第五話 古の吸血鬼
最初に感じたのは、耳の奥でくぐもる波の音だった。
次に、頬に触れる冷たい砂の感触。体が重い。肺の奥に残った海水を吐き出すように咳き込むと、塩辛い水が口から溢れた。ソウはゆっくりと目を開けた。
見知らぬ空があった。
サンライズの空よりも白っぽく、陽の光は柔らかい。風が違う。塩の匂いに、見慣れない草木の匂いが混じっている。
「いてて……」
体を起こそうとして、右腕に鈍い痛みが走った。服は裂け、肌には浅い傷が残っている。紅い剣は、握ったまま流されてきたのか、砂の上に落ちていた。紅い光はすでに消え、黒い鎖に繋がれた牙も動きを止めている。先ほどまで獣のように唸っていた異形の剣は、今では嘘のように静まり返っていた。
「ここは……?」
掠れた声が漏れる。周囲を見渡す。長く続く浜辺。後ろには低い崖と、その上に広がる薄い森。港の姿も、漁船の影もない。サンライズの景色ではなかった。
「ようやく目を覚ましたかの?」
声のした方へ顔を向けると、少し離れた岩場に、一人の女が腰かけていた。黒を基調に深紅と金の装飾をあしらった華やかな衣装をまとい、長い茶髪を潮風に遊ばせながら足を組んでいる。尖った耳が髪の隙間から覗き、透けるように白い肌と、その片手に止まった黒いコウモリが、明らかに普通の女ではないことを物語っていた。
それなのに本人は、まるで自分の庭ででもくつろいでいるように、優雅な仕草でソウを眺めていた。
「おまえが助けてくれたのか?」
「そうじゃな。おまえさん、なかなか美味そうな魔力を放っておったからのう。つい拾ってしもうた」
「美味しそう?」
妙なことを言う女だ。だが、命を拾ったのは事実らしい。ソウは剣を拾い上げ、砂を払った。体は動く。少なくとも死んではいない。
「まあいい。助かった。礼は言っておく」
「礼などいらぬよ」
女はどこか楽しげに目を細めた。
「それより、おまえさんの魔力を食わせてくれんかのう?」
「魔力? ああ、赤いやつのことか」
敵の軍船で仲間を傷つけられたとき、突然、身体の奥から噴き上がってきた紅い力。あのときは意識するまでもなく、怒りに呼応するように勝手に溢れ出していた。
ソウは試しに手をかざす。意識を向けると、指先にかすかな紅い光がにじむ。だがそれは、あの戦いのときのような激しい奔流にはならず、糸のように細く、頼りなく揺れるだけだった。
「うまく出ねえな」
その瞬間だった。
女がふいに身を乗り出し、ソウの手を取る。抵抗する間もなく、その指先へ、かぷりと噛みついた。
「っ……! なにしやがる!」
ソウはとっさに手を引っ込める。女は唇を離すと、舌先で血と紅い魔力の名残を舐め取り、満足そうに目を細めた。
「旨いのじゃ」
「……は?」
「舌の上でぴりりと弾ける辛み。荒々しく、焼けつくようで、それでいて癖になる」
女はうっとりとした声音で言った。
「この魔力は、ラグナロクじゃな」
「ラグナロク? なんだそりゃ」
「魔力にも性質があるんじゃよ」
女は指先を立て、講釈でも始めるように続ける。
「ラグナロクはな、憎しみや怒り――そういう激しい心を燃やして生まれる魔力じゃ。壊したい、叩き潰したい、滅ぼしたい。そういう感情が、そのまま力になる」
「滅ぼしたい、か……」
ソウは小さく鼻を鳴らした。
「心当たりはありそうじゃの」
「そりゃまあな」
女はくすりと笑う。
「魔力ラグナロクの本質は『滅ぼす』ことじゃ。他者の魔法すらうち消す」
「ああ。あの火が消えたの、それか」
「……おまえさん、自分の魔力なのになんも知らんのかや?」
「知らねえよ。今日初めて出たんだから」
「なら試しに、目の前に敵がいるつもりで言葉にしてみるんじゃ」
「言葉に?」
「そうじゃ。おまえさんの怒りを、声に乗せるんじゃよ」
「ああ? なんだそりゃ」
「いいからやってみるんじゃ」
胡散臭い女だと思いながらも、ソウは目を細めた。脳裏に浮かぶのは、海を荒らした侵略者たちの顔。仲間を傷つけ、漁場を焼き払い、当然のように奪おうとした連中の姿。胸の奥に、じわりと熱が滲む。
ソウは獣のように口元を吊り上げ、低く呟いた。
「この俺様に――滅ぼされたいのは、どこのどいつだ?」
その言葉を口にした瞬間。
どくん、と心臓が脈打った。
胸の底に沈んでいた怒りと憎しみが、一気に噴き上がる。熱い。焼けるように熱い。だが、不思議と苦しさはない。それはソウの感情を喰らい、力へと変えていく。
「……っ」
紅い光が指先から腕へ、腕から肩へ、そして全身へと駆け巡る。荒れ狂う太陽のようなオーラが、ソウの身体を包み込んだ。砂浜が紅く照らされる。潮風が熱を帯びる。女の茶髪まで、その赤に染まって揺れた。
「ほう……やはりそうか」
女が愉快そうに笑う。
「おまえさん、面白い男じゃのう。名はなんと言うんじゃ?」
「ソウだ。おまえは何者だ?」
「ヴァンパイアロードエルフのルーンじゃ」
「ヴァンパイアロードエルフ? なんだそりゃ?」
「古代種エルフにして、最古の吸血鬼」
さらりと言われたが、どうやら目の前の女は、人間ですらないらしい。
「ふーん」
「……驚かんのか?」
「海には変な生き物なんざいくらでもいるからな」
「わらわを魚と一緒にするでない」
ルーンは呆れたように息を吐いた。だが、その目はどこか楽しそうだった。
「まあよい。ソウ、おまえさんのことが気に入った。それに――」
ルーンは、先ほど噛みついたソウの指先へ視線を落とす。ぺろり、と唇を舐めた。
「この魔力、まだまだ味わってみたいからのう。しばらく、おまえさんについていくとするかの」
「勝手な女だな。好きにしろ」
ルーンは楽しそうに笑いながら言った。
「ソウよ。今後、よろしく頼むのじゃ」
波の音が、また近づいてくる。見知らぬ国の海は、サンライズの海よりも、どこか冷たく聞こえた。ソウは紅い光を収めると、砂の上に深く息を吐いた。
帰るための道は、まだ何も見えていない。




