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第八章 将軍のあそび

戦線に着いてから、十日が過ぎていた。

 日ごとに小さな衝突があり、三日に一度は大規模な交戦があった。リオンの小隊は、そのたびに呼ばれて戦場を移動した。左翼で帝国の魔術部隊を抑え込み、中央で突破を阻み、右翼で援護する。独立支援小隊の名の通り、固定の持ち場はない。呼ばれるがままに駆け、打ち消して、退く。

 兵たちの視線は、最初の日からあまり変わっていなかった。

「打ち消しの小隊」――そう呼ばれるときは、多少の敬意が混じる。魔術を恐れずに戦える。その便利さは兵たちに知れ渡っていた。しかし「打ち消しの小隊」と、リオン本人は、別のものとして扱われていた。

「あの餓鬼、今日もまた戦闘の前に吐いてやがる」

「盾としちゃ便利なんだけどなあ。本人が戦えねえからな」

「あの精霊持ちが、もっと骨のある奴だったら言うことないんだが」

 聞こえないふりをしていた。実際、その通りなのだから。毎朝吐きそうになるのも、戦闘中に剣を抜けないのも、事実だった。

 打ち消しは便利だ。本人は役に立たない。便利な力を持った臆病者の勇者様。養成学校でついたあだ名は、戦場でも剥がれなかった。

 フィルは襟の中で震え続けている。リオンも毎朝震えている。何も変わっていない。変わったのは、自分たちが呼ばれて走る戦場の場所だけだ。

 ガルドはどこか別の場所に配置されていて、戦場で顔を合わせることは少なかった。傭兵として雇われた彼は、指揮系統が違う。野営地で夜に会えば、酒瓶をひと口分けてくれる程度の付き合いだった。


 ある朝、野営地がざわついていた。

 炊事当番の兵がパンを配りながら、隣の兵に囁いている。

「聞いたか。昨日の夕方、帝国側に新しい奴が来たらしい」

「誰だ」

「金髪の若造らしい。だが……炎が化け物みたいにでかかったって」

 リオンはパンを受け取りながら、その会話を聞いていた。炎が大きい。それだけで、精霊の出力が桁違いだと分かる。

 指揮所から伝令が走ってきた。各小隊長が招集される。

 戻ってきたヴェルディア軍の小隊長たちの顔が、一様に硬かった。

 トールが古参の兵に尋ねた。

「何があったんですか」

 古参の兵は、しばらく黙っていた。それから、煙草の火を口元に当てて短く言った。

「『黄金の将軍』が来た」

「誰です、それ」

「カイル・ヴァルザード。帝国最年少の将軍。二十歳そこそこで帝国の精鋭部隊を預かってる男だ。――化け物だよ。一人で戦線をひっくり返す」

 古参の兵は煙を吐いた。

「正式な着任じゃないって話だ。独断で来た。戦を、楽しみに来たんだろうさ」

 楽しみに。

 リオンは言葉の意味が分からなかった。戦場を楽しむ。それがどういうことなのか、想像できなかった。

 トールがリオンを見た。何か言おうとして、やめた。エマが黙って紅茶を淹れていた。


 その日の午後、交戦が始まった。

 帝国軍が中央を押してきた。歩兵の密集陣。そこから炎が飛ぶ。大きい。昨日までの魔術部隊の何倍もの火力だ。

 ヴェルディア軍の中央が一気に押された。前衛が崩れる。正規軍の精鋭部隊――歴戦の剣士たちが駆けつける。

 リオンの小隊には、中央への援護命令が下った。

 走った。前線が見えてきた瞬間、リオンの足が止まりかけた。

 中央が、燃えていた。

 地面が焦げ、兵が倒れ、炎がまだ渦を巻いて残っている。遠くで、一人の人間が歩いていた。

 金髪。軍装は他の帝国兵とは異なり、装飾の多い将官服。剣を一本、提げている。歩き方に無駄がない。背筋がまっすぐで、まるで散歩でもしているようだった。

 その周りで、ヴェルディアの精鋭が倒れていた。

 一人、二人、三人。歴戦の剣士たちが、血を流して地面に転がっていた。死んでいる者もいた。まだ息がある者もいた。

 金髪の男が、また歩き出す。次の敵に向かって。

 黄金の将軍、カイル・ヴァルザード。

 近くで見るのは初めてだった。想像していたよりも若かった。リオンと五、六歳しか違わない。端正な顔立ちで、表情に余裕がある。怒りも焦りもない。戦場にいるのに、退屈そうですらあった。

 ヴェルディアの新たな剣士が彼に挑んだ。

 火が渦を巻いた。剣士の精霊が弾き飛ばされた。剣士が構える前に、カイルの剣が届いた。斬った。剣士は崩れた。

 一秒もかからなかった。

 カイルは手の甲で軍装を払った。血の飛沫がついていた。

 別の剣士が続く。また一秒で決着。また次。また次。

 リオンは息ができなかった。


「リオ、下がれ」

 トールの声が聞こえた。トールがリオンの腕を引いた。

「無理だ。あいつは別次元だ。打ち消しでも追いつくかどうか分からねえ。中央は諦めて、左に回るぞ」

 エマも頷いていた。リオンも同意だった。あれは、自分たちが対峙する相手ではない。

 しかしその瞬間、カイルが顔を上げた。

 視線がこちらに向いた。

 目が合った、気がした。まさか、この距離で。リオンの膝が笑った。フィルが襟の中に完全に潜り込んだ。

 カイルは、リオンたち三人を少しのあいだ見ていた。そして――歩き始めた。

 こちらへ。

「走れ!」

 トールが叫んだ。三人が後退し始めた。しかしカイルはゆっくり歩いているように見えるのに、距離が縮まっていく。

 リオンは走りながら振り返った。

 カイルの手のひらから、火球が放たれた。一塊の、洗練された炎。ヴェルディアの精鋭たちを焼いた、あの炎。

 来る。

 リオンは足を止めた。反射的に。フィルが襟から飛び出し、リオンの胸元に張り付いた。

 炎がリオンに届く寸前――胸のあたりに触れるほどの距離で、見えない壁にぶつかったように掻き消えた。熱も光も、その瞬間に消え失せた。

 カイルが、初めて表情を動かした。

 微かに、眉が寄った。「ほう」という形の口。そして足が速くなった。今度は早歩きで、リオンたちに向かってきた。

 二発目。三発目。四発目。

 すべて、リオンの身体に当たったように見え――しかし焦げた痕も、火傷も残らない。炎はリオンに触れたその瞬間、何の痕跡も残さず消え失せた。

 カイルが立ち止まった。距離は十五歩ほど。剣を抜いたままだった。しかし、振りはしなかった。


 しばらく、沈黙があった。

 カイルが、リオンを見ていた。

 リオンも、カイルを見ていた。

 正しくは、リオンは見ているというより、ただ視線を逸らせなかっただけだった。震えている。歯が鳴っている。剣を抜くことすら、できていない。

「なんだ、お前」

 声を発した。澄んだ、若い男の声。苛立ちというより、気紛れな好奇が混じっていた。

「俺の炎を四度、消したな。どうやった?」

 問いだった。しかし真剣に答えを求めているというより、面白がっている口調。

 リオンは喉が干上がっていた。答えられない。

 トールが横から一歩前に出た。剣を構えようとした。

「動くな」

 カイルが言った。視線はトールに向けていなかった。しかし、それだけでトールの動きが止まった。剣の柄を握る手が白くなるほど力が入っているのに、指一本動かせない。エマも息を詰まらせたまま硬直している。膝が笑っているのが横目に見えた。

 ただの「動くな」の二文字で、小隊全体が金縛りに遭っていた。

「いいから、答えろ。お前、何者だ」

 リオンは唾を飲み込んだ。

「……わからない」

「わからない?」

 カイルが、今度は微かに笑った。鼻で笑うような動き。

「わからないか。面白いな、それは」

 髪をかき上げた。苛立ちではなく、愉快がっている仕草だった。

「まあ、いいさ。お前が何者でも。――剣を抜け。少しは打ち合おう」

 カイルが命じた。

 リオンは動けなかった。剣の柄に触れることすら、できていない。手が動かない。

 カイルが、片眉を上げた。

「抜かないのか?」

「……抜けない」

「ほう」

 カイルが、ふっと笑いを消した。抜いていた剣を、リオンに向けて、ほんの一瞬だけ持ち上げた。ただそれだけの動作で、リオンの脚が完全に崩れた。地面に膝から落ちた。抵抗の意思も、逃げる意思すらもない。

 フィルが胸元でしがみついて震えていた。

 カイルが、深く息を吐いた。

「……つまらん」

 呟いた。

「変な奴がいるから、気になって来てみたんだがな。お前、何も分からないまま、ただ震えてるだけじゃないか。これじゃ、遊びにもならん」

 そのとき、遠くから帝国軍の角笛が聞こえた。低く、長く、二度。カイルが一瞬、そちらに視線を向けた。

「呼び戻しか」

 舌打ちをした。しかし、どこか軽い舌打ちだった。

「仕方ない。――今日は、ここまでだ」

 剣を鞘に収めた。

「名前を聞いておこう」

「……リオン」

「リオン、か」

 カイルが、もう一度笑った。今度は楽しそうな、子供のような笑い。

「次に会うときは、もう少し楽しませてくれよ。リオン」

 それだけ言って、背を向けた。

 カイルが歩き去った。来たときと同じ歩幅で、悠然と、しかし少し足早に、角笛の方角へ戻っていった。

 ヴェルディア兵の誰かが呟いた。「行っちまった」。誰かが別の声で続けた。「あれで、終わりか」。

 カイルの姿が戦線の向こうに消えるまで、リオンは動けなかった。トールもエマも動かなかった。


 その日の戦闘は、奇妙な形で終わった。

 カイルが戦線を離れたあと、帝国軍の攻勢が弱まった。将軍が離脱すれば兵の士気が下がる、というよりも――そもそもあの攻勢は、カイル個人が動かしていた部分が大きかったのだろう。

 ヴェルディア軍の中央は、かろうじて持ちこたえた。精鋭の死者は多かった。歴戦の剣士が五人、カイル一人に斬られていた。

 野営地に戻ったリオンは、軍装を脱ぐことすらできずに、地面に座り込んでいた。震えが止まらなかった。殺されかけた。いや、殺す気があれば殺されていた。そうならなかったのは、あの男の気まぐれだ。

 トールが隣に座った。エマが毛布を持ってきて、三人並んで焚き火を見た。しばらく誰も口を利かなかった。三人とも、同じ光景を見ていた。同じ恐怖を感じた。言葉にすることは、今はなかった。

 トールが、ぽつりと言った。

「俺たち、運がよかったな」

「……うん」

「次の運があるかどうかは、わからんな」

 リオンは頷いた。それだけだった。

 遠くで、ガルドが来るのが見えた。指揮所に報告に行った帰りのようだった。リオンたちの様子を見て、足取りが速くなった。

「お前ら、無事か」

 ガルドが声をかけた。トールが顔を上げた。

「無事は無事だ。……黄金の将軍に、会った」

 ガルドの顔が強張った。

「会った? 生きて帰ってきたのか」

「見逃された」

 トールが説明した。リオンは何も言えなかった。ガルドがリオンを見た。

「どう言って去った」

「……つまらん、って。次に会うときは楽しませろ、って」

 リオンがやっと答えた。ガルドの眉が跳ねた。

「遊び相手に指名された、ってことか」

 舌打ちをした。酒瓶を出して、一気に半分ほど呷った。普段の彼には珍しい飲み方だった。

「まずいな」

「何が」

「あの男にとって、戦は遊びだ。気に入ったおもちゃは、飽きるまで相手にする」

 ガルドの目が、焚き火を越えて、暗い夜の平原を見ていた。

「次に会うときは、今度こそ本気で遊ばれる。――生き残れるかどうかは、運次第だ」

 リオンは黙っていた。フィルが肩で震えていた。

 夜空には、星が出ていた。

 昨日まで聞こえていた帝国陣営の歌は、今夜は聞こえなかった。誰かが歌う気分にならなかったのかもしれない。あるいは、新しい将軍が来て、歌う場所ではなくなったのかもしれない。共有

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