第六話 見知らぬ国
砂浜を離れ、森の小道を歩き始めてから、どれくらい経っただろうか。
木々の切れ目から見える空は、すでに高い位置まで陽を昇らせていた。ソウは肩に剣を担ぎ直し、前を歩くルーンの背中を眺めた。黒と深紅の衣装の裾が、草をかすめて揺れている。足音はほとんどしない。人間の歩き方ではなかった。
「で、ここは本当にクラウドラなのか」
「そうじゃ。サンライズからは北へ、かなり流されたな。海竜の波に巻き込まれておるからのう。よく生きておった」
「生きてるのはいいが……ここ、サンライズと全然違うじゃねえか」
森を抜けると、小さな街道に出た。石を敷き詰めた道。両側には木造ではない、白い壁の建物が並んでいる。屋根の形も、窓の大きさも、港町のそれとはまるで違う。道を行き交う人々は黒髪が多く、服も布の質が違った。
ソウは思わず足を止めた。
「……国外、か」
生まれて初めて、自分の国の外に立っているという実感が、胸に落ちてくる。サンライズの海しか知らなかった男にとって、これはあまりにも急な変化だった。
ルーンが振り返り、面白そうに目を細める。
「初めてかの? 国外というものに」
「当たり前だ。漁師がよその国まで出てどうする」
「まあ、普通はそうじゃな。だがおまえさんは普通ではないからのう」
「褒め言葉には聞こえねえ」
「褒めてなどおらんよ」
ルーンはくすりと笑うと、また歩き出した。ソウは舌打ちを一つして、その後に続く。街道を進むにつれ、人の往来は増えていく。露店が出始め、見慣れない果物や布が並んでいる。香辛料のような、鼻を突く匂いが風に乗ってきた。
「腹が減った」
ソウがぶっきらぼうに言うと、ルーンは足を止めもせずに返事をした。
「わらわの食事は魔力だからのう。お前さん、金はあるのか?」
「あるわけねえよ」
「ならば買うことはできんのう」
「ならどうすんだ」
「我慢するんじゃ」
「役に立たねぇ女だな」
「お前さんこそ、失礼な男じゃのう。助けてやって、案内までしてやっているというのに。それにわらわなら、そこらの誰ぞから血を少し分けてもらえば済むのじゃが」
「俺は血じゃ腹膨れねぇよ」
「人間は不便じゃのう」
「お前に言われたくねえ」
ソウは不思議と、この調子の狂った会話に疲れを感じなかった。むしろ、見知らぬ街を歩く緊張を、わずかに紛らわせてくれている。
やがて街道は小さな広場に出た。中央に泉があり、その周りを人々が行き交っている。ソウは泉の縁に腰を下ろすと、剣を横に置いて水を飲んだ。ルーンもその隣に、優雅に座り直す。
「サンライズとは、街の作りからして違うな」
「当然じゃ。国が違えば、石の積み方からして違うものよ。おまえさんの国は木と海の匂いがしたが、ここは石と香辛料の匂いがする」
「帰る方法はねえのか」
「歩くには遠すぎるの。馬車もサンライズまでの荒野は辛い。船を用意すれば帰れるじゃろう。ただし、船は金で動く。金がなければ、おまえさんはここに居残るしかないの」
ソウは黙って空を見た。雲の形も、サンライズの海の上で見ていたものとは違う気がする。ゲンやトウヤは無事だったか。リナや町は無事なのか。何もわからないまま、自分だけがこんな場所にいる。
「沈んだ顔をするでない」
ルーンが横から言った。
「死んだわけではあるまい。帰るための手段を、これから考えればよいだけの話じゃ」
「簡単に言うな」
「簡単なことじゃ。おまえさんにはラグナロクがある。力がある者は、力で道を開けばよい」
「力で船が手に入るかよ」
「入ることもある。入らないこともある。どちらにせよ、座って空を眺めていても船は来んからのう」
ソウは小さく息を吐き、腰を上げた。ルーンもすっと立ち上がる。その動きは、風のように軽い。
「で、どこに行くのじゃ」
「まずは人の多い場所へ行くか。情報は人の集まるところに落ちているからな道案内頼む」
「仕方ないの。わらわもそれほど詳しくはないのじゃがな」
ソウはルーンの後について歩き出した。見知らぬ国の石畳が、靴の底に硬い感触を返してくる。
二人の距離は、言葉の応酬のたびに、わずかに縮まっていっていた。
そのことを、ソウはまだ明確には意識していなかった。
◇ ◇ ◇
ルーンの案内で、無骨な建物にたどり着いた。
「ここは、ギルド。いわゆる仕事の斡旋所じゃな。その日払いも多いときく」
「へー」
ソウの町にはない施設だ。
両開きの扉は大きく開け放たれていた。
中から聞こえるのは、幾つもの話し声と、何かを言い争う男の声。壁際には縄で縛られた荷物が積まれ、土のついた長靴を履いた者もいれば、腰に剣を下げた者もいる。
ソウが足を踏み入れると、近くの卓にいた男が顔を上げた。
視線が黄金の髪に留まり、それから肩に担いだ剣へ移る。
「なんだ」
ソウが見返すと、男は黙って手元の杯に目を戻した。
「いちいち睨むでない。話が進まんじゃろ」
「向こうが先に見てきたんだよ」
「見るくらいは許してやれ」
ルーンは気にした様子もなく、奥の壁へ歩いていった。
そこには、大小さまざまな紙が貼り付けられていた。
端が丸まったもの。新しい釘で留められたもの。上から文字を書き直したものまである。
ソウは近づき、順に目を走らせた。
倉庫から荷車への積み込み。
商店の荷運び。
街道の崩れた石の撤去。
用水路の泥さらい。
「……俺様に荷物運べってのか?」
「金がないのはおまえさんじゃろ」
「俺は漁師だ。海の仕事しかする気はねぇ」
「わがままな奴じゃな。よその国じゃぞ。そんな希望通り斡旋はしてくれんじゃろ」
「ならもっと一度に稼げる仕事はないのか」
「荷物を人の三倍運べばよい」
「そういう話じゃねえ」
隣に貼られた紙をめくる。
その下も倉庫整理だった。
漁の仕事なら、まだ話が早い。船を出し、魚を獲り、水揚げに応じて分け前をもらえばいい。
だが、この町では海の匂いすらしなかった。どちらに港があるのかもわからない。
ソウは眉を寄せたまま、掲示板の端まで進んだ。
そこで、一枚の紙に目が留まった。
他の仕事とは、報酬の桁が違う。
「……山賊団討伐」
紙の下半分には街道と山道の簡単な図が描かれていた。
商隊への襲撃。積荷の強奪。旅人の失踪。
確認された人数は、二十人以上。
ソウは紙を指で叩いた。
「これでいい」
ルーンが横から覗き込む。
「二十人以上おるぞ?」
「昨日はもっといた」
白銀の甲板を埋めていた兵士たちが、脳裏をよぎる。
鎧も、盾も、揃いの剣も持っていた連中だ。それに比べれば、山の中で荷車を襲う二十人など、面倒な数には思えなかった。
「昨日、それで海に放り出された男の言葉とは思えんのう」
「あれは竜のせいだ」
ソウは依頼書を外し、奥の窓口へ持っていった。
「これをやる」
机の向こうに座っていた女が、依頼書とソウの顔を交互に見た。
「討伐依頼ですね。お仲間は何人ですか」
「俺様と、こいつ」
「数に入れるなら、先に相談せい」
ルーンが隣で笑う。
女は笑わなかった。
「二人ではお勧めできません。戻ってきた護衛の話では、山賊の頭は魔法を使います」
「問題ねぇよ」
異国の侵略者も魔法を使っていたが、ソウには効かなかった。
「そいつを倒せば、金が出るんだな?」
「……頭だけを倒しても、残党が街道を荒らしては困ります。根城を制圧していただく必要があります」
「全員、倒せばいいんだな」
「捕らわれた人がいる可能性もあります。こちらは生還した人の証言も確認しますので、勝手に荷物だけ持ち帰って――」
「わかったって」
ソウは机に片手をついた。
「場所を教えろ。俺は金がいるんだ」




