孤城落日……消えゆく威光⑥
◇◇
辰丸が景虎と共に上洛の旅へと出立する前日の夕方――
春日山城下にある宇佐美屋敷では、ささやかな宴が催されていた。
その名目は、屋敷の主人である宇佐美定満もまた、上洛の途につく一員であり、その出立の祝いと、道中の安全を祈願したものであった。
しかし……
「宴」と称するには、どこかどんよりとした曇り空を思わせるような、重々しい空気に包まれていたのだ。
その元凶は、勝姫であった。
彼女は宴が始まってからというものの、暗い顔をしたまま一言も発さず、出てきた食事にも全く口をつけようとしなかったのである。
「おいおい、お勝よ。そんなに辛気臭え顔していたんじゃ、まるで親父殿の葬式のようなものではないか!? 」
勝姫の隣に座っている彼女の父親の定勝は、たまらず彼女をなじった。
するとその言葉に反応したのは、彼女ではなく、上座に座っている宇佐美定満であった。
「こら! 定勝! 冗談にも口にして良い冗談と、そうでない冗談というものがある! 今のは口に出してはならん冗談じゃ! 」
「ははっ! これは、したり! 親父殿もこの先短い事をご自覚なさっておったか! だからそのようにお叱りになるのだな!? 」
「うるさい! 出来の悪い息子が出世するまでは、閻魔殿には待ってもらっておるだけじゃ! 」
「じゃあ、一生あの世に行くことは出来ないぜ」
そんな親子のやり取りは、もちろん少女の気を引く為の狂言のようなものだ。
しかし、彼女は一瞥もくれずに、ただ一点をぼけっとしながら見つめているばかりであった。
定満と定勝は、思わず顔を見合わせる。
そして二人して大きなため息をついた。
この時、誰も口には出さなかったが、勝姫の心の在りかは唯一つであることは明白であった。
それは、辰丸の事……
上洛の旅路はおよそ二十日にも及ぶ。
言い換えれば、二十日もの間、彼女はこれまで毎日見てきた辰丸の面倒を見る事が出来ないということだ。
どこか糸の切れた凧のようになっているのは、そんな理由からであることは、定満にも定勝にも分かり切っていたのである。
しかし、今日は宴なのだ。
わざわざ港町から取り寄せた海の幸までもが食膳に並んでいる。
これでは折角の豪勢な食事も、到底美味しく頂くことはかなわない。
定勝は何とか彼女の気をこちらに向けようと、彼女に対して盃を差し出した。
「お勝よ。酒を注いでくれ」
口を半開きにしたまま、勝姫は定勝の方へと顔を向けると、無言でコクリと頷いた。
そして、酒を注ぎ始めたのである。
……だが、
「おいおいおい! 溢れておる! こら! もうよい! 」
なんと彼女は盃から酒がこぼれ落ちているにも関わらず、注ぎ続けているではないか。
「申し訳ございませぬ」
消え入りそうな声でそう告げた彼女は、小姓たちとともに濡れた床を拭き始めたが、それもいつものてきぱきした彼女からは考えられないくらいに、のんびりとした動作……
「こりゃ、たちが悪いな……」
定勝が漏らすように言うと、定満も「困ったものじゃ」と、眉をへの字にして呟くより他なかったのだった。
……と、そんな時であった。
「ごめんください! 駿河様はおられますでしょうか! 」
と、少年特有の甲高い声が、宇佐美屋敷の中にこだましたのである。
それは佐彦という辰丸の屋敷で働いている小姓の声であった。
「佐彦……? 」
勝姫は、ハッとした顔になって背筋をピンと伸ばすと、手にしていた布巾をその場に放り出した。
そして、彼女は辰丸の身に何かあったのではないかと、心配になって部屋を飛び出していってしまった。
しかし、猪突猛進な娘を放っておいたら何をしでかすか分かったものではない。
「おい! 待て、待て! 」
定勝もまた慌てて、勝姫の背を追いかけていったのだった。
………
……
「お食事中のところ、誠に申し訳ございません」
辰丸や勝姫よりも二つ年下の佐彦は、小さい体をさらに小さくして、深々と頭を下げている。
すると定満は、彼の事を安心させようと、柔らかな声をかけた。
「いや、よいのだ。それよりいかがした? こんな時間にやって来るとは、何か困ったことでもあったのか? 」
恐る恐る顔を上げた佐彦。
その顔を見て、定満はニコリと笑いかけた。
佐彦は武家の息子ではあるが、父親を早くに戦で亡くしている。
さらに次男であった彼は、奉公先も見当たらず、彼の母とともに慎ましい生活を送っていたのだった。
そんな彼のことを不憫に思い、新たに屋敷を構えた辰丸の小姓へと斡旋したのは、他でもない、宇佐美定満その人なのである。
彼にしてみれば可愛い孫のような存在であり、そんな彼が困り顔でわざわざ自分の事をたずねてきた事に、定満は喜びを覚えていたのだった。
しかし、定満の柔らかな視線よりも、隣から刺すような視線を送る勝姫のひきつった顔の方に、佐彦の心は傾けられていた。
勝姫は、
「辰丸様に何かあったの!? 早く言いなさい!! 」
と、一人いきり立っては、父親の定勝になだめられている。
ますます萎縮してしまった佐彦であったが、なおも定満に優しく促されると、ぽつりぽつりとここへ来た理由を話し始めたのだった。
………
……
「なんと……それは困った事になったのう……」
定満は佐彦から困り事を聞くと、思わず目を丸くしてしまった。
そしてその困り事の内容とは、辰丸の上洛の旅のことであった。
なんと辰丸は、旅の道中で世話をする同行者を定めぬままに、彼の屋敷で働く下男、下女の全員に旅の期間分の暇を出してしまったというのだ。
元より一人で屋敷に残るつもりでいた佐彦は、辰丸と同行する事が出来るが、いかんせん彼一人では面倒を見切れるものではない。
荷物持ちに、着替え、馬の乗り換えに寝泊まりする宿の確保、そして食事……
それら全てを自分自身の事は全て自分でまかわなくてはならないのだから、その仕事量の多さは想像するに易い。
同じく上洛の旅へ出る定満にしても、五人も同行させるのだ。
宿や馬の手配については、定満が辰丸の分も、ついでに面倒を見ることが出来ても、その他の事まで気を回すことは不可能なこと……
――最低でもあと二人はいる……
そんな風に定満が考えていると、佐彦は本当に困ったように小さな声で続けた。
「しかし辰丸様は、『もうどうにでもならない事をくよくよ悩んでいても仕方ない。お主には悪いが、私とお主の二人で出来る事をすればよい』と、どこまでも悠長な事を言っておられるのです」
「ふふっ、あやつらしいな」
「お父上! 笑いごとではございません! まったく、辰丸様といい、お父上といい、一体どこまで呑気なのですか! 」
「そうかっかするでない。若いうちから皺が……」
顔を青くしている佐彦をよそに、無為な言い合いを続けている父と娘。
そんな二人を見て、定満は大きなため息をついた。
そして、定満は一つの決断を下したのだった……
「もうよい! 定勝、それにお勝! 」
定満のひと際大きな声に、思わず目を大きくする父娘。
定満は彼らに対して、一つ命じたのであった。
「お主らが辰丸の世話役となって同行いたせ」
と――




