第二話 銛一本
沖へ出て一刻ほど。
ソウの予想通り、南東の海域には大きな魚群がいた。
「網を入れろ!」
「へい!」
掛け声とともに、大きな網が海へ投げ込まれる。
間もなく綱が張った。
「来たぞ!」
「引け!」
十人近い漁師が力を合わせる。
海面が銀色に沸き立ち、何十匹もの魚が網の中で暴れていた。
「大漁だ!」
「今日は早く帰れそうですぜ!」
「まだ昼にもなってねえぞ。もう一回やる」
「欲張りますねえ」
「獲れる日に獲らなきゃ漁師じゃねえ」
ソウが笑う。
その時。
見張り台からトウヤの声が落ちてきた。
「船長!」
「なんだ?」
「船です!」
「そりゃ海なんだから船くらいいるだろ」
「いや――」
声が妙に硬い。
「見たことのない船です」
ソウは顔を上げた。
「どっちだ?」
トウヤが指差した先を、ソウも自然と見る。
どう見ても船だ。しかも普通の大きさではない。大きな船が一直線にこちらへ向かってきている。
ゲンが目を細めた。
「漁船じゃねえな。形が違う」
「軍船か?」
「こんなところに軍船が来るわけが……」
言葉を失う。サンライズは小さな漁港だ。軍事的な価値などほとんどなく、これまで他国の軍勢が近づいてきたことなど一度もなかった。
近づいてくる船体は白銀に輝き、縁には黄金の装飾まで施されていた。戦うための船だというのに、遠目には神殿でも海に浮かべたかのように美しい。
明らかに異様で場違い。
そして、甲板に見えるいくつもの人影。
船は、着実に近づいてくる。
風が少しだけ変わった気がした。海の匂いの中に、何か異質なものが混じっている。ソウにはそれがわかった。長年、この穏やかな海を見てきた男の勘が、静かに警告を発していた。
今日という日が、ただの日常では終わらないことを。
◇◇◇
見知らぬ船は、すでに輪郭をはっきりと見せ始めている。白地に金色の紋章を描いた旗が翻り、甲板には武装した兵士たちの姿が確認できた。陽光を反射して鈍く光る金属。明らかに、漁師など相手にしない装備だ。
さらに近づくにつれ、その異様さが分かってきた。
「帆が……ねえ?」
ゲンが驚きの声を漏らす。
世界一穏やかな海は、今、初めてその表情を変えようとしていた。
波の音が、少しだけ大きく聞こえる。風が髪を揺らし、塩の匂いが強くなった。水平線の向こうから、何かが確実に近づいてくる。
ソウは深く息を吸った。
そして、静かに目を細めた。
最初の火が落ちたとき、誰もそれが何なのか理解できなかった。
白い船から、突然、何かが打ち上げられた。弧を描いて空を舞い、陽光を赤く染めながら、船の手前で炸裂する。
爆発音が響き、海水が蒸発し、白い蒸気が立ち上る。
「な、何だあれは……!」
ゲンの声が裏返った。トウヤは、望遠鏡を持ったまま固まっている。他の船員たちも同様だった。
火の塊は一度では終わらない。
「なんだこの砲撃は!?」
ゲンが叫ぶ。
だが、ソウは眉をひそめた。
違う。
飛んできているのは、燃えた砲弾ではない。
火そのものだった。
「中になにもはいってねぇぞ。火だけが飛んできてやがる」
砲弾のない火球は次々と空を舞い、そのうちの一つが船尾を掠め、積んであった木箱を吹き飛ばした。炎が帆の端へ燃え移る。
「火だ! 消火を……!」
胸の奥で、何かが静かに熱を帯びていく。怒りではない。もっと冷たく、もっと明確な感情だった。この海を、知らぬ間に踏み荒らされているという事実。
「……ふざけやがって」
ソウは、小さく呟くと捕鯨用の大きな銛を手にとった。
「ゲン! トウヤ!」
ソウが大声で呼ぶ。二人は慌てて振り返った。
「今すぐあの船に寄せろ!」
「で、でも、あの船撃ってきますぜ」
「今のままじゃただの的だ。俺様が乗り移れるところまで近づけろ」
「乗り込むって、そんな無茶ですぜ」
「無茶でもなんでもいい。死にたくなければ、やるしかねぇだろ。船長命令だ!」
「わ、分かりやした!」
ソウの船は、命令通り、敵の船に向かって進んでいく。大きな火球が頭上を飛び交い、近くの海面を爆破していく。 水しぶきが甲板を叩き、服がびしょ濡れになった。
それでも、止まらない。
「船長、寄せますぜ!」
ゲンが叫ぶと、漁船は敵船の側面ぎりぎりまで迫った。
ソウは捕鯨用の銛へ太い綱を結びつけた。
「これ以上は危ねえですぜ!」
「十分だ」
ソウは銛を振りかぶる。
狙うのは人間ではない。巨大船の舷側。
「――行ってくる」
銛が唸りを上げて飛び、白銀の船腹へ深々と突き刺さった。
次の瞬間、ソウは張った綱を掴み、自ら海の上へ飛び出した。
派手なおとを立てて、着地すると、ソウは船に向かって叫ぶ。
「よし、お前らはこのまま逃げろ」
「そんなわけにはいかねぇでしょ!」
「ゲン、みんなを頼むぞ。港を目指せ。船長命令だ」
「こんな時だけ船長面しやがって……!」
ソウは横目で船が、離れていくのを確認しながら、銛を振り回し、兵士たちを吹き飛ばした。
「な、なんだ。こいつ乗り込んできたぞ」
飛び込んできたソウを見て、白銀の軍船の兵士たちが慌てて剣を抜く。 金属音が響き、 刃が振り下ろされる。
ソウは身を翻し、銛の柄で最初の刃を受け流した。 衝撃が腕に走るが、構わずに踏み込む。穂先を水平に突き出すと、兵士の肩に深々と食い込んだ。悲鳴が上がり、 大柄な男が膝から崩れる。すぐに別の兵士が斬りかかってくるが、ソウは銛を引き抜き、柄の部分でその腕を叩いた。
派手な音がして、剣が海へ落ちる。
「何だ、こいつ……!」
兵士たちの動きが、一瞬だけ止まる。ただの漁師が、銛一本で自分たちに向かってくることなど、想定していなかったのだろう。ソウはその隙を逃さなかった。 甲板を駆け、次の兵士へ、またその次の兵士へ。銛はすでに血に濡れ、穂先が鈍く光っている。
「お前たち、なにをしている!」
軍船の奥から、 大きな声が飛んできた。 派手な軍服の男が手を上げ、何か命じる。すると、甲板の中央にいた兵士たちが、一斉に手を前に突き出した。
次の瞬間、小さな火の玉が、ソウの目前で生み出された。
「……は?」
ソウは思わず足を止めた。何もない空間から、 炎が生まれている。手が触れてもいないのに、 熱を持った塊が、自分に向かって飛んでくる。
このとき初めて、ソウは自分が知らない何かと対峙していることを理解した。だが、理解したところで止まるつもりはなかった。火の玉が迫る直前、ソウは甲板に転がっていた盾を蹴り上げた。
宙に舞った盾へ火球がぶつかる。
轟ッ――!
炎が爆ぜ、焼け盾が吹き飛んだ。
「当たれば、爆発するのか!」
ソウは爆炎の中、真っ直ぐに、命令を下した男へ向かって走り出した。
ソウは銛を構える。
巨大な軍船の上で、ただ一人の漁師が、鯨を仕留めるための道具を握りしめている。 兵士たちが再び殺到し、火の玉が飛び交う中、ソウの目はただ一点だけを見据えていた。
この船を、止める。
せめて、仲間が逃げる時間を稼ぐ。
それだけだった。




