第四話 海が割れる日
紅い牙が、甲板を駆け抜けた。
ソウがフェンリルファングを振るうたび、黒い鎖に繋がれた無数の刃が獣の咆哮を上げ、触れたものへ容赦なく食らいつく。一人目の兵士を吹き飛ばし、返す刃で甲板を抉り、その勢いのまま振り抜けば、牙は太い帆柱に噛みついて木片を撒き散らしながら半ばから噛み砕いた。
ほんの少し前まで敵兵が振るっていた白銀の魔法剣は、もはや原形をほとんど残していない。刀身の外周を巡る無数の牙は、ソウから流れ込む紅い力を喰らうほど速度を増し、次の獲物を求める魔狼のように激しく唸り続けていた。
「化け物だ……!」
誰かが震える声を漏らす。
「誰が化け物だ!」
ソウは怒鳴り返しながら、一気に間合いを詰めた。
正面に立った二人の兵士が盾を並べる。だが、フェンリルファングにとっては大した障害ではなかった。ソウが横薙ぎに剣を振るうと、高速で巡る牙が盾の表面へ食いつき、耳障りな金属音とともに鉄板を削っていく。
「止めてくれ!」
「止まるわけねぇだろ!」
ソウがさらに力を込めると、牙は同じ場所へ次々と噛みつき、表面を削り、金具を弾き飛ばし、ついには盾そのものを中央から食い破った。
バギンッ!
兵士が盾ごと吹き飛ばされ、その後ろにいた仲間を巻き込んで甲板を転がる。別の兵士が横から剣を振り下ろしたが、ソウはフェンリルファングを合わせ、そのまま相手の刃を受け止めた。
ギャリッ――!
剣同士がぶつかった瞬間、高速回転する牙が相手の剣身に噛みついた。火花を散らしながら鉄がみるみる削られ、兵士が慌てて引こうとしても、牙は獲物を逃がそうとはしない。
「離せ!」
「俺様に言うなよ!」
ソウは豪快に笑った。
「こいつが離さねえんだ!」
さらに押し込む。
バキンッ!
敵兵の剣が中央からへし折れた。
「はっはっはっ! いいな、この剣!」
戦えば戦うほど、ソウはこの異形の武器の扱い方を理解し始めていた。普通の剣のように綺麗に斬ろうとする必要はない。噛ませて、押し込み、回る牙に任せて削り取ればいい。
魚を引き上げる網とも、鯨へ撃ち込む銛とも違う。それでも、力を掛ける方向さえ分かれば扱えるという点では、海の道具とそう変わらなかった。
やがて甲板から、抵抗する兵士の姿が目に見えて減っていった。
戦闘によって板は裂け、折れた帆柱が横倒しになり、あちこちから煙が上がっている。軍船そのものもゆっくりと傾き始め、最初はソウを包囲していた兵士たちも、すでに半数以上が倒れていた。
その奥で、一人の外套姿の男が青ざめた顔をしていた。
「死ねぇぇぇぇ!」
追い詰められた男が杖を前へ突き出すと、空気が大きく歪み、その中心に巨大な火球が生まれる。先ほどまで飛んできたものとは桁が違い、幾重にも渦巻く炎の熱だけで、周囲の甲板が焦げ始めていた。
「まとめて焼き尽くしてやる!」
「うるせえ」
ソウはフェンリルファングを正面へ構えた。
火球が放たれる。
巨大な炎が甲板を舐めながら迫ってくるのを見ても、ソウは逃げようとはしなかった。フェンリルファングを振り下ろし、それと同時に全身を包んでいた紅い魔力を剣へ流し込む。
高速で巡る牙と火球が激突した。
ジュッ――!
炎が消えた。
燃え尽きたのではない。紅い魔力へ触れた部分から火球そのものが削り取られ、中央に大きな穴を開けるように消滅していく。残った炎も左右へ裂け、そのまま紅い光へ飲み込まれて跡形もなく消え去った。
「ば、馬鹿な……」
外套の男が後ずさった時には、ソウはすでに目の前にいた。
「お前で最後か?」
「ま、待――」
フェンリルファングが唸りを上げる。
男の言葉は、最後まで続かなかった。
◇
「……終わったか」
ソウは大きく息を吐き、フェンリルファングを肩へ担いだ。
いつの間にか身体のあちこちに傷が増え、服も血と海水で汚れていた。腕にも重さが残っている。それでも、これだけの兵士を相手にして立っているのは自分だけだった。
「やっぱ俺様、強えな」
自分で言って、少し笑う。
ソウはそこで初めて、周囲の惨状へ目を向けた。
傾いた軍船。燃える木材。海面に浮かぶ武器や残骸。そして、そこに混じって漂う無数の人間。
一人や二人ではない。
数え切れないほどの死者が海面に浮かんでいる。傾いた甲板の上に倒れていた兵士たちも、流れた血に押されるようにして、一人また一人と船縁を越えて海へ落ちていった。
青かった海が、薄く赤く染まっている。
ソウは黙ってその光景を眺めた。
自分がやった。
だからといって、後悔するつもりはなかった。こいつらは何の関係もない漁師へ火を放ち、仲間を傷つけ、殺した。だから戦った。
それだけだ。
だが、何かがおかしい。
「……なんだ?」
ソウが眉をひそめる。
それまで煙を運んでいた海風が突然止まり、波まで不自然なほど静かになっていた。穏やかなのではない。まるで海全体が息を潜めたように、動きを止めている。
その静寂の中で、海面に浮かんでいた死者の身体がゆっくりと動き始めた。
「おい……なんだこりゃ?」
生き返ったわけではない。
流されている。
しかも、木材や武器ではなく、死者たちだけが一か所へ引き寄せられていた。
やがて、その中心となっている海面へ一本の黒い線が現れる。
最初は血が集まっただけにも見えたが、その線は波に揺られなかった。海の上に浮かんでいるのでも、海底に沈んでいるのでもない。
まるで、世界そのものへ傷が入っている。
黒い線は少しずつ左右へ伸び、その周囲へ血と死者を吸い寄せながら、徐々に幅を広げていった。
ソウは無意識にフェンリルファングを握り直す。
そして――。
境界が、破れた。
轟音とともに黒い亀裂が大きく開き、海水が左右へ押し退けられる。軍船が激しく揺れ、ソウは足を踏ん張りながら、その向こうに広がる景色を見た。
「……なんだ、あれ」
海底ではない。
赤黒い空の下に巨大な山々が連なり、そのさらに上空を、翼を持つ何かがゆっくりと横切っている。
ソウがこれまで見たことのない世界だった。
大量の魔力持った人間の死によって、人界と竜界を隔てていた境界が歪み、ついには裂けたのだ。
もちろん、ソウにそんな理屈が分かるはずもない。
「なんだよ、あそこ……」
呟いた直後、亀裂の向こうで何かが動いた。
巨大な黄金の眼。
それだけで、人間一人より遥かに大きい。
縦に裂けた瞳孔がゆっくりと動き、こちらの世界を見た。
「……おいおい」
亀裂がさらに押し広げられ、蒼黒い鱗に覆われた巨大な頭部が姿を現す。角、牙、城壁のような鱗。その頭だけでも、並の軍船なら簡単に噛み砕けるほどの大きさだった。
海水を滝のように滴らせながら、長大な首が竜界からこちらへ伸びてくる。どこまで続いているのか分からないほど巨大な身体が境界を越えるたび、周囲の海そのものが盛り上がり、巨大な波が次々と生まれた。
「まさかこいつは……」
ソウが子供の頃に、父親に聞かされた伝説の化け物にして、海の支配者。
「海竜王……リヴァイアサン……!」
伝説との邂逅にさすがのソウにも身震いが走る。身体の奥で、本能が逃げろと叫んでいた。
存在そのものが、人間とは違う。
ソウにも、それくらいは分かった。
それでも、口から出た言葉は別だった。
「……でけえな」
リヴァイアサンの黄金の眼がゆっくりと動き、ソウを捉える。
目が合った。
「なんだよ」
ソウはフェンリルファングを構えた。
「やんのか?」
答えるように、リヴァイアサンが巨大な顎を開いた。
喉の奥で青白い光が膨れ上がり、それだけで周囲の空気と海面が震え始める。
「また魔法か」
ソウは剣を正面へ向けた。
さっきの連中と同じなら、消せる。
「こんなもん、消しゃいいだけだろ」
次の瞬間、海竜王の口から青白い奔流が放たれた。
炎でも水でもない。海そのものを圧縮して魔力へ変えたかのような巨大な光が、軍船を丸ごと飲み込めるほどの幅で一直線に迫ってくる。
「おらぁぁぁぁ!」
ソウもフェンリルファングを振るった。
紅い魔力が噴き上がり、青白い奔流と真正面からぶつかる。
ジュゥゥゥゥゥ――!
確かに消えている。
ソウの紅い魔力へ触れた部分から、リヴァイアサンの攻撃が次々と消滅していく。
「はっ! 大したこと――」
そこで、ソウの言葉が止まった。
「……は?」
消した先から、さらに大量の魔力が押し寄せてくる。
一度消しても終わらない。二度、三度とラグナロクが青白い魔力を削り取っているのに、その後ろから何倍もの奔流が途切れることなく押し寄せ続けていた。
「おいおい……!」
敵兵が放っていた火球とは、魔力の総量がまるで違う。
確かにソウの魔法はリヴァイアサンの魔法を滅ぼしている。
だが、滅ぼす速度よりも、リヴァイアサンが吐き出す魔力のほうが遥かに多かった。
「どんだけ出すんだ、こいつ!」
紅い光が少しずつ押し返される。
ソウの足が甲板を滑り、そのまま板を削りながら後退していく。フェンリルファングの牙も猛烈な速度で回転しているが、それでも勢いを止めきれない。
「ふざけんな……!」
ソウはさらに力を込めた。
その瞬間。
フェンリルファングの根元で、小さく金属が軋んだ。
カチッ。
「……?」
一瞬だけ聞こえた異音だった。
確認する暇はない。
次の瞬間、紅いラグナロクごと青白い奔流に押し切られた。
「ぐおおおおおおおっ!」
甲板が吹き飛び、ソウの身体も宙へ投げ出される。それでも、フェンリルファングだけは離さなかった。
「せっかく奪ったんだ! 誰が手放すか!」
冷たい海水が全身を包む。
上下も左右も分からないほど激しい流れに身体を振り回されながら、それでもソウはフェンリルファングを手放さなかった。片腕で剣を抱え込み、もう一方の腕で必死に水を掻く。
だが、リヴァイアサンが生み出した海流は、人間一人が逆らえるようなものではなかった。
どれだけ泳いでも身体は深みへ引きずられていく。
息が苦しい。
視界も暗くなる。
その時、遥か遠くを巨大な影が横切った。
リヴァイアサン。
海竜王が身体を少し動かしただけで、海そのものが流れを変えていく。
「……化け物が……」
声は泡となって消えた。
それでもソウの手だけは、最後までフェンリルファングを握っていた。
やがて意識が遠のき、視界が完全な闇へ沈んでいく。
◇
遥か離れた海上では、辛うじて港へ向かっていた漁船の上から、ゲンとトウヤが呆然と水平線を眺めていた。
「……お頭」
ゲンの声には、普段の豪快さなど欠片も残っていない。
トウヤも返事をしなかった。
先ほどまで、あそこには巨大な白銀の軍船があった。
敵兵がいた。
そして。
船長であるソウがいた。
しかし、青白い光が収まったあと、そこにはもう何も見えなかった。
「……嘘だろ」
ゲンが呟く。
答える者はいない。
ただ、大きくうねる海だけが、水平線の向こうまで続いていた。
世界一穏やかだったサンライズの海は、その日初めて――
一人の船長を呑み込んだ。




