孤城落日……消えゆく威光⑤
◇◇
永禄元年(1558年)8月10日 夜ーー
評定が終わった後、全ての重臣たちが部屋を出たところで、末席に座っていた辰丸も、ようやく席を立った。
既に辺りは夜の帳が下りており、冷んやりとした空気が漂っている。
ようやく終わった……
すごく長い一日だった…
ふと肩の力が抜けると、頭に浮かんできたのは、自分の屋敷の中。
居心地の悪さゆえ、あまり過ごすことのないその部屋が、なぜか今はすごく恋しく思えてならないのだから不思議なものだ。
そして……
そこで待つ人々の笑顔……
佐彦をはじめとする下男、下女の面々。
その中にあって、一人別世界の輝きを放つ天真爛漫な少女……
「お勝殿……」
心身共に疲弊しきった今、我が屋敷とそこで待つ勝姫の姿は、彼にとって柔らかな温もりを与えてくれる陽光のようなものであった。
「はて……いつの間に……」
辰丸はそう漏らすと頭を傾げた。
彼自身も不思議なのだ。
いつの日からだったのだろう。
あれ程嫌がっていた屋敷とそこで働く人々、
そして……
何かとお節介を焼いてくれる勝姫……
自分の居場所が、彼らになったのはーー
辰丸は一人残された広い部屋を、ゆっくりとした足取りで出た。
……と、そこに待ち受けていた人々に、彼は目を丸くした。
宿老、宇佐美定満と、その息子宇佐美定勝の二人であった。
辰丸は慌てて姿勢を正そうと、裾を伸ばした。
しかし、定満は穏やかな笑顔で手を振ると、辰丸に声をかけた。
「そう固くならんでもよい。
ところで、初めての評定はいかがだったかな? 」
辰丸は急に振られた問いかけに、少しだけ考え込むと、さらりと答えた。
「はい、ずっと緊張しておりましたので、少し疲れました」
「そうか、そうか。素直でよろしい」
定満はそう笑顔を見せると、辰丸の肩を皺だらけの手でポンポンと叩いた。
辰丸はその手の温もりに、強張らせた肩の力をふっと抜いた。
すると側にいた定勝が、少し焦ったように口を開いた。
「おいおい、親父殿。悠長なことを言っている場合ではないだろ? 」
「そうであったな。
よし、辰丸。わしについてきなさい」
定満の言葉に、てっきり帰路につくとばかり思っていた辰丸は、戸惑いを覚えた。
しかしそんな彼をの背中を定勝は、優しく押しながら、
「安心しな。取って食われる訳じゃねえから」
と、低い声で言った。
すると定満がジロリと息子のことを睨みつけると、小言を漏らしたのだった。
「こら! これから関東管領様にお会いしに行くというのに、なんたる無礼な物言いか! 」
「え……? 」
辰丸は定満の口から出た「関東管領」という言葉に、思わず顔を強張らせて固まってしまったのだった。
………
……
関東管領ーー
それは室町幕府が置いた役職の一つで、今は上杉憲政なる人物がその任に当たっている。
元より京都にある幕府。
関東から東北にかけての支配は困難を極めた。
そこで初代室町幕府将軍の足利尊氏は、鎌倉に『鎌倉府』を置き、『鎌倉公方』という役職を置いて、関東の支配を強めた。
そしてその鎌倉公方を補佐する役目が『関東管領』であった。
しかし時代と共に鎌倉公方と関東管領は対立していくようになると、ついには関東管領が鎌倉公方を倒し、鎌倉府を取り壊す事態となった。
こうして『関東管領』は、言わば関東の支配者として、越後、上野、下野、武蔵(現在の埼玉県、東京都)、常陸(現在の茨城県)、上総、下総(上総と下総を合わせて現在の千葉県)、そして相模(現在の神奈川県)にまで、その威光を輝かせていたのだった。
しかし……
昇る陽は必ず落ちるように、関東管領の眩しい光も時代の流れとともに陰りが見え始めた。
そしてその光を完全に覆い隠さんとする者が現れることになるのである。
それが後北条氏の当主、北条氏康。
『相模の獅子』とあだ名された彼はまさに破竹の勢いで相模から武蔵一帯へその支配を伸ばしていった。
そしてついに『河越夜戦』という上杉憲政方との一大決戦で北条氏康が勝利を収めると、鎌倉公方を再興した古河公方を傀儡とする。
すなわち『鎌倉公方の後見人は北条氏康である』という大義名分をもって、関東管領の支配地への侵略を開始したのだ。
さらに北条氏康は甲斐の武田晴信と連携した。
晴信が巧みに上杉憲政の軍勢を信濃国に引き出すことで、上杉軍の戦力は低下の一途を辿る。
すると武蔵国の主だった国衆たちは、北条氏康に降伏し、瞬く間に北条氏による武蔵国支配は完成した。
武蔵を追われた上杉憲政は、上野の平井城に逃れるが、ついにその城も北条氏康に追われ、上杉氏の後見とも言える長尾氏、すなわち長尾景虎を頼って越後に流れてきたのであった。
つまりこれから辰丸が謁見をする相手は、立場上は長尾景虎よりも上であり、言ってみれば室町幕府の要職についている人なのだ。
その上杉憲政が辰丸の噂を聞きつけて、是非会ってみたいと言うのだ。
つい最近まで田舎の農民の一人として過ごしていた辰丸にとっては、雲の上の人とも言える存在。
固くなるな、という方が無茶というものだ。
辰丸は定満に連れられて、とある部屋の襖の前までやって来た。
うっすらと襖の隙間から光が漏れており、この中に上杉憲政がいることは確かだ。
そして宇佐美定満が、張りのある声で中に向かって言った。
「お屋形様、辰丸をお連れ参りました」
中から景虎の短い声が聞こえてくる。
「入れ」
「はっ! 」
定満が静かに襖を開けた。
平伏している辰丸は、頭上に光が溢れてきたことだけを感じていた。
そして……
「頭を上げよ」
という景虎の命と同時に、辰丸はゆっくりと顔を上げた。
その視界に飛び込んできたのは……
上杉憲政の姿。
ーーなんと……哀れな……
辰丸は彼を一目見た印象は、「哀れ」の一言であった。
歳は景虎よりも七つ上。
それでも三十五歳と言えば、男盛りで、もっとも輝きを放つ歳と言っても過言ではないはずだ。
しかし目の前の男はどうであろうか。
烏帽子からわずかに覗かせた髪は、既に白い。
こけた頬に、顔の堀は深く、顔全体から彼の苦難に満ちた半生がうかがい知れる。
そして何よりも灰色の目……
まるで死んだ魚のように、生気を感じることが出来ないではないか……
「お主が辰丸か。景虎殿から噂は聞いておったぞ。
さあ、近う寄れ」
脆さを感じる細い声。
辰丸は言われるがままに、男の前まで膝を進めた。
「辰丸にございます。以後お見知り……」
そう辰丸が挨拶をしかけた時だった。
ーーバッ!
突如として憲政が辰丸に抱きついたのだ。
「関東管領様!? 」
辰丸は驚きに目を丸くして憲政に声をかけた。
しかし憲政は辰丸を抱きしめたまま、離すことはなかった。
そして……
憲政の肩が小刻みに震え始めたのである。
それは明らかに、彼が涙で頬を濡らしている証であった。
辰丸はかける言葉を失った。
ーーうううっ……
しばらく憲政の嗚咽が続く……
景虎も定満も目を細めてその様子を、静かに見守っている。
触れたら崩れてしまいそうに細い腕。
辰丸の力でも振り解こうと思えば、あっさりと振り解けるであろう程に、弱々しい力。
それはまるで……
生ける屍……
しばらくした後、少し落ち着きを取り戻した憲政は、消え入りそうな声で言った。
「取り乱してすまぬ……」
「いえ……」
辰丸はそう答えるのが精一杯であった。
すると憲政の方から、取り乱した理由を語り始めたのだった。
「龍若丸が生きておったら……お主と同じくらいの年頃でな……」
「龍若丸様……? 」
辰丸の疑問に、景虎が答える。
「関東管領様の御嫡男だ」
辰丸は目を見開くと、憲政は再び涙を床に落としながら、震える声で続けたのだった。
「われだけ……われだけ生き延びてしまったのだ……妻も子も、兵も、家臣も……みな殺されてしまったというのに……
もう……わしは……ううっ……」
最後は言葉にならずに泣き崩れる憲政。
すると景虎は、部屋の外で控えている小姓に「関東管領様がお休みになられる。寝室にお連れしろ」と、命じたのだった。
二人の小姓に抱えられながら、ふらふらとした足取りで部屋を退出していく上杉憲政。
辰丸はその背中に向けて頭を下げていた。
そして、これと言った会話らしい会話もなく、上杉憲政は姿を消したのだった。
「お屋形様、関東管領様は……」
「言うな、辰丸」
辰丸の言葉を遮った景虎は、ちびちびと一人酒を飲み始めた。
その表情は暗く、哀愁を漂わせていた。
しばらくの間、誰も何も言葉を発さない静寂が部屋の中を包む……
しかし、景虎と辰丸、そして定満の三人とも、言葉に出さずとも、考えは同じであった。
それは上杉憲政に対する憐憫の情。
上杉憲政の心は……
跡形もなく粉砕されたのだ……
もう二度と立ち上がれない程に……
『相模の獅子』北条氏康によってーー
辰丸は急に襲ってきた寒気に身震いを覚えた。
それは未だ目にしたことのない北条氏康への恐怖。
そして、天下騒乱の本質も同時に見たのである。
それは孤城落日。
すなわち消えゆく威光に他ならなかった――




