第九話 噛み砕けないモノ
大きな男だった。
ソウより頭一つ高い。
太い首から肩へ、盛り上がった筋肉が繋がっている。片手には、刃の厚い大斧のような剣を持っていた。
男は倒れた部下を見渡し、舌打ちした。
「使えねえ連中だ」
「お前が頭だな?」
「だったらどうする」
「探す手間が省けた」
ソウが剣を持ち上げると、男はその欠けていない牙を眺め、鼻で笑った。
「変わった得物だな。そいつごと売れば、少しは損も埋まるか」
男の足が沈んだ。
「俊敏」
踏み込みの土が跳ねた。
次の瞬間には、男が目の前にいた。
「――っ!」
ソウは反射的に剣を横へ立てた。
「剛力」
大鉈が叩きつけられる。
腕の骨まで響く衝撃だった。
靴底が土を削り、ソウの体が後ろへ押し流される。
踏ん張った膝が、わずかに折れた。
重い。
昨日の兵士とは、まるで違う。
男がもう一度、大鉈を振り上げる。
ソウは横へ跳んだ。
刃が地面を割った。
埋もれていた石まで砕け、頬を小さな破片がかすめる。
「ちょろちょろすんな」
「でけえだけじゃねえらしいな」
ソウは剣を握り直した。
赤い魔力が腕を伝い、フェンリルファングへ流れ込む。
振り返った男の脇腹へ、牙を走らせた。
「不動」
男が左腕を下げる。
厚い鉄の腕当てが、牙を受けた。
ギャギャギャギャ――!
鋭い音が、拠点に響いた。
牙は動いていた。
確かに食いついている。
だが、進まない。
鉄の表面を削るはずの牙が、同じ場所を滑り続けている。
ソウは腰を入れ、さらに押し込んだ。
パキッ。
小さな破片が頬の横を飛んだ。
ソウの目が細くなる。
欠けたのは、相手の腕当てではなかった。
「ソウ! そのままでは相手より先に剣が壊れるぞ!」
ルーンの声が飛ぶ。
男が笑った。
「いい音だ」
ソウは剣を引き剥がし、後ろへ下がった。
すぐさま大鉈が、その鼻先を通り過ぎる。
フェンリルファングの先端を見る。
牙が一つ、半ばから折れていた。
「……ラグナロクが効いてねえ」
「打ち消す魔法が、外に出ておらん。ラグナロクで無効にできるのは、放出系の魔法だけじゃ」
ルーンは小屋の前に立っていた。
その後ろでは、縄を解かれた人々が身を寄せ合っている。
「あれはトリシューラじゃ。バイラヴァに由来する力で、自らの肉体や装備を強めておる。飛んでくる魔法とは違うぞ」
「硬くなった腕は、ぶん殴るしかねえってか」
「今の牙で試すのは、勧めん」
「そっちの女の方が、魔法に詳しいみたいだな」
男が肩に大斧を載せた。
「助けてもらえよ。そっちの女に」
ソウの背後で、リナが小さく息を吸った。
ルーンは動かなかった。
ただ、ソウへ目を向けた。
ソウは剣を下ろさないまま言った。
「ルーン。そいつらを頼む」
「……承知した」
「おまえが俺の相手をするのか」
「ああ、続きといこう」
ソウは口の端を上げた。
「じゃあ、死ね!」
男が踏み込んだ。
速い。
ソウは刃を合わせず、左へ逃がした。
大斧が肩をかすめ、服が裂ける。
痛みを無視して、伸び切った腕へ牙を返す。
男が腕を引き、体を固めた。
再び、嫌な音がした。
ソウはすぐに剣を離した。
もう一つ、小さな牙の欠片が土に落ちる。
「どうした。さっきの勢いは」
大斧が横へ薙がれる。
ソウは屈んだ。
頭上を通った刃が、背後の柵をまとめて切り飛ばす。
木片が降った。
速さも、力も、硬さもある。
まともに噛み合えば、こちらの剣が先に終わる。
ソウは後退しながら、男の足を見た。
男が追ってくる。
その一歩目は、やはり異様に速かった。
だが、大斧を振るう直前。
踏み込んだ足が、深く土へ食い込む。
振り下ろされる刃を避け、ソウは切っ先だけを顔へ向けた。
男が止まる。
顎を引き、肩を固める。
ソウは触れる前に剣を引いた。
「……?」
男の眉が動いた。
ソウはもう一度、短く突いた。
狙いは腹。届かせる気はない。
男が再び、足を止めた。
ソウの目が、その膝と腰を追った。
追うときは速い。
振るうときは重い。
受けるときは硬い。
硬いまま追ってはこない。
追っている間に、あの一撃は出していない。
さっきから、必ず動きが切り替わっている。
「なんだ。急に臆病になったか」
男が大斧を振る。
ソウは下がった。
わざと、少し大きく。
男の目が開いた。
逃がすものかというように、上体が前へ出る。
その顔を見て、ソウの中で何かが繋がった。
「……なんだ」
荒い息の間から、笑いが漏れる。
「魚と同じじゃねえか」
「あ?」
大物ほど、力任せに引いてはいけない。
逃げる向きがある。
餌を追う間合いがある。
食いつく直前に、体がわずかに曲がる。
水面の下まで見えなくても、わかることはある。
糸の張り。波紋。影の向き。
目の前の男は、それよりずっとよく見えた。
ソウは横へ回り込んだ。
男も向き直る。
小屋を背にしない位置まで移動し、足元の石を踏んで確かめる。
「逃げ回ってばかりじゃ、俺は倒せねえぞ」
「そうだな」
ソウはフェンリルファングを大きく振りかぶった。
肩より高く。
腰をひねり、足を踏み出す。
これまでで一番、わかりやすい一撃だった。
男の口が歪む。
「懲りねえな――不動!」
腕当てが持ち上がる。
両足が開かれ、巨体がその場に据わった。
ソウの剣が、そこへ落ちていく。
牙が触れる、その直前。
ソウは踏み出した足で体を止め、刃筋を外へ逃がした。
牙が腕当ての脇を通り過ぎる。
空を切った剣先が低く下がった。
男の目に、ソウの開いた胸元が映った。
「――怖じ気づいたか!」
守っていた左腕が下がる。
後ろの踵が浮いた。
上体が、前へ傾く。
来る。
ソウはすでに剣の柄を返していた。
「俊敏!」
男が飛び込んでくる。
その踏み込みより早く、ソウの牙は進路に置かれていた。
「そこだ」
短い軌道。
大きく振る必要はなかった。
相手が、自分から間合いを潰してくれる。
男の目が見開かれた。
フェンリルファングが脇腹へ食いつく。
今度は、牙が止まらなかった。
「不動――!」
「遅え!」
ソウは両手で柄を握り、腰を回した。
牙が噛み込み、巨体の勢いを横へ引きずる。
「喰らいつけ、フェンリルファング!」
男は大鉈を振り下ろす姿勢を崩されたまま、地面へ叩きつけられた。
土が跳ねた。
大斧が手を離れ、石に当たって鈍い音を立てる。
ソウは剣を引き抜いた。
一歩離れ、切っ先を向けたまま待つ。
男の指が、地面を掻いた。
何かを言おうと口が開く。
だが、その腕は体を持ち上げられなかった。
ソウは荒く息を吐いた。
「魚が食いつく瞬間ってのはな……」
男の手から、力が抜ける。
「動く前から、わかるんだよ」
返事はなかった。
しばらくして、風が戻ってきた。
焚き火の煙が流れ、切り飛ばされた柵の向こうへ薄く散っていく。
ソウはようやく、剣を下ろした。
◇ ◇ ◇
「ソウおじちゃん!」
リナが駆け寄ってきた。
その後ろから、ルーンがゆっくりと歩いてくる。
捕らわれていた人々も、小屋の外へ出始めていた。
リナはソウの前で止まった。
裂けた肩の服を見上げる。
「血、出てる」
「これくらい、魚のひれでも切れる」
「でも……」
「お前は怪我してねえか?」
リナは頷きかけ、それから手首を隠した。
ソウは見えていないふりをした。
「親父は、どうした?」
「……海の化け物から逃げる途中で、はぐれちゃって……」
声が不安そうにまた細くなる。
ソウはリナの頭をそっと撫でた。
「わかった。まず、ここの連中に聞く」
リナが服の裾を掴んだ。
「ソウおじちゃんも、いなくならない?」
ソウは少女を見下ろした。
港では、聞かれたことのない問いだった。
「いなくならねぇよ」
そう言って、リナの頭へ手を載せる。
「ちゃんと、俺様がお前の親父のとこまで連れて帰ってやる」
リナは俯いたまま、何度も頷いた。
ルーンがソウの隣に立つ。
視線は、その手の剣に向いていた。
「見事じゃったな」
「硬いだけの奴だった」
「肩を切られ、剣を欠かしてから言ってものう」
「うるせえ」
ソウは剣を持ち上げた。
魔力を注ぐとフェンリルファングの牙が、ぎこちなく動いた。
いつもの滑らかな唸りではない。
途中に一度、何かが引っかかる音が混じる。
ソウの眉が寄った。
白銀の軍艦で兵士の武器を噛み砕いた。
海竜へ振るい、そのまま荒れ狂う海に呑まれた。
そして今、噛み切れない腕当てへ何度も押しつけた。
刀身の根元に、細い線が走っていた。
「……おい」
ソウが声を漏らしたとき、牙が一つ落ちた。
石の上で、小さく跳ねる。
リナが足元を見た。
「剣が……」
「ああ、もうダメみたいだな」
もう一度、柄へ力を込める。
連なった刃が震えた。
だが、先端まで動きは伝わらなかった。
ソウは魔力を引いた。
開いていた牙が閉じていく。
途中の一枚だけが、元の位置へ戻らず斜めに残った。
ルーンが、その亀裂を覗き込む。
「これ以上は、やめておけ」
「まだ動く」
「次に噛ませた瞬間、折れるかもしれんぞ。折れたらその牙が食い込むのは、お前さんじゃ」
ソウは答えなかった。
ついさっきまで、自分の腕の続きのように動いていた剣だった。
欠けたところへ指を近づけ、触れる前に止める。
直し方など、知らない。
網なら繕える。
銛なら研げる。
だが、この剣の中で何が壊れたのかは、見てもわからなかった。
「……鍛冶屋か」
「町で聞いてみることじゃな。ただ魔法剣じゃからの、直すだけでも安くはないぞ」
ソウは傷んだ剣を慎重に下ろした。
船代。
飯代。
それに今度は、剣の修理代。
「金ってのは、稼ぐ前から減ってくんだな」
「ようやく世の中がわかってきたようじゃ」
「ろくでもねえな、国外ってのは」
ルーンが小さく笑った。
「さあ、他のやつら助けて、金をもらいにいくか」
ソウはその横を通り、奥の建物へ向かった。
裾を掴んだリナも、遅れまいとついてくる。
歩幅を少しだけ狭めたことには、自分でも気づかなかった。




