03 ハニートラップ
その夜。ソフィアは熱を出した。途切れ途切れの眠りの中で、何度も熊に首を絞められる夢を見た。あるいは、黄昏の恋人達が大人の口付けを見せつける。
苦しみに喘ぐソフィアの額に、大きな手が乗せられた。父だと思って、辻褄の合わない文句を垂れた。
「あの人、恋人がいるのよ。私が悪者みたいじゃない」
「ソフィアは悪くないよ」
「じゃあ、誰が悪いの?男子を産めなかった王妃様や側妃様?どうして女ばかり…ああ、いたわ。悪い奴らが。ミクロスの人買いよ。殲滅してやる」
「君がしなくて良い。俺がするから」
「熊を森に返してあげて…お願い」
「もう無理かな。でも、ありがとう」
◇
結局、1週間程、学園を休んだ。登校を再開した日、ソフィアは遅刻して行ったので、熊とは昼休みに会った。
「元気になってえがったね!ソフィアぢゃん!」
安定の訛りだが、どこか違和感を感じる。ややあって、体積が減っているのに気づいた。
「痩せた?」
「よぐ分がったな。体絞れって言われで。ダイエットって言うの?やらされでんだよ」
「普通に食べて良いの?」
「激しぇ運動しねばええって。んだども、午後さ剣術の授業があるんだよ。キツぇんだよなー」
ヒルデガルドやフィリップ、その他大勢で食堂に行くと、熊は更に馴染んでいて、派閥以外の生徒とも挨拶を交わしていた。不思議に思っていたら、従兄が説明してくれた。
「最近、剣術の授業で、殿下がエルネスト・チェドラスを倒したんだよ。学園一の剣士の鼻っ柱を折ったのさ。そうしたら、奴を煙たがっていた連中が大喜び。エルネストは激怒して何度も殿下に挑戦したけど、全然勝てなくて。面白かったよ」
ソフィアが休んでいる間に、色々あったらしい。フィリップと話していると、大柄な黒髪の男子生徒がズカズカと近づいてきた。見た目も性格も親に瓜二つ、黒髭将軍の息子エルネスト・チェドラスだ。彼は熊を指差した。
「ウォルフガング!今日こそ決着をつけるぞ!」
「面倒ぐさぇなあ。先生も言っていただべ。おいのは、猪どが狼が相手だんて、勝ぢも負げもねんだよ」
「チェドラス流の誇りにかけて!獣以下の扱いは許せん!表に出ろ!」
熊は深いため息をついて、上着を脱いだ。
「しつこぇ男だな。せば相撲で勝負だ」
「おお!望む所だ!」
二人は中庭に行ってしまった。チェドラス家の派閥の生徒もワイワイとついていく。ソフィアは呆気に取られた。フィリップの話では、毎日こうらしい。
「殿下の応援に行きましょうよ」と、多数の女生徒達も流れていく。『がんばれ♡ウォル様』と書かれた扇を持っている。従兄は肩をすくめた。
「言っただろ?モテるって」
ヒルデガルドもお茶を飲みながら、
「当然よ。始祖マグナスは魅了持ちだもの」
と胡散臭い説を唱える。ソフィアは熊の上着を拾って中庭に行った。そして黄色い声援の中、改めて観察した。かなり痩せたが、大柄なエルネストとぶつかってもびくともしない。それどころか、投げ飛ばしている。
「クソっ!次の剣術の授業で勝負だ!逃げるなよ!ウォルフガング!」
往生際の悪い男は、泥だらけで去っていった。熊派?の生徒達が勝鬨をあげる。その後、騒ぎを聞いた教師が駆けつけてきて、生徒は散らされた。ソフィアは、熊に上着を渡すついでに、ハンカチも貸した。汗まみれだから。
「ありがとう。洗ってがら返すよ」
「結構よ。あげる。ところで、彼はなぜ、貴方を呼び捨てにするの?」
「別さ構わね」
「駄目。剣術の授業でもコテンパンにして、『次からお前を黒犬と呼ぶ』って言いなさい」
「犬は可哀想でねが?」
「何でも良い。二度とあの無礼者に舐められないように」
熊は笑って騎士の礼をした。
「仰せのままに」
と言って鼻にハンカチを近づける。その色っぽい仕草に一瞬、どきりとしたが、
「臭ぇ。おいの汗の匂いしかしねや」
錯覚であった。帰りの馬車で聞いた話では、ボロ負けしたエルネストに、『今度がら、おめのごど“チェ”って呼ぶがらな。アビエスん方言で犬って意味や』と言ったそうだ。
◇
日々は流れ、気づいたら試験期間が迫っていた。食後の茶を飲みながら雑談していた時、熊も一緒に試験を受けると聞いて、ソフィアは驚いた。
「全教科?まだ通い始めて3ヶ月じゃない。無理でしょ」
「んー。でも、先生がええっつってらよ?」
よくよく考えれば、元木こりが、1年弱で卒業資格など取れるわけがない。最初から成績は期待していないのかも。それでも点数は張り出される。
ソフィアはビシッと命じた。
「王族が最下位なんて、あり得ない。今日から居残りで勉強するわよ」
熊は不服そうだ。どうせ王城に帰ったって、暇だろうに。彼女は熊を睨みつけた。
「何?可愛い侍女でもいるわけ?早く帰りたい程の?」
「そんたのいねよ。ソフィアぢゃんが一番めんけさ」
「めんけ?」
「可愛い。分がったよ。勉強せばええんだべ」
それを聞いていたフィリップが申し出る。
「僕が文章術を担当するよ。ヒルデガルドもどう?数学、得意でしょ?」
「ソフィアが歴史を教えてくれるなら」
と言う流れで、3人がそれぞれの得意教科を熊に教えることになり、その日の放課後から、自習室で勉強会を始めた。
◇
思ったより熊は賢かった。記憶力も良いし、訛りが抜けないくせに、文章はスラスラ書く。目標を50位以内に引き上げ、毎日、校門が閉まるギリギリまで居残った。その分、自分の勉強時間が削られる。ソフィアは深夜まで机に向かっていた。
試験前日。さすがに疲れが溜まってきた。自習室で皆を待つ間、ソフィアはウトウトしてしまった。ガクンと頭が落ちて眼が覚めると、隣の部屋から熊の声がした。
「はあ?おめとは初対面だべ?」
よく聞こえない。ソフィアは一旦廊下に出て、隣の部屋のドアに耳を寄せた。
「ずっとお慕いしてたんです。でも、いつもソフィア様達と一緒で…」
女だ。
「そりゃあ、婚約者だんてな。…あれ?なして脱ぐの?」
ガタンと何かが倒れる音、それから「やめれ!」という声。ソフィアがドアノブを掴んだ時、ヒルデガルドに腕を押さえられた。彼女は口の前で人差し指を立てて『静かに』のジェスチャーをする。二人はそっとドアを開けて、中に入った。
ブラウスの前をはだけた女生徒が、熊に乗っている。怒りのあまり、ソフィアは叫んだ。
「おどき!女狐!」
ハッと顔を上げた隙に、背後に回ったヒルデガルドが、ハンカチを女狐の口に当てる。すると、女は気を失った。熊はその体を受け止めた。
「ありがとう。助がったよ。んだども、誰だべ?」
「さあ。見た事のない顔ですが、完全にハニートラップですね。ふう、昏睡魔法が効いて良かった」
ヒルデガルドが、また適当な事を言った。薬剤を嗅がせただけなのに。
「ソフィアぢゃん、わりぇんだども、この子の服直してけでくれる?」
渋々、ソフィアは女狐のブラウスのボタンを止めて、上着を着せた。そこにフィリップも来た。ジンク家は諜報の家系だから、女狐の正体を尋ねてみたら、知っていると言う。
「この子、マグダレーナ・ロッソだよ」
確か、ロッソ家には20代前半の嫡男がいる。ソフィアと同年代の子女がいたとは知らなかった。従兄は声を落とした。
「ロッソ公の庶子なんだ。ずっと表に出さなかったけど、最近編入してきた。怪しいから監視対象だったんだけど。思い切った手に出たね」
「とりあえず、保健室さ運ぶべ」
熊は軽々とマグダレーナ嬢を抱き上げ、保健室に運び込んだ。幸い、試験前の放課後なので、誰にも見られずに済んだ。
◇
改めて自習室に戻ったものの、とても勉強する雰囲気ではない。ソフィアは熊に説明を求めた。
「で?なぜ、こんな事になったの?」
「おいはなんもしてねよ。自習室が変更になったがらって、あの子に案内されだんだ。そしたら急に服脱ぎ出して」
「知らない人についていっちゃダメだって、習わなかった?黒犬を投げ飛ばせるのに、なんで押し倒されてるのよ!あんな単純な色仕掛けに引っかかるなんて!阿呆なの?!」
話すうちに怒りが込み上げてくる。熊は首を捻った。
「うーん。何でいうが、可哀想で押し退げられねがった。あの子、身籠ってらよ」
「はあっ?!」
ソフィアは叫んだ。ヒルデガルドは口を押さえ、フィリップは顔を顰めた。
「ほんのり熱っぽぇし、乳も張ってら」
「見たの?!」
「仕方ねべ。勝手に脱ぐんだんて。フィリップよ。あの子はどうなる?」
数秒考えて、従兄は口を開いた。
「…マグダレーナは、兄に虐待されている。ロッソ公の愛人だった母親の死後、引き取られたのが3年前。以来、奴隷同然の扱いだ。おそらく、ウォルフガング殿下に近づく為に編入させられたんだ。失敗したとなったら、始末されるかもね」
そこまで知っていながら、なぜ助けなかったのか。ソフィアが睨むと、彼は目を逸らした。
「ロッソ家は五大老家だ。彼女自身が訴えるならともかく、介入なんてできないよ」
重い沈黙が支配する。熊以外、この場にいる全員が、五大老家の恩恵を受けてきた身だ。目を瞑らねばならないと、頭では分かっている。でも、我慢できない。ソフィアは勢いよく立ち上がった。
「ウォル。マグダレーナ嬢を馬車に運んでちょうだい」
「分がった」
「ソフィア?!」と驚く従兄に、宣言する。
「今日から私の家に泊める。ロッソ家には帰さない。ヒルデガルド、明日以降で構わないから、神殿付属病院の医者を寄越してもらえる?口の硬い人をお願い」
ヒルデガルドは黙って頷いた。勉強会はお開きとなった。熊が毛布に包んだマグダレーナを運び、フィリップがロッソ家へ使いを出してくれた。これで一応、誘拐にはならない。
よくよく見れば、なかなかの美少女である。鮮やかな赤い髪はロッソ家の直系に引けを取らないが、眠る顔は青ざめて生気がない。
馬車の中で、熊はソフィアを褒めた。
「よぐやったな。ソフィアぢゃんは正しぇ事してらよ」
「ふん。手元に置いて監視するだけよ」
憎まれ口を返したものの、気が重い。母は何とか説得できると思う。でも、父は分からない。ソフィアの不安を察したのか、熊は一緒に父の帰りを待ってくれた。
◇
思った通り、ソフィアは叱られた。マグダレーナはもう目覚めていて、父の書斎のソファで小さくなっている。『返してきなさい』とは言わなかったが、父は深いため息をついて、考え込んでしまった。
すると、だらしなく座っていた熊が口を挟んだ。
「深ぐ考える事はねよ」
「つまり?」
「しばらぐ預がってぐれよ。そのうぢ向ごうも忘れるべ。なあ。マグダレーナぢゃん。おめはどうしてゃ?家さ帰りでゃ?ここさいる方がええよ。ゼルコーヴァの母っちゃは優しぇし、閣下も人格者だ。誰もおめを虐めねよ」
更に、そっと女狐の手を取って、優しい声で言う。
「親に何で言われだが知らねんだども、今、縁切らねど、一生地獄だやぁ」
「わ…私…」
マグダレーナは流れるように平伏し、赤い頭を床に擦り付けた。
「帰りたくありません…お願いです、何でもします。助けてください…」
およそ令嬢の姿では無い。おそらく、ロッソ家では常にこうだったのだ。だが慎重な父は、なかなか頷かなかった。
「訴えられたらどうする?」
「弱み握ってらのはこっちだよ。それでもまだギャアギャア言うだば、古ぇ赤松は切るべぎだな」
「…良いだろう。ただし、拉致監禁ではないという証に、向こうの訪問は断らない」
それを聞いたマグダレーナが震え出したので、ソフィアは教えた。ゼルコーヴァ家のメイドは戦闘訓練を受けている。少しでも狼藉を働こうものなら、たとえ大老家の者でも容赦しない。
何とか話がまとまった所で、熊が腰を上げた。
「せば、そんたごどで。おいだば帰るね」
ソフィアは玄関まで見送った。そして、彼が馬車に乗る直前に、右手を差し出した。
「何?ソフィアぢゃん?」
(女狐の手は握るくせに)とは言えず、プイッと横を向いて言った。
「ありがとう。援護してくれて」
「ああ。なんもなんも。おいの方だば、ありがとね」
熊はがっつり握手をした。違う。そこは手の甲に口付けるべきだ!ソフィアは背後のメイドに『戦闘用意』の合図をした。
「はっ!」
一斉に、メイドたちがスカートの下から長ナイフを取り出す。熊は慌てて馬車に逃げ込み、
「本当だ!凄ぇな!」と言って去っていった。




