第二十二話 守るべきもの
海が、立ち上がった。
そう見えた。
水平線を丸ごと塗り潰すほどの巨大な影が、海そのものを押し上げながら現れる。
海水が轟音とともに割れ、天を突くようにせり上がるその姿――
海竜王リヴァイアサン。
頭部だけで、並の軍船など容易く飲み干せる。
一枚一枚の鱗は城壁ほども厚く、そこを伝う海水が、滝となって海面へ叩きつけられていた。
巻き上がった飛沫が甲板を打つ。ソウは顔を背け、腕で目を庇った。
船が持ち上がる。
沈みかけた船も、折れた帆柱も、海面を漂う兵士の盾も。何もかもが同じ波に押し上げられ、白い泡の中を滑っていく。
残った軍船の一隻が、大きく横へ流された。
帆を張っているのに、進まない。 船首を沖へ向けようとしても、押し寄せる水に船腹をさらすばかりだった。
海竜王が、首を動かす。
それだけで、船と船の間に新たな波頭が立った。
ソウは、その姿を見上げていた。
一度、戦った。
そして、海へ投げ出された。
あのときも巨大だと思った。 だが、こうして再び目の前にすると、記憶の中の姿さえ小さく思えた。
巨大な顎が、ゆっくりと開く。
その奥で、青白い光が膨れ上がっていく。
海そのものを圧縮し、凝縮したような、あまりにも純粋な魔力。
周囲の海面から細い水の筋が立ち上がり、その口へ吸い込まれていった。
ソウは知っている。
あれが、何をするものなのか。
撃たれれば、船どころではない。
この海域ごと、地図から消える。
誰もが、理解した。
隣の船で、兵士が叫んだ。
何と言ったのかは、波の音に掻き消された。 逃げようとした者たちが甲板を走り、互いにぶつかる。海へ飛び込もうとした男は、船縁で足を止めていた。
逃げ込むはずの海そのものが、荒れ狂っている。
ソウのいる船も、深く傾いた。
甲板を水が流れる。ルーンは足を踏ん張り、ソウの肩を支え直した。
「どうするんじゃ。一旦、引くかの」
「はっ。まさか。こいつを倒せば全部終わりだ」
「じゃが、わらわもおまえさんも、もう魔力が……」
ソウは聖剣を握り直した。
腕が重い。
膝へ力を込めても、ルーンの支えなしでは立ち上がれそうになかった。
総帥を貫いたときの感触が、まだ掌に残っている。
あの加護を消すために、すべて注いだ。
もう少し残しておけばよかった、などと思う余地はない。手を緩めていれば、倒れていたのはこちらだった。
だが、まだ終わっていない。
ソウは海竜王から目を逸らさなかった。
「俺様は、気力でどうにかする。おまえは、ヴァンパイアだろ。あいつらから奪え」
ソウが顎で示した先には、残った軍船があった。
総帥の死と海竜王の出現に、兵士たちが慌ただしく駆け回っている。
「おまえさんはむちゃくちゃじゃのう」
ルーンは笑おうとした。
だが、ソウの肩を掴む手は離れなかった。
代わりに、空いている方の手を持ち上げる。
袖の陰から、黒い影がこぼれた。
一匹。 続いて、二匹、三匹。
小さな翼が開き、尖った耳が動く。
ルーンの分身であるコウモリたちは、二人の周りを一度巡ると、残った軍船へ飛び立った。
波頭をかすめ、破れた帆の間を抜ける。
甲板の兵士が、その影に気づいて腕を振った。
コウモリは刃の下をすり抜け、鎧に覆われていない首筋へ取りついた。
男が手を伸ばす。
だが、引き剥がそうとした指から力が抜けた。 頬が痩せ、目が落ちくぼみ、膝が甲板へ落ちる。
別の兵士にも、黒い翼がまとわりついていた。
ルーンは細く息を吐いた。
コウモリたちを通して、奪った魔力が流れ込んでくる。
ソウの肩を支える腕に、少しずつ力が戻った。
「……おまえさんも、今のうちに休め」
「休んでる暇があるかよ」
「立てぬ男が言うことではないぞ」
ソウは答えず、剣を持ち上げようとした。
切っ先が、濡れた板を擦る。
その小さな音が、ひどく癪に障った。
「この俺様に――滅ぼされたいのは、どこのどいつだ?」
いつもの言葉を口にする。
海へ響かせるつもりだった。
だが、声は掠れ、波の音に紛れた。
構わない。
魔力さえ出ればいい。
あのときのように。港を焼かれ、仲間の船を沈められたときのように。
腹の奥から、紅い力が湧き上がれば。
ソウは柄を握り締めた。
何も起こらなかった。
剣の紋章は暗いまま。刀身には、海竜王の口に溜まる青白い光だけが映っている。
「……くそ。どうして湧いてこない」
腹は立っている。
勝手に海へ居座り、船を潰し、魚を追い散らした化け物が、すぐそこにいる。
憎らしくないはずがなかった。
なのに、怒鳴ろうとしても息が続かない。 胸の奥を掻き回しても、燃え上がるものがなかった。
「出ろよ……」
ソウは歯を食いしばった。
腕に力を込める。肩が震えた。
ルーンの手が、背中へ回る。
「ソウ。無理に絞り出そうとしても――」
「わかってる」
言葉を遮った。
わかっていた。
総帥を倒すまでに、使い切った。レーヴァティンへ最後の力まで注いだ。
空になったものは、怒鳴ったところで満ちない。
だが、それなら。
どうすればいい。
海竜王の喉が、青白く透けた。
光が膨らんでいる。開いた顎の奥へ、幾筋もの水が吸い込まれていく。
あれを、もう一度打ち消せるか。
ソウは自分の腕を見た。
剣一本、まともに持ち上げられない腕だった。
船が大きく揺れた。
ルーンがソウを引き寄せる。傾いた視界の向こうに、小さな帆が見えた。
白銀の軍船のものではない。
何度も繕い、潮で色の変わった、見慣れた帆。
ゲンたちの船だった。
遠ざかってはいなかった。
波に押し戻されながら、それでも船首をこちらへ向けようとしている。
舵を握る影が見えた。もう一人が、甲板を這うようにして縄へ手を伸ばしていた。
「……馬鹿野郎」
迎えに来るつもりなのだ。
ソウが戻ってくると、信じている。
こんな化け物が目の前にいるのに。船がいつひっくり返されるかもわからないのに。
置いていこうとしない。
その帆の向こうに、陸が見えた。
低く連なる屋根。
焼けた倉庫。
途中で折れた桟橋。
そこから坂を上った先には、避難所がある。
リナは、父親のそばにいるだろうか。
昨日、抱きついたきり離れようとしなかった。父親の方も、何度も小さな背中を撫でていた。
ソウが声をかけても、リナはすぐには振り返らなかった。
それでよかった。
もう、檻の中から助けを呼ぶ必要はない。 ソウの服を掴み、置いていかれないかと顔色を窺う必要もない。
ようやく、父親のもとへ帰れたのだ。
ボーレンは、工房を置いてきた。
あれほどの工具を馬車へ積んで、この町まで運んできた。 炉を据える場所を決めたら、当然のように手伝えと言うだろう。
ゲンも、トウヤも。避難所にいた奴らも。
何もかも失いかけながら、それでもここで生きようとしていた。
ソウは故郷を見つめた。
帰ってきたのだ。
ようやく。
それを、また失うのか。
指が、柄へ食い込んだ。
まだ、漁にも出ていない。
あいつらと網を引き、魚を山ほど積んで、港へ戻ってもいない。
桟橋で待っていたリナに魚をねだられて、おじちゃんじゃねえと怒鳴る。
釣果を見たゲンと笑い、トウヤに次の支度を急がせる。
そんな当たり前の一日を、まだ取り戻していなかった。
終われるわけがない。
この海を見捨てて、逃げられるわけがない。
「俺様は、この海も町も守ってみせる」
ルーンがソウを見た。
今度の言葉は、掠れなかった。
ソウは故郷から目を戻した。
頭上を覆う、巨大な影。
その向こうには、いつも船を出していた海がある。
「そのために――リヴァイアサン。こいつは必ず倒してみせる」
掌が、温かくなった。
ソウは目を落とす。
柄を握る指の間に、小さな光があった。
いつものように、激しく噴き出す力ではない。細く、頼りなく、それでも消えずに灯っている。
その光が、聖剣の紋章へ流れ込んだ。
ソウの肩を支えていたルーンの指が、ぴくりと動く。
「その魔力は……グニルズブルーストかの」
「……これが?」
ソウは自分の手を見た。いつもと少しだけ色合いの違う赤さ。
守るための魔力。
そんなもの、自分には縁がないと思っていた。
誰かのために祈るような性分ではない。気に食わない奴がいれば殴り、邪魔なものがあれば叩き壊す。
それで、ここまで来た。
だが――帰ってきた町がある。 自分を待っている奴らがいる。
それを守りたいと思うことに、嘘はなかった。
小さな光が、絶えず剣へ流れていく。
ソウは海竜王を見上げた。
奪わせない。
船も。
町も。
そこで暮らす奴らも。
奪おうとするなら――
胸の奥で、紅い力が揺れた。
滅ぼしてやる。
小さな光へ、ラグナロクが混ざった。
聖剣の紋章が、明るさを増す。 刀身の根元へ、紅い筋が伸びた。
ルーンは何も言わなかった。
ただ、すぐ隣で、その変化を見つめていた。
ソウが足を引き寄せる。
靴底を、甲板へ押しつけた。
膝は震えていた。 腕も重いままだった。
体の痛みも、疲れも、消えたわけではない。
それでも、今度は力が返ってきた。
ソウはゆっくりと腰を上げる。
ルーンの腕へ預けていた重みが、少しずつ軽くなった。
「……立てるのか」
「ああ」
ルーンの手が離れた。
船が揺れる。
ソウは足を開き、その揺れを受け止めた。
海の上では、何千回も繰り返してきた動きだった。
聖剣の切っ先が、濡れた甲板から離れる。
ソウは、自分の足で立っていた。




