第三話 魔狼の牙
火の玉が、眼前で弾ける。
熱波が顔を焼き、まぶたが自動的に閉じる。それでもソウは足を止めなかった。爆風をいなしながら、甲板を駆け抜ける。兵士たちが剣を構えて殺到してくるが、銛の穂先はすでに彼らの血で濡れていた。一突、また一突。柄で叩き、穂先で刺し、体勢を崩した相手を蹴り飛ばす。
漁で培った腕力と、港で喧嘩を繰り返してきた身のこなしが、今、すべて武器になっていた。
だが、相手はただの兵士ではなかった。
「そこだ!」
奥から聞こえた怒声と同時に、複数の兵士が手を前に突き出す。空間が歪み、またしても火の玉が生まれた。一つではない。三つ、四つと連続して放たれる。ソウは舌打ちを一つすると、近くにいた兵士の服を掴んで投げつけた。火の玉がその男を直撃し、炎が広がる。悲鳴が上がるが、構っている余裕はない。
そのときだった。
甲板の中央で、 指示を出していた男がゆっくりと腰の剣を引き抜いた。
柄は黒く、周囲の空気が微かに歪んでいるように見える。
「邪魔な虫けらだ」
男は淡々とした声でそう言うと、刀身が陽光を浴びて青白く輝いた。
次の瞬間、剣先から炎が噴き出した。
ただの火ではない。剣そのものが炎を帯び、熱を帯び、まるで生き物のように脈動している。
男が剣を一振りすると、 炎の刃が空を切り、ソウの目前の甲板を真っ二つに割った。 轟音と共に木片が飛び散り、 熱風が吹き荒れる。ソウはとっさに身を翻した。
「ちっ……」
ソウは銛を握り直した。だが、相手はこちらの間合いなど意に介さない。炎の剣を構え、また一歩、近づいてくる。兵士たちが左右から回り込み、逃げ道を塞いでいた。
「どうだ。これが魔法だ! 降伏しろ。お前に勝ち目はない!」
男は勝ち誇ったように剣を構えている。
「魔法だかなんだか知らねえが――火が出るだけだろ」
魔法がなんなのかわからないが、剣や杖から火が出る。
それがわかれば対処のしようはある。
「これでもか」
男は、逃げていくソウの漁船へと向かって火球を放った。
炎は直撃すると、船体を燃やす。
人影が、海に落ちたようにも見えた。
「見ろ! 蛮族が海へ落ちたぞ!」
「……おい」
「?」
「今、笑ったか?」
腹の底が、熱くなった。
「お前ら全員滅ぼしてやる!」
怒りを超えたもっと根源的な何かが、ソウの体内で目を覚ます。
胸の奥が熱を帯び、血管の中を何かが駆け巡る感覚。赤い。視界の端が、うっすらと朱に染まる。
「な、なんだ……その魔力は」
男の顔色が変わった。
「気をつけろ! こいつ――魔力持ちだぞ!」
「ああ?」
ソウは自分の腕を見る。
紅いオーラが、炎のように身体を包んでいる。
「魔力?」
そんな言葉は知らない。
「なんのことだ?」
掌を開く。
紅いオーラが指の間を這った。
「もしかして――この力のことか?」
男は答えないまま再び剣を振り上げて、炎をソウに放った。
「これでどうだ」
炎がソウを包み込む。
しかし――
ソウから立ち上る赤いオーラに触れた瞬間、炎は跡形もなく掻き消えた。
「なんだと」
ソウは相手の動揺を見逃さなかった。
銛を放り投げ、男の懐へ一直線に飛び込む。炎の刃が頬をかすめ、 熱が皮膚を焼く。構わずに左手で男の腕を掴み、右手で剣の柄に伸びた。男が驚愕の表情を浮かべる間もなく、ソウは力任せに剣を奪い取った。
重い。
手に馴染まない。柄から伝わる熱と、得体の知れない何かが、掌を通じて腕に逆流してくる。剣は青白い光を帯びたまま、ソウの手の中で不安定に明滅した。
「くそっ! 素人めが……扱えると思うな!」
男が叫び、残った兵士たちが一斉に斬りかかってくる。ソウは奪った剣を雑に振り払った。刃が空を切るが、炎は乗り移らない。ただの重い金属の棒を振っているのと変わらなかった。兵士の剣が肩を浅く斬り、 痛みが走る。
「動けよ……!」
ソウは歯を食いしばり、剣を強く握りしめた。何かを求めている。この剣が持っているはずの力を、無理やりにでも引きずり出そうとする。だが、剣は応えない。青白い光は次第に弱まり、ただの抜身になりかけていた。
腹が立った。
「使えねえのかよ、こんなもん!」
苛立ちとともに、すでに全身から噴き上がっていた紅い魔力が腕へ集中した。
ソウは何をしているのか自分でも分からない。ただ、この剣が自分の言うことを聞かないのなら――。
「だったら、俺様の力にしちまえばいいだろ」
紅い魔力を、力任せに剣へ流し込んだ。
大きな衝撃が走り、ソウの視界が真っ赤に染まる。
白銀の刀身に、一本の亀裂が走った。
「……?」
だが、壊れたのではない。
亀裂は一本、二本、三本と規則正しく増えていき、長かった刃を細かな節へ分割していく。それぞれの刃が外側へせり出し、先端を尖らせた。
牙。
そうとしか見えなかった。
さらに分割された刀身の隙間から、黒い鎖が這い出す。金属とは思えないほど滑らかに伸びたそれが、一枚一枚の牙を繋ぎ、剣先で折り返して反対側へ回り込む。
カチッ。
最後の牙が噛み合った。
同時に鍔が左右へ開き、巨大な狼が顎を開いたような形へ変わる。
そして――。
ギュル。
牙が動いた。
ギュル、ギュルギュル――。
速度が上がる。
やがて無数の牙が、黒い鎖に引かれて刀身の周囲を猛烈な速さで駆け始めた。
ギュィィィィィン――!
「……なんだ、これ」
男が目を見開く。
「ば、馬鹿な……デュナメスの術式が、上書きされて……!」
ソウ自身も、何が起きたのか理解していなかった。ただ、手の中の剣が、明らかに別の生き物になったことだけはわかる。重さが変わった。熱さが変わった。柄を通じて伝わってくる鼓動が、自分のものと同期しているような感覚。
「怯むな! やれッ!」
兵士たちが再び襲いかかってくる。
ソウは剣を振り下ろすと、高速で巡る牙が兵士の鎧へ食いつく。
ギャリッ――!
「ぐあっ!?」
一枚の刃で斬ったのではない。無数の牙が鎧の表面へ次々と噛みつき、鉄を削り、引き裂き、その下にあるものごと強引に食い破っていく。
兵士の一人が弾き飛ばされる。
次の兵士が慌てて剣を構えた。
金属同士がぶつかった瞬間、高速回転する牙がその剣へ絡みつく。
ギャギャギャギャ――!
「なっ……!」
火花が散り、剣身がみるみる削られていく。
そして――
バキンッ!と音を立てて、剣が中央からへし折れた。
ギュィィィィィン――!
ソウの身体から流れ込む紅い力を喰らい、無数の牙はさらに激しく回転する。
まるで剣が、咆哮をあげているようだった。
ソウは自分の左手を見た。掌が薄く朱に染まっている。熱い。だが、痛みはない。むしろ、力が増しているような錯覚さえあった。剣へ目を落とす。黒い鎖に繋がれた無数の牙が、獲物を待ちきれないかのように高速で巡り続けている。
「はっはっはっ! いいなこの剣は!」
ソウは豪快に叫ぶと、剣を構え直した。自分の中のなにかが、敵の術式を力ずくで塗り替え、別の何かに変えてしまったこの剣。
明らかに、先ほどまでの魔法剣とは一線を画していた。
兵士たちは、その異形の剣を前に足を止めていた。鮮血と紅い魔力を纏う牙を見つめ、誰一人として先ほどのように踏み込んでこない。
ソウはゆっくりと息を吐いた。
遠くには、炎を上げながらも港へ向かって進む漁船が見えた。海へ落ちた仲間がどうなったかまでは、ここからでは分からない。それでも、船そのものはまだ動いている。最低限、逃げる時間だけは稼げた。
だが、この船の上には、まだ敵がいる。
ソウは紅く染まった剣を下げたまま、男を見た。
「おい。お前ら、この海で何をする気だ」
返事はなかった。男はただ、失った剣を見て、蒼白な顔で歯噛みしている。ソウはそれ以上を聞かなくてもいいと判断した。この剣を持って、この船を混乱させればいい。仲間が逃げる時間を、もう少し稼ぐ。
紅い刃が、再び脈動した。
敵兵たちが、一斉に後ずさった。
「化け物……」
「誰がだ」
ソウは生まれ変わった剣を肩へ担いだ。
高速で巡る牙が、火花を散らす。
「俺様は――漁師だ」
そして、一歩。
前へ出た。
この日。
一振りの魔法剣が、一人の漁師によって奪われた。
力も。
術式も。
その姿すらも。
すべてを力ずくで塗り替えられて。
後に海賊王の牙として語り継がれる魔剣――
フェンリルファング。
その最初の姿が、ここに生まれた。




