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聖剣と悪の血統者~海賊王の伝説~  作者: 名録史郎


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第十九話 腐敗の貴婦人

 一方――。


「あっちは、派手にやっとるのう」


 別の軍船の帆柱の上に、ルーンは立っていた。


「さてと」


 ルーンは、まるで重力などこの世に存在していないかのように、ふわりと甲板に降り立った。


「賭けを受けた以上、負けるわけにはいかんからのう」


「だ、誰だ。お前は!」


 ルーンは声の主へ目を向けた。


 剣を抜いた兵士が、こちらを睨んでいる。

 その後ろでも、次々と武器が持ち上がった。


「名乗れば、剣を下ろすのかの?」


「動くな!」


「わらわの話を聞いておらんな。折角美女が話しかけておると言うのに」


 ルーンは小さく息を吐いた。


 兵士が踏み込む。

 突き出された剣が、胸を貫いた。


 はずだった。


 切っ先は何の抵抗もなく、その体を通り抜けた。


「……は?」


 兵士の目の前で、ルーンの輪郭が崩れた。


 胸から肩へ、薄い霧がほどけていく。

 剣に触れたところだけが曖昧になり、その向こうに甲板が透けて見えた。


「危ないではないか」


 声は、すぐ耳元で聞こえた。


 兵士が振り向く。


 いつの間にか、ルーンはその隣に立っていた。

 白い指が、剣を握る手首へ添えられる。


「おまえさん、魔力はあるかの?」


「ば、化け物――!」


「少し、味見じゃ」


 ルーンが顔を寄せた。


 唇の間から、鋭い牙が覗く。


 兵士の首筋へ、それが沈んだ。


 声が途切れた。


 男の手がルーンの肩を掴もうとする。

 だが、指は衣装ごと霧をすり抜け、空を掻いた。


 ルーンの喉が、静かに動いた。


 血とともに、魔力が吸い上げられていく。


 兵士の顔から色が失われた。

 頬がこけ、首筋が痩せ、握っていた剣が甲板へ落ちる。


 鎧の内側で、体が小さくなっていった。


 ルーンが口を離すと、男は膝から崩れた。

 倒れた拍子に兜が外れ、干からびた顔が露わになる。


「……薄いのう。不味すぎじゃろうて」


 ルーンは唇の端を指で拭った。


 ソウの魔力を味わった後では、物足りなかった。


「離れろ! 近づくな!」


 別の兵士が叫ぶ。


 盾を持った者たちが後退し、その間から杖が向けられた。

 青白い光が膨らむ。


 ルーンはその場で首を傾げた。


「今度は魔法かの」


 火球が放たれた。


 ルーンの体が、ふっとほどける。


 炎は薄い霧の間を突き抜け、背後の木箱へ叩きつけられた。

 板が砕け、火の粉が舞い上がる。


 霧は、その熱を避けるようにゆっくり流れた。


 槍が振られた。

 剣が薙がれた。


 どちらも、何も捉えなかった。


 兵士たちの足元へ霧が広がる。

 膝を撫で、盾の裏へ入り込み、背後で人の形を取り戻した。


「そこにいるぞ!」


 振り向いた男の喉へ、白い手が伸びる。


「そう騒がずとも、聞こえておる」


 ルーンは男を引き寄せた。


 牙が首筋へ触れた瞬間、兵士の杖から光が消えた。

 溜めていた魔力まで吸い取られ、抵抗する腕が落ちる。


 干からびた体を放すと、ルーンは顔を上げた。


 兵士たちが離れていく。


 一歩。

 さらに一歩。


 近づけば吸われる。

 遠くから撃っても、当たらない。


 それを理解した顔だった。


「どうした。もう終わりかの?」


 ルーンが微笑んだ、そのとき。


 海の向こうで、ひときわ大きな轟音がした。


     ◇ ◇ ◇


 ルーンは船縁へ目を向けた。


 白銀の軍船が、一隻、大きく傾いている。


 低くなった船縁へ海が乗り上げ、甲板の荷が滑り落ちていた。

 兵士たちが海へ飛び込む。

 船体の奥から、梁の折れる音が響いた。


 その上を、黄金の髪が駆け抜けていく。


 ソウだった。


 沈みゆく船を足場にして、もう次の軍艦へ向かおうとしている。


「……ほう」


 ルーンの笑みが、わずかに深くなった。


 兵士を何人倒しても、船が浮いているうちは数にならない。


 こちらは、まだ一隻目の甲板で食事をしていた。


「あやつ、もう沈めよったか」


 脳裏に、ソウの得意げな顔が浮かぶ。


 勝ったら、なんでも言うことを聞かせる。

 確かに、そう約束した。


「……それは、面白くないのう」


 ルーンは兵士たちへ向き直った。


 今度は、彼らの方が目を逸らした。


「遊んでおる場合ではなくなったのじゃ」


「撃て!」


 命令が飛んだ。


「ありったけだ! まとめて焼き払え!」


 いくつもの魔法陣が灯る。


 ルーンは逃げなかった。


 片手を胸元へ添える。

 指先が、ゆっくりと衣装をなぞった。


 甲板に溜まっていた霧が、彼女のもとへ戻り始めた。


 薄い靄が重なり、足首を隠す。

 膝へ、腰へと這い上がり、衣装の裾を持ち上げた。


 霧の色が変わる。


 透き通っていた白が、灰色に濁った。

 その奥を、青緑の光が脈打つ。


 甘い匂いが漂った。


 熟れすぎた果実を、密閉した箱の中で潰したような匂いだった。


 兵士の一人が口元を押さえた。


「……何だ、この臭い」


 ルーンの衣装が、長く広がった。


 幾重にも重なった裾が、甲板を覆う。

 布の端は霧へほどけ、再び織り上がりながら、暗い色を深めていった。


 首元から、淡い光が顔へ上る。


 顔の片側には、いつもの美貌が残っていた。


 もう片側は、血の気を失っていた。

 頬を灰色の筋が走り、目元に死者のような深い陰が落ちる。


 頭上で霧が絡み合った。


 枯れ枝を編んだような冠が形を成す。

 その先に、青白い光が小さく灯った。


 ルーンが目を開いた。


 魔神変化――《腐敗の貴婦人ヘル》。


 長い裾の下から、濁った霧が溢れ出した。


挿絵(By みてみん)


 火球が、一斉に襲いかかった。


 ルーンは、片手を持ち上げた。


 その指先から腕へ、体が霧と混ざり合う。


 炎は再び、彼女を捉えられなかった。

 すり抜けた火球が帆を焼き、船縁を砕く。


「魔法も効かない……だと!」


 誰かが呟いた。


 その足元を、毒霧が通った。


 男が咳き込む。


 一度では止まらなかった。

 喉を押さえ、膝をつき、息を吸おうとして、さらに霧を取り込んだ。


 男の手から杖が落ちる。


 指先が黒ずんでいた。


「何だ、これ……何だよ!」


 手袋を引き剥がした男が叫ぶ。

 その下で、皮膚が色を失い、崩れ始めていた。


 隣の兵士が肩を貸そうとした。


 だが、その男も足を止めた。


 鎧の隙間から、霧が入り込んでいる。

 肘へ、首元へ、顔を覆う兜の内側へ。


 盾では塞げなかった。


 剣では払えなかった。


 息を止めた者も、霧に触れた腕から力を失った。


 ルーンが歩き出す。


 靴音はしなかった。

 長い衣装の裾と毒霧だけが、甲板を静かに滑っていく。


「逃げろ! 上へ――」


 帆柱の縄へ飛びついた男の足首を、霧が包んだ。

 掴んだ縄から手が離れ、体が甲板へ落ちる。


 船室へ逃げ込もうとした兵士たちの後を、灰色の霧が追った。


 扉が閉まる。


 霧は、その下の隙間へ流れ込んだ。


 ほどなく、内側から扉を叩く音がした。


 ルーンは目を向けなかった。


 前に立つ隊長が、震える手で剣を構えている。


「来るな……」


 一歩、下がる。


「来るな!」


 ルーンは足を止めた。


 男の視線が、彼女の顔の左右を行き来していた。

 美しい女の顔と、死に侵された顔。


 唇が動く。


「来たのはお前さんたちの方であろう」


 ルーンが指を伸ばした。


 男は剣を振り下ろした。


 刃が顔を通り抜ける。

 その向こうで、ルーンの笑みは変わらなかった。


 白い指が、男の頬へ触れた。


 男の顔は、ルーンと同じように腐敗が侵食していく。対照的なのは、表情だった。


 ルーンは聖女のように微笑み続ける。

 男の顔は、苦痛に歪む。


 そして――膝が崩れた。


 剣が落ちる。

 鎧が甲板を打ち、隊長は動かなくなった。


 周囲の声も、少なくなっていた。


 倒れた兵士たちの間を、毒霧が流れていく。

 白銀の鎧だけが、持ち主を失ったように折り重なっていた。


 ルーンは船縁へ向かった。


 沖には、まだ敵の船がある。


 だが、その前に、この一隻を沈めなければならない。


「まあ、ボーレンの道具を運ぶよりは、軽いかの」


 ルーンの姿が、霧へほどけた。


     ◇ ◇ ◇


 船の片側へ、白い影が落ちた。


 魔獣変化――《フェンリル》。


 巨大な狼が、船縁へ前脚をかけていた。


 爪が木を裂く。

 白銀の装甲が、船板ごと軋んだ。


 ルーンは牙を剥いた。


 船体が、ゆっくりと傾き始める。


 甲板を覆っていた毒霧が、低くなった側へ流れていった。

 転がった樽が船縁にぶつかり、倒れた兵士の盾が後を追う。


 大きな狼が、さらに体重をかけた。


 船縁が海面へ近づく。


 波が、一度、甲板を洗った。


 次の波は、戻りきらなかった。


 水が流れ込む。

 閉じられていない船室の入り口へ、海がなだれ込んでいく。


 ルーンは、傾きを緩めなかった。


 太い爪の下で、船板が折れた。


 白銀の軍艦が腹を見せるように横倒しになり、帆柱が海へ叩きつけられた。

 張られていた帆が波を受け、船体をさらに引き倒す。


 重い音を立てて、海が閉じた。


 その上を、白い巨体が跳んだ。


 空中で狼の姿が霧へ変わる。


 次の軍艦の帆柱へ流れ着いたときには、ルーンは人の姿に戻っていた。


 下の甲板から、悲鳴が上がる。


 ルーンは気にせず、黄金の髪を探した。


 見つけると、口元へ手を添える。


「ソウ! こちらも一隻じゃ!」


 潮風が、衣装の裾を揺らした。


「先に沈めたくらいで、勝ったと思うでないぞ」

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