮き上がる。

 

 そして……

 

 ついにすぐ目の前まで辰丸がやってくると、耳元でそっとささやいてきたのだ。

 

 

「しっかり掴まっていてください」



「え…!? 」



 それは一瞬のことであった。

 

 急に両足が軽くなったかと思うと、なんと……

 

 

 体ごと抱きかかえられたのだ。

 

 

「あわわ……ちょ、ちょっと! 辰丸様!? 」



 一体何が起こったのか見当もつかず、混乱に陥る勝姫。

 少しでも動いたらくっついてしまいそうな距離にある辰丸の顔なんて見れるはずもなく、彼女は顔の置き場を探すのに必死だった。

 

 そして何とか辰丸の顔を見ずに済む場所を見つけると、彼女の頭の中もようやく落ち着いてきたのである。

 

 

 出会った頃と全く変わらぬ白くて細い腕と足。

 まるでうら若い乙女のような辰丸の手足から、一体どうしてこのような力が湧いているのだろう。

 それは毎日、こんな泥の中を手足を動かして畑仕事に精を出していたから、自然と力がついたに違いない。

 

 そうか……

 

 辰丸様は単に道楽で畑仕事を手伝っていたのではなく、自身の体を鍛える目的も兼ね揃えていたのだ……

 

 

 勝姫は妙な所で辰丸の事を感心しながら、彼の胸の中に頭を預けていた。

 

 

 辰丸の鼓動が直接耳に響く……

 

 

 ああ……

 

 

 なんて落ち着くのだろう。

 

 

 まるで夢の中にいるように、心地良い。

 

 

 

 ずっとこうしていたいな……

 

 

 

 そんな風に甘美な想いが、勝姫の胸の中を埋め尽くしていたのだった。

 

 

 

 しかし……

 

 

――うわぁ、勝姫様いいなぁ! 辰丸様に抱きかかえられて!


 

 そんな幼い女の子の声が耳に入ると、勝姫を夢から現実に戻した。

 

 ふと頭をよじって、声のした方を見ると、そこには村の女たちがうっとりとした目で、辰丸と勝姫の様子を見ているではないか。

 

 勝姫は急に恥ずかしくなって、体中が沸騰していった。

 

 

「ちょ、ちょっと!! 辰丸様!! もう大丈夫です!! お離しください!! 」


「わわっ! お勝殿! もう少しですから、かように暴れないでください! 」



 勝姫は辰丸の言葉になど耳を傾けず、必死に手足をばたつかせた。

 

 恥ずかしい! 恥ずかしい!

 

 その一心で、後先考えずにとにかくこの場から早く脱出したくて仕方なかったのだ。

 

 しかし、それは彼女を辰丸の腕から解放させるだけではなく、一つの悲劇を生んだのであった……

 

 

――ドシャッ!!



「え……? なに……? 」



 なんと……

 

 こらえきれなくなった辰丸が泥の中に尻もちをつくとともに、勝姫もまた泥の中へと落ちていったのである。

 

 

 しかもうつ伏せになって……

 

 

 着物はもとより、全身が茶色に染まる。

 それは彼女の可愛らしい顔もまた同じであった……

 

 

「なに、なにこれ!? にっがぁぁぁい!! うえっ! 」



 口の中にもしこたま泥が入ると、勝姫は思わず苦虫をつぶしたような顔になる。

 

 すると目の前で尻もちをついた辰丸は……

 

「ププッ……わははははっ!! お勝殿! お顔が……お顔が……わはははっ!! 」


 と、思わず堪え切らずに大笑いし始めたのであった。

 同時に周囲の農民たちからも「ははははっ!! 」と、大きな笑いが起こる。

 

 そこでようやく自分の顔が泥まみれになっていることに気付いた勝姫は、わなわなと震えだした。

 

 

「辰丸様……辰丸様のお顔は、まだお綺麗なようで……」



 憤怒の色があらわになっていく勝姫。

 辰丸の本能は、その怒りの炎にいち早く反応すると、泥の中をすくりと立ち上がり、後ずさりを始めた。

 

 

「お勝殿。短気はいけません! 駄目です!

お勝殿!! おやめ…… 」



 そう辰丸が青い顔をして彼女をたしなめた瞬間であった。

 

――ヒュン……


 と、空気を裂く音がしたかと思うと、辰丸の顔面で「ビチャッ」と泥が弾ける音がしたのである。

 

 

「うげっ! 苦い! 」



 辰丸は思わず顔をしかめた。

 すると今度は勝姫の表情がみるみるうちに笑顔へと変わっていったのである。

 

 

「あはははっ! 辰丸様のお顔! 泥だらけです! あはははっ! 」



 腹を抱えて大笑いする勝姫を見て、辰丸の心にも火がついた。

 

 

――ビチャッ!!


「きゃあ!! 」



 なんと今度は辰丸の方から勝姫に泥の団子が投げられたのだ。

 

 思わず怯んだ勝姫を見て、辰丸はどこか誇らしげにしている。

 

 

「むむぅ! やったなぁぁ!! えいっ!! 」


「お勝殿! 私も今は侍でございます! おなごに負けたとなれば武士の名折れ! 負けません!! えいっ!! 」



 こうしてまさに「泥仕合」が幕を上げたのだった。

 

 

 戦乱の世にあっても、蓋を開ければ辰丸も勝姫も、未だ十四の少年少女だ。

 後先考えず、愉快活発ゆかいかっぱつに泥だらけとなることが、言わば当たり前のことなのだ。

 


 まさに童心のままに、二人は心の底から泥仕合を楽しんだ。


 

 二人の笑顔に農民たちも触発されたのか、いつの間にか彼らも大勢混じって泥だらけになっている。

 

――辰丸様をお助けします!


――勝姫様をお守りするんじゃ!


 村の人々はそれぞれの側につき、互いに泥をかけ合っている。

 傍目から見れば、「何を馬鹿なことを……」と苦言を漏らすような様子であったが、長雨の季節にあって柔らかな陽光を携えた越後の空は、どこまでも優しく彼らを照らし続けていたのであった。

 

 

 この時、勝姫は不思議な気持ちでいた。

 

 

 乱世にあってこれから辰丸は、きっと強敵たちと血で血を洗う壮絶な人生を歩んでいくことだろう。

 そして、きっと大きな戦功を挙げて、広大な領地や大きな城を持って、華々しく歴史にその名を刻んでいくに違いない。

 

 しかし……

 


 それは本当に彼にとって幸せなことなのだろうか。

 

 

 彼女は白い歯を見せて笑う辰丸を見て、こう思ったのだ。



 彼にとっての幸福とは、決して富や名声などではなく……

 

 

 こうして無邪気に泥をぶつけ合って、笑顔でいることなのではないか……

 

 

 もしそうだとしたなら、私は……



 彼に泥をぶつけ続ける存在でありたい。

 彼のことを笑顔に出来る存在でありたい。


 たとえ彼がどんなに偉い大将になろうとも、

 どんなに血なまぐさい戦場に身を置こうとも……



 なぜなら私は……



 辰丸の幸せそうな顔が、



 この世で一番好きだからーー





 初夏に差し掛かった陽射しは、彼女の心に小さな恋の火をつける。

 勝姫はその火を大事にしていこうと、覚悟を決めた。



 たとえそれが……


 

 絶対に叶わぬ夢だと分かっていてもーー




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