第二十話 聖なる加護
白銀の軍船が、ゆっくりと傾いていく。
海へ沈んだ船縁から水が流れ込み、甲板に転がっていた盾や剣が、音を立てて滑り落ちた。
ルーンは隣の船の帆柱へ降り立ち、その様子を見下ろしていた。
「あっちは、どうなったかの」
視線の先で、別の軍船が大きく揺れた。
船腹に開いた穴へ、海水が吸い込まれている。 その甲板を、ソウが駆け上がってきた。
「これで、もう一隻だ!」
「見ればわかる。いちいち叫ばんでもよいわ」
ルーンは鼻を鳴らした。
そのとき、艦隊の奥で光が膨れた。
朝陽とは違う。 海面に浮かぶ残骸も、破れた帆も、白一色に染めるほどの輝きだった。
ルーンが顔を向ける。
一隻の軍船から、男が浮かび上がっていた。
金の装飾を施された白銀の鎧。 肩から垂れる長い外套。 右手には、細身の剣を握っている。
男は沈みつつある船を見渡した。
「……たった二人に、ここまで荒らされるとはな」
甲板に残っていた兵士たちが、顔を上げた。
「総帥閣下!」
男は声に応じず、ソウへ目を向けた。
「貴様か。我が軍の船を沈めて回っているのは」
「見てわかんねえか?」
ソウは聖剣を肩へ担いだ。
「俺様の海に、随分と邪魔なもんを浮かべてくれたじゃねえか」
「貴様の海?」
「ああ。残りも沈める。文句はねぇな?」
総帥の視線が、ルーンへ移った。
「蛮族に、魔物まで加わったか」
「挨拶もできん男じゃのう」
ルーンが帆柱から、ふわりと身を浮かせた。
総帥は剣を胸の前へ掲げる。
「海竜を討つために備えていた力だ。貴様らには過ぎたものだが――」
刀身に、白い光が走った。
「天よ。我が信仰を、裁きの刃と成せ」
背中で光が開く。
幾重にも重なった羽が広がり、外套を押し退けた。 巨大な翼が一度羽ばたく。
天使顕現――《ミカエル》。
白い羽が海上を舞った。
総帥の体が、さらに高く昇っていく。 帆柱の先を越え、ソウが顔を上げなければ見えない場所で止まった。
「ひれ伏せ」
剣先が、ソウへ向いた。
「《天罰の光剣》」
光が走った。
◇ ◇ ◇
「ラグナロクパリィ!」
ソウの眼前で、紅い魔力が弾けた。
空から伸びた白い光が、その手前で途切れる。 ぶつかり合った魔力が散り、潮風が頬を打った。
総帥が目を細める。
「……消したか」
「その程度、何度も見てんだよ」
ソウは笑った。
だが、総帥は剣を下ろさなかった。
切っ先が、わずかに動く。
ソウは甲板を蹴った。
白い線が足元を通り抜ける。 遅れて板が裂け、切断された手すりが海へ落ちた。
「おいおい。自分の船だろうが」
「ならば、その船とともに沈め」
次の光が放たれた。
ソウは着地した姿勢のまま、聖剣を振り上げる。 紅い魔力が光を消した。
息を吐く。
二度目は、さっきより重かった。
艦隊へ乗り込んでから、何度も剣を変形させている。 牙を回し、船腹へ穴を開け、火球を打ち消してきた。
まだ戦える。
だが、いつまでも続けられるわけではなかった。
「こっちの番だ」
ソウは総帥へ切っ先を向けた。
聖剣変形――《ヨルムンガルド》。
刀身が節へ分かれ、その間を黒い芯が繋ぐ。 腕を振り抜くと、蛇腹の刃が空へ跳ね上がった。
真っ直ぐに伸びる切っ先。
総帥は避けなかった。
剣先が、白銀の胸甲へ当たる。
ソウの手に、確かな感触が返った。
だが、それだけだった。
「……あ?」
刃が刺さらない。
総帥の体がわずかに後ろへ押される。 それでも鎧には、引っかき傷すらついていなかった。
ソウは手首を返した。
刃を横へ流し、今度は露わになった頬を狙う。 剣先がその顔をかすめた。
皮膚が押される。
だが、血は出なかった。
「無駄だ」
総帥がソウを見下ろす。
「《聖なる加護》の下にある我が身へ、貴様の刃は傷を残せん」
剣が光った。
ソウは蛇腹の刃を引き戻しながら、身を投げ出した。
さっきまで立っていた場所へ、白い光が突き刺さる。 甲板を貫き、船の奥で水が噴き上がった。
頭上で、黒い霧が集まった。
総帥の背後に、ルーンが現れる。
「では、こちらはどうかの」
白い指が首元を掴んだ。 鋭い爪が皮膚へ食い込もうとする。
総帥の首が、横へ引かれた。
それでも、その皮膚は裂けなかった。
ルーンの目が細くなる。
「……なるほど」
総帥が振り向きざまに剣を薙いだ。
ルーンの姿が霧へほどける。 白い光が黒い霧を抜け、その向こうにあった帆柱を斬り飛ばした。
帆が崩れ落ちる。
ソウはその下を抜け、傾いた船縁へ走った。
「ルーン!」
「わかっておる!」
隣の船へ、蛇腹の刃を突き刺す。 ソウは柄を引き、自分の体を海の上へ投げ出した。
背後で、光が甲板を裂いた。
◇ ◇ ◇
着地と同時に、ソウは膝を曲げた。
足の裏が痺れる。 剣を引き抜く手に、汗が滲んでいた。
黒い霧が隣へ流れ、ルーンの姿へ戻る。
「傷がつかねえって、どういうことだ」
「魔法じゃな。やつの加護が、傷を負うことを防いでおる。鎧も肉体もじゃ」
「あの硬い山賊と同じかか?」
「そうじゃの。あやつ自身へ作用しておる魔法じゃ。じゃが硬くなるのとは、訳が違うの。かなり上位の魔法じゃ」
ソウは上を見た。
総帥は、同じ高さにいた。
船が沈もうと、帆柱が折れようと、その足場は失われない。 翼を広げたまま、こちらへ剣先を向けている。
「加護が切れるときは?」
「攻撃の最中も、消えてはおらんかった」
「……だろうな」
ソウも見ていた。
光を放つとき。 爪を首へ突き立てられたとき。
総帥は一度も、身を守ろうとしなかった。
「《天罰の光剣》」
「ちっ!」
ソウはルーンと別の方向へ走った。
光が二人の間を裂く。 続く一撃が、ソウの進む先へ向いた。
止まれば、次が来る。
ソウは歯を食いしばった。
「ラグナロクパリィ!」
紅い魔力が爆ぜる。
白い光が消えた向こうで、総帥の口元が動いた。
「まだ消せるようだな」
剣先が、ゆっくりとソウを追う。
「だが、あと何度消せる?」
ソウは答えなかった。
柄を握り直す。
総帥はその手を見ていた。
「船を沈めるために、随分と力を使ったらしい。初めの威勢はどうした?」
「降りてきたら見せてやるよ」
「その必要が、どこにある」
再び光が走った。
ソウは横へ跳ぶ。 着地した足元へ、次の光。
紅い魔力で打ち消した瞬間、腹の奥から力が抜けた。
まだ、空ではない。
だが、減っている。
工房で足が動かなくなったときの感覚が、頭をよぎった。
「貴様は防ぐたび、力を失う」
総帥の声が降ってきた。
「こちらへ刃を届かせても、傷一つつけられん。いつまで続けられる?」
ソウは舌打ちした。
言っていることは、正しかった。
上から撃たれる。 消す。 反撃しても傷がつかない。
このまま続ければ、先に膝をつくのはこちらだ。
ルーンが船室の陰へ降り立った。
「ソウよ。どうする?」
ソウは手元の剣を見た。
欲しい形を願え。
ボーレンの工房で、ルーンはそう教えた。 届かない獲物へ、刃を伸ばした。 船を沈めるために、船底まで貫く形を引き出した。
なら、今度は――。
「このままじゃ、まともに斬り込めねぇ。なんとか引きずり落としてくれ」
「わらわも、おまえさんも有効打がないぞ。どうするんじゃ?」
「ないなら、新しく手に入れるしかねぇだろ」




