第七章 弔いの歌
ヴェルディア王国東部国境。
リオンが見た最初の戦場は、平原だった。
東部国境は、南北に長い。地形ごとに区切られた複数の戦線が、帝国との境界沿いに点在していた。北の大街道沿いには両軍の主力が集結し、そこが決戦の場と目されている。リオンたちが投入されたのは、その南に位置する、街道の走る平原地帯――中堅の戦線だった。
両軍の野営地は、平原を挟んで向かい合っていた。ヴェルディア軍はおよそ八千。偵察によれば、帝国軍は一万を超えるという。決戦の場ではない。しかし抜かれれば内陸への扉が開く。食い止める必要のある戦線だった。
すでに三度の交戦を経て、消耗と膠着が続いていた。候補生は各戦線に分散投入されており、この戦線にも十数名が送られていた。リオンたちは、その中でも特異な編成だった。独立支援小隊、三人。
リオンたち三人と、ガルドを加えた四人が野営地に着いたのは、夕刻だった。
候補生の到着はすでに別ルートで通知されていたらしく、指揮所に案内された。案内役の伝令兵は、候補生たちを見ると目を輝かせた。
「噂通り、若いですね。でも立派な装備だ」
トールの大地の精霊が土を持ち上げて遊ぶ様子を見て、伝令兵は感心した声を上げた。エマの水の精霊が兵の擦り傷をさっと癒すと、「こりゃ助かる」と相好を崩した。
そしてリオンの肩で震えているフィルを見て、伝令兵は言葉に詰まった。
「……えっと」
「光ってるだけに見えるよな」
リオンが先回りして言った。何度も言われてきた反応だ。伝令兵が気まずそうに頭を掻いた。
「いや、その、悪かった。でもほら、こう、聞いてたんだが、特殊な力があるって。……大丈夫ですよね?」
「大丈夫だと、思う」
曖昧な返事しかできなかった。伝令兵は複雑な顔をした。
指揮所に通されて、指揮官に挨拶を終えたとき、ガルドがリオンの肩を叩いた。
「慣れろよ。戦場は噂が早い。明日の朝には、お前の精霊の話は兵全員に回ってる」
「どう回るかな」
「半分は期待、半分は疑い、ってとこだ。打ち消しってのは見えねえ力だからな。効いてるのか効いてないのか、分かりにくい」
ガルドは酒瓶を懐から出して、ひと口だけ飲んだ。「到着記念だ」と一言。到着した夜は飲むのが彼の流儀らしかった。
翌朝、兵たちの視線が変わっていた。
期待と疑い、半々。ガルドの言った通りだった。
候補生エリートの小隊はすでに陣地の要所に配置されていた。炎と大地と風を操る若者たち。模擬戦でリオンを一方的に打ち負かしてきた連中だ。戦線の兵たちは、彼らを見ると明らかに表情を緩めた。「これなら戦える」。そんな声が聞こえた。
リオンの小隊は、別だった。
独立支援小隊として、戦線のどこに投入するかは戦況次第。その日は最前線から少し下がった予備位置にいた。兵たちがリオンたちの横を通るときの視線は、候補生エリートを見るときとは違った。
「あれが、打ち消しってやつか」
「小さいな。本当に効くのか?」
「まあ、見てみようぜ」
聞こえている。リオンに聞かせるつもりでは言っていない。でも声を潜めるほどの配慮もない。
トールが横でため息をついた。
「リオ、気にすんな」
「……気にしてないよ」
「嘘つけ」
トールは笑った。エマは黙って、自分の水の精霊を撫でていた。
フィルが襟の中で小さくなっている。リオン自身は、意外と落ち着いていた。侮られることに慣れきっている。養成学校で数か月、ずっとこれだったのだから。
ガルドは少し離れた場所で、古参の傭兵らしい兵たちと話し込んでいた。指揮所に顔を出してきたらしく、この戦線の情報を聞き出している。
戦闘は、その日の午後に始まった。
帝国軍が動いた。偵察の兵が息を切らして駆け戻ってきた。
「中央から歩兵。左翼に騎兵。右翼に――魔術部隊」
陣中が一気に緊張した。指揮官が声を上げる。各小隊が持ち場に走る。
リオンの小隊には、指揮所から伝令が走ってきた。
「支援小隊、左翼に回れ! 騎兵の精霊攻撃が来る。打ち消しで凌げ!」
来た。
リオンの心臓が跳ねた。訓練ではない。模擬戦ではない。本物だ。
「行くぞ、リオ」
トールが動き始めていた。大きな背中。エマもすでに救急道具を肩にかけている。ガルドはどこか別の場所に配置されたらしく、見当たらなかった。
「……うん」
リオンは走った。鎧が重い。剣の鞘が腰で揺れる。フィルが襟の中で震えている。全身が震えている。
走りながら、叫びたくなる衝動を飲み込んだ。逃げたい。帰りたい。村に戻って、毎朝素振りをする生活に戻りたい。
でも足は止まらなかった。横でトールが走っている。後ろでエマが走っている。置いていけなかった。
左翼の前線に着いた瞬間、空気が鳴った。
遠くから何かが飛んでくる。帝国軍の魔術部隊が放った、炎の塊だった。大きい。家ほどもある火球が、ヴェルディア軍の左翼に向かって放物線を描いて飛んでくる。
兵たちが悲鳴を上げた。盾を構える者、伏せる者、逃げかける者。
「打ち消せ!」指揮官の声。
リオンは動けなかった。
見たこともない火球が迫っている。あんなものを、この小さなフィルが打ち消せるのか。
「リオ!」
トールの声。
リオンの足が勝手に動いた。前に出た。フィルが襟から飛び出してリオンの肩に留まる。震えている。リオンも震えている。
火球が頭上に迫る。
消えた。
フィルの存在圏に入った瞬間、炎の塊が音もなく掻き消えた。熱も、光も、何も残らない。消えた、としか言いようのない消失。
ヴェルディア兵たちが息を呑んだ。
「……効いてる」
誰かが呟いた。
次の火球が来る。同じ結末。消える。三発目。四発目。十発目。リオンの周囲の半径十数歩の空間では、精霊攻撃が一切機能しなかった。
帝国軍の魔術部隊が、不思議そうな動きを見せた。不発が連続することに気づいたらしい。しかし他に手段がない。炎を放ち続ける。消え続ける。
その間に、ヴェルディア軍の歩兵と騎兵が動いた。魔術の援護がない前線を突破する。接近戦が始まった。
帝国軍の騎兵が、左翼に突っ込んできた。
リオンの小隊の近くまで来た。馬上から剣が振り下ろされる。ヴェルディア兵が受け止める。火花。
リオンは、そこで初めて人間と人間が斬り合う光景を近距離で見た。
剣と剣。怒声と悲鳴。血。肉が裂ける音。馬が倒れる重さ。人が倒れる重さ。
気持ち悪くなった。胃がせり上がる。
帝国兵の一人が馬から落ちて、地面を転がった。若い。リオンと同じくらいの年に見えた。立ち上がろうとした、その肩にヴェルディア兵の剣が振り下ろされた。
悲鳴。血。帝国兵が膝を折って、倒れた。もう動かなかった。
リオンは口を押さえた。吐きそうだった。
しかし戦闘は続いている。別の帝国兵が接近してくる。精霊の力で強化された剣が、トールの大地の壁に阻まれる。トールが呻きながら踏ん張る。ヴェルディア兵が横から斬りかかる。
リオンは、ただ突っ立っていた。自分が何をすべきか、分からなかった。打ち消すべき精霊攻撃は、今は来ていない。剣で切り結ぶには、臆病で腕が動かない。
ただ突っ立って、フィルを抱いて、震えていた。
「リオ、下がれ!」
トールの声。振り向くと、別の方向から帝国兵がリオンに接近していた。
剣が振り下ろされる。
リオンは咄嗟に抜剣した。受け止めた。腕が痺れた。相手の力が強い。押し負ける。膝をつく。
帝国兵の顔が間近にあった。汗と血に汚れている。歳はリオンより少し上。目が怖い。
「死ね、餓鬼」
呟く声が聞こえた。剣に体重がかかる。リオンの剣が押し潰される。
そのとき、横から大地の塊がぶつかった。トールの精霊。帝国兵が吹き飛ばされた。トールが駆けつけて、リオンを抱き起こした。
「大丈夫か!」
「……うん」
返事しながら、リオンは息ができなかった。今、殺されかけた。「死ね、餓鬼」。その声が頭の中で反響していた。
あいつは、自分を殺そうとした。本気で。
分かっていた。戦場だ。当たり前だ。でも、実際にその目を見ると、理解が身体に追いついた。
人間が、人間を殺そうとする場所。ここは。
戦闘は、その日の夕刻に終わった。
帝国軍が後退した。ヴェルディア軍の勝利――と呼ぶには犠牲が多かった。左翼だけで八十人近くが死んでいた。負傷者はその倍を超える。
エマは夜まで救護所で動いていた。水の精霊で傷口を洗い、他の回復役と連携して応急処置を続けた。リオンはエマを手伝って、負傷兵を運んだり、水を運んだりした。震える手では治療はできないが、雑用ならできる。
救護所の隅で、手が動かなくなった兵がいた。リオンと同じくらいの年の若い兵だった。顔に切り傷。泣いていた。エマが隣に座って、黙って背中を撫でていた。
リオンはその光景を見ていた。自分と同じ年の兵が、あんなふうに泣いている。どこかの村から、剣を握って戦場に来た兵だろう。生きて帰れるかは分からない。
フィルが肩で震えていた。リオンは右手の親指で、左手の甲をこすった。
夜。野営地の隅で、リオンは焚き火を見ていた。
眠れなかった。日中の光景が頭から離れない。帝国兵の顔。斬り落とされた男。エマの隣で泣いていた兵。
ガルドが隣に座った。酒瓶を傾けている。
「初日にしちゃ、よくやった」
「……何もしてない」
「打ち消しは効いたろ。左翼の被害は他の翼より少ない。お前のせいで助かった兵が何人もいる」
「でも、俺、剣振れなかった」
「振れなくていいんだ。今日は」
ガルドは酒を一口飲んだ。
「お前の役目は打ち消すことだ。矛は別の奴が握る。お前は盾の中の盾になる。それでいい、今は」
リオンは黙って焚き火を見ていた。
風が吹いて、遠くから何かが聞こえた。最初、それが何か分からなかった。聞いたことのない響き。やがて気づいた。
歌だ。
帝国軍の陣地から、歌声が流れていた。複数の兵が声を合わせている。リオンには歌詞が分からない。ガレスティアの言葉だ。でも旋律は聞き取れた。夜の平原を渡って、淡々と、しかし重く、こちらの野営地まで届いていた。
ガルドが耳を澄ませていた。
「あれは、帝国の古い歌だ。戦場で死んだ仲間を送る歌」
「今日、死んだ兵を……?」
「そうだろう」
リオンは歌を聞いていた。
帝国兵も、今日、仲間を失った。こちらと同じように。あちらにも家族がいて、名前があって、明日を生きたかった者がいた。それが今日、死んだ。
リオンは震えた。
怖さとは違う、もっと深いところで、何かが震えた。
フィルが肩の上で、じっと歌を聞いていた。
「ガルド」
「ん?」
「俺、あいつらと、戦うんだな」
ガルドはしばらく答えなかった。焚き火の木がはぜる音がした。
「ああ。戦うんだ」
それだけだった。
リオンは右手の親指で、左手の甲を何度もこすっていた。




