第一話 世界一穏やかな海
朝の光が、海をゆっくりと染めていく。
薄紅から黄金へ。黄金から青へ。水平線が少しずつ輪郭を取り戻し、夜の帳を引き上げるように、世界が目を覚ましていく。波の音は穏やかで、風は塩の匂いを優しく運んでくる。ここサンライズの海は、一年を通してほとんど荒れない。嵐が来ることも稀で、潮の流れは素直で、魚はよく獲れる。漁をする者たちからすれば、これ以上ないほど恵まれた海だった。
「頭! 今日もサボる気ですか?」
岸壁から大声が飛んでくる。振り返ると、同じ漁団の部下・ゲンが手を振っていた。日に焼けた顔には潮風に刻まれた深い皺があり、白い歯をむき出しにして豪快に笑う姿は、いかにも海で生きてきた男らしい。その隣には、若い衆のトウヤが網の手入れをしながら苦笑いを浮かべている。
「サボってねえよ。ちゃんと見てるだろ、海を」
ソウは甲板の縁に寝そべったまま、気のない返事をした。燃える太陽を閉じ込めたような、赤い鋭い瞳を持ち、漁師にしては整った顔立ちをしているが、本人にその自覚はない。
肩には潮風を防ぐ濃紺の上着をひっかけ、腰には赤い布を無造作に巻き、その上から道具を吊るすための革ベルトを締めている。海の上で邪魔にならないことを優先した着こなしだが、それでも全体として見ると不思議なほど様になっている。
東の海を預かる漁団の船長――ソウ。
若くして船長を務めているのは、亡き父からこの船を受け継ぎ、父の代から漁団を支えてきた者たちに認められたからである。
しかし、こうして朝から船縁に寝そべって海を眺めている姿は、どう見ても仕事をしているようには見えなかった。
「見てるだけじゃ魚は獲れねえぞ!」
「馬鹿。海を見ねえ奴に魚が獲れるかよ」
「昨日も同じこと言って昼まで寝てただろ!」
「あれは潮が悪かったんだ」
「寝てる間に潮が良くなって大漁だったけどな!」
ゲンの言葉に、周囲の漁師たちから笑いが起こった。
ソウは少しだけ眉を寄せる。
「結果的に獲れたんなら、俺様の判断が正しかったってことだろ。船長の判断には結果がついてくるんだよ」
「網引いたの俺たちだぞ!」
「だから俺様は船長なんだろ」
悪びれもしない。
トウヤが網を畳みながら、呆れたように笑った。
「ゲンさん、もう諦めたほうがいいですよ。船長に口で勝とうとすると、一日終わります」
「お前もだいぶ分かってきたな」
「褒めてません」
朝の港に笑い声が広がった。
それは、いつもの光景だった。
誰かが魚籠を運び、誰かが破れた網を繕い、子供たちは大人の仕事を邪魔して怒られながら、それでも懲りずに船の間を駆け回っている。魚を焼く匂いと潮の香りが混じり、港の奥では今日の売値を巡って早くも商人と漁師が言い争っていた。
争いと呼べるものなど、その程度しかない。
サンライズは、そんな国だった。
海は穏やかで、大地は肥え、食べ物に困ることもほとんどない。国境の向こうに別の国があることくらいは皆知っているが、日々の暮らしの中で意識する者は少なかった。
少なくともソウは、自分とは何の関係もないと思っていた。
世界のどこかで誰かが王になろうが、戦争をしようが、知ったことではない。
今日、魚が獲れるか。
仲間が無事に帰ってこられるか。
今夜の酒にありつけるか。
大事なのは、それくらいだった。
「ソウおじちゃーん!」
今度は甲高い声が港に響いた。
「おじちゃんじゃねえ!」
反射的に言い返してから、ソウは振り向く。
岸壁を小さな少女リナが走ってきていた。
陽光を受けて輝く黄金の髪。それを左右に揺らしながら、一生懸命こちらへ向かってくる。
「危ねえから走るな!」
「お魚!」
「話聞け!」
リナは船の横まで来ると、期待に満ちた目でソウを見上げた。
「今日は大きいの獲る?」
「獲るに決まってるだろ」
「ほんと?」
「俺様が嘘ついたことあるか?」
「いっぱいある!」
「……誰にそんなこと教わった」
「お父さん」
「ゲン!」
「俺じゃねえよ!」
また笑い声が上がる。
リナの父親は、漁団に銛などを卸す商人だった。今日は別件で町へ出ているらしく、姿は見えない。
ソウはリナの頭へ手を置き、乱暴に撫でた。
「夕方来い。でけえの一匹取っといてやる」
「ほんと!?」
「ああ、約束だ」
「約束ね!」
「分かったから、仕事の邪魔すんな」
「はーい!」
元気よく返事をして、リナは来た道を戻っていく。
その背中を見送ってから、ゲンが笑った。
「子供には甘いよな、お前」
「うるせえ」
「いい親父になるぞ」
「誰が親父だ」
「その前に嫁さん見つけろよ」
「海がありゃ十分だ」
「海とは結婚できねえぞ」
「絶世の美女がいたら、考えるさ」
心底どうでもよさそうに答え、ソウは立ち上がった。
それまでとは違い、真面目な目で海を見る。
風向きが、ほんのわずかに変わっていた。
波の形も。
「トウヤ」
「はい?」
「帆を上げろ」
トウヤが目を瞬く。
ソウの声音が急に真面目になったからだ。
「もう出るんですか?」
「ああ、今すぐだ」
「今日はどっちへ?」
ソウは少し考え、水平線へ目を凝らした。
「南東だ」
「昨日は東の沖合いに魚群がいましたよ」
「だから今日は南東だ」
「なんでです?」
「鳥が南へ流れてる。波も昨日より東から押してる。昨日の群れなら、今頃は南東だ」
「……そんなところまで見てたんですか」
「だから最初から海見て仕事してたって言ってんだろ」
ゲンが肩をすくめる。
「こういう時だけ、ちゃんと船長なんだよな」
「こういう時だけは余計だ」
船員たちが次々と乗り込んでくる。
係留索が外され、帆が上がる。
朝の風が大きな布を膨らませた。
木造船がゆっくりと岸を離れていく。
港から手を振る者たちへ、ソウは片手だけ上げて応えた。
今日もいつも通り。
魚を獲って。
港へ帰って。
酒を飲む。
そうなるはずだった。




