第二十四話 朋友の鉄槌
足元で、風が唸った。
甲板を覆っていた水が外へ弾け、ソウの体が浮き上がる。次の瞬間には、船が足元へ落ちていった。
「――っ!」
腹の底を押し上げられる。
帆柱が脇を通り過ぎ、破れた帆が下へ消えた。白銀の軍船が、海面に散らばる小さな木片のようになっていく。
風が頬を叩く。目を開けているだけでも痛く、息を吸えば、空気が喉へ押し込まれた。
ソウは歯を食いしばった。
聖剣だけは、離さない。
眼前を、青黒い鱗が流れていく。見上げていた巨体の、その横を昇っていた。 鱗の継ぎ目から流れ落ちる海水が、ソウの肩を打つ。
頭が見えた。
大きな瞳が動き、ソウを捉えた。
「……こっちだ」
風に押されながら、ソウは笑った。
「俺様は、ここにいるぞ」
海竜王の顎が動く。船へ向いていた青白い光が、ゆっくりと空を向いた。
◇ ◇ ◇
ルーンは甲板の上で腕を掲げていた。胸元の宝石が強く輝き、頭上では分身のコウモリたちが旋回している。
翼に受ける風、海竜王の頭の位置、昇っていくソウの姿。それらを捉えながら、ルーンは指先を動かした。
「もう少しじゃ……」
風の柱がわずかに傾き、ソウの体を海竜王の頭上へ押し出す。
リヴァイアサンの首が反った。開いた顎の奥が、青白く染まっている。
あの光が放たれるまで、もう時間はない。
ルーンは息を詰めた。
「ソウ。外すでないぞ」
◇ ◇ ◇
ソウを押し上げていた風が弱まり、耳元の轟音が遠ざかった。
海竜王の頭が、足元にある。その向こうには、壊れた船や波間を漂う帆、小さな漁船が見えた。
さらに向こうには、故郷の町がある。
ソウは両手で聖剣を持ち上げた。
もう、何度も斬る力はない。
鱗を一枚ずつ剥がす時間も、深く食い込むまで牙を回し続ける余裕もなかった。
欲しいのは、一撃。
あの頭も、巨体を支える骨も、この化け物そのものをまとめて叩き砕く力。
「……聞こえてるだろ」
聖剣の紋章へ、目を落とす。
「今度は、でけえぞ」
柄を握る指に、力を込めた。
「遠慮すんな。全部、持っていけ」
掌に灯った小さな光が、剣へ流れ込んだ。その後を追って紅い魔力が走り、胸の奥が熱くなる。
守ってみせる。
あの町を。あの船を。待っている奴らを。
そのために、おまえを倒す。
「奇跡は、待つのは性にあわねぇ。自ら掴みとる」
願うは、全てを砕く最強の一撃。
「聖剣よ。力を貸せ!」
ソウの呼び声に呼応したように聖剣の刀身が震えると、切っ先が縮んだ。鋼が刃の根元へ集まり、左右へ大きく張り出していく。
柄が伸びた。ソウが両手の間隔を広げると、その先で鋼が巨大な槌の形へ組み上がった。
重い。
腕が引かれる。それでもソウは手を緩めず、さらに魔力を注いだ。
鋼の表面に紋様が走り、紅い光がその線を満たしていく。
火花が散った。
槌を横切った雷が枝分かれし、柄へ絡みつく。空気が震え、髪が逆立った。
ソウの口元が上がる。
これだ。
これなら、叩き砕ける。
聖剣変形――《朋友の鉄槌ミョルニル》。
空に、雷鳴が轟いた。
◇ ◇ ◇
「……おい」
ゲンが舵を握ったまま顔を上げた。帆綱にしがみついていたトウヤも、空を見る。
海竜王の頭上に、小さな人影があった。その手に握られた巨大な槌を、幾筋もの雷が取り巻いている。
「あれ……お頭ですよね」
ゲンは答えず、舵を握る手へ力を込めた。
ソウが落ちてくる。そのとき、少しでも近くにいなければならなかった。
◇ ◇ ◇
ソウの体が、落ち始めた。
背中へ風が回る。ルーンの風だった。
傾きかけた体が戻り、海竜王の頭が狙いの先へ収まる。ソウはミョルニルを振りかぶった。
肩が軋み、肘が悲鳴を上げた。
もう構うものか。
リヴァイアサンが顎を上げた。喉の奥から青白い光が迫り出し、巨大な瞳がソウを捉える。
首が止まる。
狙いが、定まった。
「そこだ」
獲物が食いつく、その直前。
何千回も見てきた。逃げる魚へ銛を放ち、暴れる大物の動きを読み、海の上で生きてきた。
でかくなったところで、同じだ。
おまえが動く、その前に。
「俺様の海から――」
ソウは、両腕を振り下ろした。
「いなくなれぇぇぇッ!」
ミョルニルが、海竜王の頭へ叩きつけられた。
白い光が、弾けた。
音が、消えた。
次の瞬間、海と空を震わせる轟音が、世界を満たした。
鉄槌の落ちた場所から幾重もの亀裂が走り、城壁のような鱗が一斉に跳ね上がった。その奥へ槌が沈み、骨を砕く。
巨体の内側を、雷が貫いた。
青白い光に満ちていた口が歪む。放たれるはずだった魔力が形を失い、牙の間や頭部の裂け目から、水とともに噴き上がった。
ソウは、さらに腕を押し込んだ。
残っているものを、すべて。
握る指へ。 振り抜く肩へ。 この一撃へ。
ミョルニルから、雷が迸った。
頭部を砕いた衝撃が、首へ走る。
太い首が折れ曲がった。
巨体を支えていた力が失われ、海竜王が大きく傾く。 海面の下に隠れていた長い体が跳ね上がり、その内側から走った雷が、青黒い鱗を次々と吹き飛ばした。
悲鳴はなかった。
ソウを見ていた瞳から、光が消える。
砕けた頭部が崩れた。
続いて、首が。 海の上へせり出していた巨体が。
ひとつの生き物だったものが、形を失いながら海へ落ちていく。
海竜王リヴァイアサンは、一撃で粉砕された。
◇ ◇ ◇
ソウは落ちていた。
目の奥には白い光の残像が焼きつき、何も見えなかった。耳もよく聞こえない。遠くで雷が鳴っているのか、頭の中が鳴っているのかもわからなかった。
ミョルニルの雷が消え、巨大な槌が元の聖剣へ戻っていく。
ソウは、それでも柄を離さなかった。
冷たい風が頬を撫でた。
海へ落ちるのだと、ぼんやり思う。
「……またかよ」
呟いたとき、体が下から受け止められた。落ちる速さが緩み、背中を押す風がソウを横へ運んでいく。
「本当に……最後の一滴まで使いおって!」
聞き慣れた声に、ソウは薄く目を開けた。
黒い霧の中からルーンが手を伸ばしていた。茶髪が風に流れ、衣装には血の跡が残っている。
「生きとるな?」
「……見りゃ、わかるだろ」
「口が動くなら、よい」
ルーンがソウの襟を掴んだ。
背後で海が轟いた。崩れ落ちた巨体が海水を押し上げ、白い波が残った軍船を持ち上げている。
ルーンは歯を食いしばり、もう一度、宝石へ魔力を注いだ。
風が二人を押す。波頭を越えた先に、小さな漁船があった。
「こっちだ!」
ゲンが叫んでいた。
「お頭!」
トウヤが両腕を広げる。
ルーンが風を緩めると、二人の体が甲板へ降りた。ソウを受け止めたトウヤが、その重さに押されて尻餅をつく。
「ぐえっ!」
「しっかり受け止めろ。下手くそ」
「降ってくる方が言いますか、それ!」
ルーンも片膝をついて着地した。直後、船が大きく持ち上がる。
「掴まれ!」
ゲンが舵を切り、全員が身を低くした。
船は波の斜面を昇り、船首を空へ向けたかと思うと、一気に滑り落ちた。甲板へ海水が流れ込む。
トウヤはソウを抱えたまま柱へ背中を押しつけ、ルーンは船縁を掴んだ。
船体が激しく軋んだ。
それでも、ひっくり返らなかった。
波を一つ、さらにもう一つ越える。幾度も大きく揺れながら、船は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
◇ ◇ ◇
船腹へ打ち寄せる波の音が、耳に戻ってきた。甲板から海へ雫が落ち、その向こうで鳥が一声鳴いた。
ソウは目を開けた。
空があった。
青い空だった。
雷光は消え、水煙は風に払われていた。頭上を覆っていた巨大な影も、もうない。
どこまでも高く、澄んだ空の下、朝陽が濡れた甲板を照らしていた。
「……倒した、んですか」
トウヤが呟いた。誰に尋ねたのか、自分でもわからないような声だった。
ゲンは海を見ていた。青黒い鱗の破片が波間へ沈み、砕けた巨体はもう動かない。青白い光も、見えなかった。
「ああ」
ゲンの声が震えた。
「倒しやがった」
トウヤは、甲板に横たわるソウを見た。
胸がゆっくりと上下している。その手には、まだ聖剣が握られていた。
「お頭……」
ソウの口元が、わずかに動いた。
「言ったろ」
掠れた声だった。
「終わらせるってよ」
トウヤの顔が歪んだ。笑おうとしたのか、泣こうとしたのか。結局、その両方になった。
「本当に……本当に、やっちまった……!」
ゲンが空へ拳を突き上げた。
「見たか! 俺たちの船長だぞ!」
トウヤも、息が切れるまで声を上げた。
ルーンはその声を聞きながら、ソウの隣へ腰を下ろす。
「うるさい船じゃのう」
そう言った彼女も、笑っていた。
◇ ◇ ◇
岸でも、人々が海を見ていた。
避難所の前で、坂道の途中で、焼け残った倉庫の陰で。空を裂いた雷と崩れ落ちる海竜王を見たあとも、誰も動けずにいた。
もう一度、あの竜の頭が現れるのではないか。
だが、海は静かになっていった。巨大な影は戻らなかった。
やがて、誰かが指を差した。
「船だ」
何度も繕われた、見慣れた帆がこちらへ向かっていた。
甲板でゲンが腕を振っている。高く掲げ、何度も振っている。
「あいつら……帰ってくるぞ」
「帰ってくる!」
「海竜は!?」
「倒したんだ!」
その声をきっかけに、人々が動き出した。
坂を下り、互いの肩を叩く。泣いている者を、笑いながら抱き締める。
リナは父親の手を握っていた。
「パパ!」
「ああ……!」
「ソウおじちゃん、帰ってくる!」
父親は何度も頷き、目元を腕で拭った。
少し離れた場所で、ボーレンが海へ目を細めていた。
「あの馬鹿が」
低く呟いた。
「いきなり、とんでもないものを叩きおったな」
その口元は、髭の奥で緩んでいた。
◇ ◇ ◇
船が岸へ近づくにつれ、人々の声が大きくなった。
ソウは甲板に寝たまま、それを聞いていた。
起き上がる力はなく、顔を動かすだけで体のあちこちが痛む。
それでも、自分を呼ぶ声は聞こえた。ゲンたちを呼ぶ声も、笑い声も。
昨日、避難所で聞いたものとは違う。遠慮もためらいもなく、腹の底から響いていた。
「聞こえるかの」
ルーンが尋ねた。
「ああ」
ソウは目を閉じた。
「うるせえくらいだ」
「おまえさんが、取り戻したんじゃ」
ソウは答えず、聖剣を握っていた指をようやく緩めた。ルーンがそっと、その剣を受け取る。
船が揺れた。
穏やかな、いつもの揺れだった。
魚を積んで帰るたびに嗅いでいた、故郷の潮の匂いがした。
「ルーン」
「なんじゃ」
「……腹減った」
ルーンが瞬きをし、それから声を上げて笑った。
「そうじゃな。今度こそ、たらふく食うがよい」
岸から、ひときわ高い声が響いた。
「ソウおじちゃーん!」
ソウは目を閉じたまま、息を吸った。
「おじちゃんじゃ……ねえっての」
いつもより、ずっと小さな声だった。それでも、口元には笑みがあった。
船の上で、岸辺で、笑い声が重なる。
晴れ渡った空の下。
サンライズの海に、人々の声が帰ってきた。




