第十五話 帰ってきた船長
潮の匂いがした。
ソウは荷台から顔を上げた。
乾いた土と草の匂いに、懐かしいものが混じっている。
風が頬を撫でた。目を閉じても、どちらに海があるかわかる。
「……近いな」
前を歩く白い狼の耳が動いた。
「ようやくかの」
「あの坂を越えりゃ、港が見える」
ソウの声に、リナが荷物の間から身を乗り出した。
「おうち?」
「ああ」
リナの顔が明るくなる。
ソウはその頭が幌へぶつからないよう、軽く押さえた。
「落ちんなよ」
車輪が石を踏み、荷台が揺れる。
見覚えのある曲がり道を抜け、馬車は緩い坂を上った。
先に見えたのは、海だった。
陽を受けて、波が光っている。
遠くの水平線も、風に押される雲も、覚えているとおりだった。
その下に、港が見えた。
ソウの手が、幌の縁を掴んだ。
倉庫の屋根がなかった。
いつも荷を積んでいた桟橋は、途中で折れている。
海岸へ打ち上げられた船が横倒しになり、黒く焼けた柱が、町のあちこちに残っていた。
網を広げていた場所に、人がいない。
魚を運ぶ荷車も、岸壁を行き交う背中も見えなかった。
波の音だけが、妙にはっきり聞こえた。
「ソウおじちゃん」
リナの声が、小さくなった。
ソウは振り返った。
少女も、港を見ていた。
「パパ、いるかな」
すぐには答えられなかった。
ソウは町へ目を戻す。
高台の方に、人の姿が見えた。
建物の間へ布が張られ、その下に何人もの人間が集まっている。細い煙も上がっていた。
「……あそこで聞くぞ」
ソウは荷台から降りた。
「ルーン。その姿だと、驚かせる」
「そうじゃな」
馬車が止まる。
ボーレンが御者台から降り、革帯を外しに回った。
ソウはリナを抱き下ろした。
少女の手が、すぐにソウの手を握った。
◇ ◇ ◇
避難所の入り口で、男が一人、桶を運んでいた。
ソウを見るなり、足を止める。
桶の水が揺れ、縁からこぼれた。
それでも男は、手元へ目を落とさなかった。
「……おい」
男の口が動いた。
「ソウ、か?」
「ああ」
答えると、男は一度、後ろを振り返った。
それからまたソウを見る。
確かめるような目だった。
「お前……」
「ゲンとトウヤはいるか」
男は答えなかった。
代わりに、建物の方へ声を張った。
「ゲン! おい、ゲン!」
布の下にいた者たちが顔を上げる。
呼ばれた男が、奥から出てきた。
ソウを見たところで、その足も止まった。
ゲンだった。
頬が少しこけていた。
袖口は汚れ、片方の手には布が巻かれている。
「……ソウ?」
「おう」
ゲンが近づいてくる。
目の前まで来ると、ソウの肩へ手を置いた。
強く掴む。
そのまま、何度も目を瞬かせた。
「生きてたのか」
「見りゃわかるだろ」
「お前、あの波に……」
「ああ。随分遠くまで流された」
ゲンの手に、さらに力がこもった。
ソウは眉を寄せる。
「痛えよ」
「……そうか」
ゲンはようやく手を緩めた。
だが、離しはしなかった。
「そうか。生きてたか」
同じことを、もう一度言った。
その後ろに、トウヤが立っていた。
口を開いたまま、こちらを見ている。
「何だ、その顔」
ソウが声をかけると、トウヤの喉が動いた。
「だって……船長、あれから、どこにも……」
「帰るのに手間取ったんだよ」
「探したんです」
トウヤの声が強くなった。
「船を出せるところまで出して、浜も、流れ着きそうなところも。なのに、何も――」
そこで言葉が切れた。
ソウはトウヤを見た。
赤くなった目元。
握り込まれた手。
指の節には、小さな傷が幾つもあった。
「……悪かったな」
ソウが言うと、トウヤは顔を伏せた。
「本当だよ」
声が震えていた。
周囲に、人が集まり始めていた。
「ソウだって?」
「本当に帰ってきたのか」
「港が燃えた日に、死んだって聞いたぞ」
ソウはそちらを向いた。
「勝手に殺すな」
誰かが、短く笑った。
笑いながら目を拭う者もいた。
立ち上がろうとして、隣の者に肩を借りる老人がいた。座ったまま、何度も頷いている女もいた。
歓声にはならなかった。
皆、疲れていた。
大きな声を上げるにも、抱きつきに来るにも、力が要る。
それでも、ソウを見る目が変わっていく。
驚きが、確かめるような眼差しになり、やがて、口元が緩んだ。
「遅えんだよ、船長」
誰かが言った。
「ああ」
ソウは頷いた。
「遅れたが、帰ってきた」
◇ ◇ ◇
繋いでいた手が、小さく引かれた。
ソウは足元を見る。
リナが、人々の間を見渡していた。
誰かの顔が見えるたびに目を上げ、その人が違うとわかると、また別の方を見る。
ソウはゲンへ向き直った。
「リナの親父はいるか」
ゲンの視線が下がった。
少女を見て、息を呑む。
「……リナまで」
「いるのか」
「ああ。奥にいる」
ソウの手の中で、リナの指が強くなった。
ゲンが人垣へ振り返る。
「呼んでこい。早く」
一人が奥へ走っていった。
リナは、その背中を見つめていた。
ソウの手を握ったまま、動かない。
やがて、人々の向こうで足音がした。
「娘が……娘が戻ったって……」
掠れた声だった。
痩せた男が、人の間を抜けてきた。
頬に傷があり、着ている服は土で汚れている。
ソウはその顔を知っていた。
港で顔を合わせるたび、娘が魚をねだってすまないと頭を下げていた男だ。
男はソウを見た。
「……ソウさん。娘を――」
ソウは半歩、脇へ退いた。
リナの手が離れる。
「パパ!」
少女が駆け出した。
男が膝をつく。
広げた腕へ、小さな体が飛び込んだ。
「リナ……!」
男の背中が、大きく揺れた。
娘を抱きしめ、その髪へ頬を押しつける。
一度離して顔を見ようとしたが、リナが首へしがみついた。
「パパ、パパ……!」
「ああ。ああ……」
男はそれしか言えなかった。
背中を撫でる手が震えている。
小さな肩を抱き、髪に触れ、もう一度強く抱きしめる。
リナは泣いていた。
檻の前でソウへしがみついたときよりも、大きな声だった。
父親の胸へ顔を埋め、息を継ぐたびに、また「パパ」と呼んだ。
ソウは手を下ろした。
さっきまで握られていた指に、まだ温かさが残っていた。
誰も、二人を急かさなかった。
ゲンも、トウヤも黙っていた。
近くにいた女が口元を押さえ、そっと顔を背けた。
男が娘を抱いたまま、ソウを見上げた。
「どこに……いたんですか」
「クラウドラだ。人さらいに捕まってた」
男の顔が強張った。
腕の中のリナへ目を落とす。
袖から覗いた手首の跡を見つけ、その指が途中で止まった。
「……怖かったな」
男は娘の頭を抱き寄せた。
「ごめんな。迎えに行けなくて……」
リナが首を振る。
父親の服を掴んだまま、何度も振った。
「ソウおじちゃんが、来てくれた」
「ああ……」
「剣で、開けてくれたの」
リナが、ようやく顔を上げた。
涙で濡れた頬のまま、ソウを見る。
「帰れるって……」
その先は、また声にならなかった。
男が深く頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に……何とお礼を言えば……」
「立てよ。リナが落ちるぞ」
ソウは男の肩へ手を置いた。
男は娘を抱き直して立ち上がった。
リナはもう、自分の足で下りようとはしなかった。
「離してやんなよ」
ソウが言うと、男は強く頷いた。
「はい」
リナが父親の肩越しに顔を出す。
「ソウおじちゃん」
「おじちゃんじゃねえ」
いつもの返事が出た。
リナの口元が、少しだけ緩んだ。
「ありがとう」
ソウは一度、鼻を鳴らした。
「……おう」
◇ ◇ ◇
少し離れたところに、ルーンが立っていた。
人の姿に戻り、親子の様子を静かに眺めている。
その向こうでは、ボーレンが馬車の脇に立っていた。積まれた木箱と台座は、まだ縄で固定されたままだ。
ゲンがルーンへ目を向ける。
「そっちの人たちは?」
「連れだ。世話になった」
ソウが言うと、ルーンが眉を上げた。
「ほう。おまえさんの口から、それが聞けるとはのう」
「何だよ」
「何でもないのじゃ」
ルーンは小さく笑った。
ゲンは彼女とボーレンへ頭を下げた。
「こいつを連れて帰ってくれて、ありがとう」
「俺様は荷物じゃねえぞ」
「荷物より、よほど騒がしかったわ」
馬車の脇から、ボーレンが言った。
トウヤが吹き出した。
すぐに口を押さえたが、ゲンも笑っていた。
ソウは二人を見て、肩をすくめた。
リナは父親に抱かれたまま、近くの人たちに声をかけられている。
父親の服を掴む手は、まだ離れない。
だが、もうソウの姿を探してはいなかった。
ソウは港へ目を向けた。
折れた桟橋。
焼けた倉庫。
横倒しになった船。
戻ってきたからといって、何も元どおりにはならない。
聞かなければならないことも、顔を確かめたい相手も、まだいくらでもあった。
ゲンが、隣に立った。
「……ひとまず、座れ。水くらいはある」
「ああ」
歩き出そうとしたところで、トウヤが言った。
「おかえり、船長」
ソウは足を止めた。
潮の匂いがする。
聞き慣れた声が、自分を呼んでいる。
ソウは振り返った。
「おう。ただいま」




