最終話 海賊王ソウ
海は、静かだった。
侵略船が海に沈み、リヴァイアサンが倒されてから、一月が過ぎていた。青黒い鱗の破片は潮に流され、破壊された漁船は応急の修復が始まっている。沈んだ侵略船の残骸から引き上げた物資が、港の片隅に積み上げられていた。漁民たちは疲れた顔で働いているが、目には小さな生気が戻っていた。
木を打つ槌の音がする。 網を広げる男たちの間で、誰かが冗談を言った。
笑い声が上がる。
魚を入れる籠は、まだ空だった。 だが、桟橋には、いつでも船へ積めるように並べられていた。
ソウは岸壁に腰を下ろし、聖剣を横に置いて海を見ていた。
「よし。いい潮の流れだ」
ゲンが近づいてくる。肩に縄を担ぎ、いつもの調子で声をかけてきた。
「おい、船長。もう漁に出るか?」
「ああ。海が静かなら、網を入れねえ理由がねえ」
「相変わらずだな。一月前に、あれだけ騒いどいて」
ソウは肩をすくめた。トウヤも後ろから笑いながら手を振る。港には、内陸へ逃げていた人々が少しずつ戻ってきていた。
平和が、戻りつつあった。
ゲンが船へ戻ると、ルーンが隣に腰を下ろした。
ルーンの長い茶髪が風に揺れる。手には、血のように赤いトマトジュースがある。一口飲んでから、口を開く。
「そういえば、まだ決めておらんかったのう」
「何をだよ」
「あの賭けの勝敗じゃよ」
ソウが顔を向ける。
「沈めた船の数か」
「そうじゃ。おまえさん、自分の分を多く数えておらんじゃろうな」
「そっちこそ、俺様が穴を開けた船まで入れてねえだろうな」
「沈めきれずに放っておいたものを、わらわが沈めてやったのじゃ」
「あれは放っといても沈んだ」
「なら、放っておけばよかったのう」
ソウは眉を寄せた。
ルーンは涼しい顔で、トマトジュースを飲んでいる。
二人で船の位置を思い出しながら、一隻ずつ数え直した。 言い合いになった船もあったが、結局、最後には同じ数が残った。
「……同じか」
「引き分けじゃな」
「海竜を入れりゃ、俺様の勝ちだろ」
「わらわも手伝ったじゃろう。それに船の数で勝負すると言うたのは、おまえさんじゃぞ」
「あれだけで十隻分くらいあるだろ」
「大きさの話ではないわ」
ソウは舌打ちした。
ルーンが、愉快そうに肩を揺らす。
「惜しかったのう。わらわを好きに使う機会を逃したぞ」
「おまえだって同じだろ。で、勝ってたら何をさせるつもりだったんだ?」
「毎日、おまえさんの魔力を分けてもらおうと思うておった」
ソウは瞬きをした。
「……それだけか?」
「それだけとは何じゃ。わらわにとっては、大事な食事じゃぞ」
「今もやってるじゃねえか」
「そうじゃな」
ルーンは、少しも困った様子がなかった。
ソウは呆れたように鼻を鳴らす。
「勝っても変わんねえだろ、それ」
「では、おまえさんはどうするつもりだったんじゃ」
「そりゃ、こき使うに決まってんだろ。荷物を運ばせたり、船を引かせたり、面倒な奴が来たら一緒にぶっ飛ばしたりな」
今度は、ルーンがソウを見た。
「……今と、何が違うんじゃ?」
ソウは口を開きかけた。
そのまま少し考える。
「文句を言わなくなる」
「それは無理じゃな」
「負けたら何でも聞く約束だったろうが」
「文句を言わぬとは、言っとらん。そもそも負けとらんからの」
二人はしばらく睨み合った。
先に笑ったのは、ルーンだった。
ソウも鼻で笑い、海へ目を戻す。
「じゃあ、今までどおりだな」
「そういうことじゃ」
ルーンが片手を差し出した。
「話しておったら、腹が減ったのう」
「おまえ、今飲んでんだろ」
「これはこれじゃ」
ソウは掌へ魔力を集めた。
小さな紅い光が生まれる。
それを放ると、ルーンは口で受け止めた。
目を細め、ゆっくりと味わう。
「うむ。やはり、これじゃな」
「飯が済んだら、出る支度を手伝えよ」
「少しは余韻を楽しませぬか」
ソウは答えずに笑った。
ルーンはコップを膝の上へ置いた。
「噂が広がっておるようじゃぞ」
「何のだよ」
「おまえさんのことじゃ。『侵略船を襲い、魔法剣を奪い、捕らわれた人間を勝手に解放し、軍船を奪って乗り回す海賊王』……近隣の国々で、そう呼ばれはじめておるらしい」
「海賊ねぇ」
ソウは自分の手を見た。
網を引いてきた手だ。銛を握り、魚の腹を裂き、船の縄を結んできた。
その手で、軍船へ乗り込んだ。剣を奪った。 神の加護を消し、海竜の頭を砕いた。
総帥も、自分を賊と呼んでいた。
あのときは、そう呼ばれても構わないと思った。
敵を倒せるなら、それでよかった。
「奪った船に乗り、奪った剣を振り、奪いに来た者から奪い返すのは、本当だからのう。見た目は立派な海賊よ」
「俺は魚を獲るだけだ。それ以外のことは、必要なときにやった、それだけのことだが、まあ、そう言われるのも悪くねぇな」
ルーンが顔を向けた。
「ほう。嫌がるかと思うたが」
「勝手に呼ばせとけ。名前が広まって、よその連中がこの海へ手を出さなくなるなら、ちょうどいい」
ソウは岸壁に置いていた聖剣を拾い上げた。
陽を受けた刀身が、細く光る。
「ただ、海賊じゃ足りねえ」
「まだ何か注文があるのか」
「どうせ呼ばれるなら、覇王だ」
ルーンが、コップを口へ運ぶ手を止めた。
「……覇王?」
「ああ」
ソウは水平線を見た。
「この海で誰が一番強えか、一発でわかるだろ」
「大きく出たものじゃのう。おまえさんの子孫なら、呼んでくれるんじゃないかの」
「なら、そいつは見る目があるな」
ソウは満足そうに笑い、聖剣を鞘へ収めた。
ボーレンから半ば強引に譲り受けたこの剣は、今や完全に彼の手に馴染んでいる。
鞘の位置を直しながら、ソウは港を見渡した。
少し離れた場所に、リナの姿があった。父親と並び、荷車から品物を下ろしている。
ソウに気づくと、少女は大きく手を振った。 ソウも片手を上げて返す。
「で、どうする気じゃ。本当に漁に戻るのか」
「当たり前だ。港が直れば、網を入れる。腹を空かせた子供がいれば、魚をやる。それが俺の日常だ」
「ふふふ……そう言って、水平線を見ればまた大きな影を探しておるくせにのう」
ソウは否定しなかった。事実、目は自然と水平線へ向いている。静かな海の向こうに、帆影が見えた。
一隻。 その後ろに、もう一隻。
陽を受けて、船体が白く輝いている。
白銀の船腹に、金の装飾。 風に翻る旗には、見覚えのある紋章があった。
忘れるはずがない。
この港へ火を放った、あの軍船と同じだった。
ゲンが遠くから手を振る。
「おい、ソウ! また、あの船だ!」
「わかってる」
ソウは立ち上がった。腰の聖剣へ手をかけ、鞘から抜き放つ。真っ直ぐな刀身が、陽光を返した。その剣を、いつものように肩へ担ぐ。
ルーンもコップを置き、隣に並んだ。茶髪が海風に大きく揺れる。
「今日は、でけえ獲物がいるみてえだな」
ソウが笑う。
初めてあの船を見た日には、何も知らなかった。
敵が使う魔法も。
自分の中にある力も。
海の向こうに、どんな世界が広がっているのかも。
今は、違う。
手には聖剣がある。
隣には、同じ船へ乗る相棒がいる。
ルーンが楽しそうに目を細めた。
「懲りない連中にはお仕置きが必要じゃな」
「ああ。今度は徹底的にわからせてやる」
二人は並んで海を見る。水平線の帆影が、ゆっくりと大きくなっていく。
ゲンが船へ駆け戻った。
「聞いたな! 出るぞ!」
トウヤが頷き、桟橋へ渡していた縄を解く。
近くにいた漁師たちも動き出した。 網を置き、船へ飛び乗り、帆綱を引く。
港へ船を繋いだまま、焼かれるのを待つ者はいなかった。
破壊の痕跡はまだ残っている。
だが、人々は生きている。
取り戻した海へ、もう一度、船を出そうとしていた。
ソウは聖剣の柄を握りしめた。
奪うように手に入れた剣。
隣にいる、最古の吸血鬼。
そして、海。
「行くぞ」
短く告げ船に乗ると、ソウは甲板へ足を乗せた。帆が風を孕み、船がゆっくりと港を離れる。後ろからゲンやトウヤの声が飛ぶ。ルーンが船縁に立ち、茶髪を翻して笑う。
ソウも笑った。
あの白銀の甲板からも、やがて自分たちが見えるだろう。
逃げることも、ひれ伏すこともなく。 真っ直ぐに向かってくる、小さな船が。
――後の世、人々はこの男を海賊王ソウと呼んだ。
その名が海を越え、伝説となる航海は、まだ始まったばかりだった。
完
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