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第六章 最強の遊軍

教官の葬儀は、簡素なものだった。

 養成学校の中庭で、候補生と教官陣が集まり、黙祷を捧げた。訓練で殉職した教官は過去にもいたが、近年では稀な事例だという。リオンの小隊の六人は、棺の前に並んで立っていた。

 誰も泣き声を上げなかった。声を殺して、肩を震わせて、涙だけを流していた。風の精霊の女――名をミアという――は、両手で顔を覆って声を出さずに泣いていた。自分を庇って死んだ教官の棺の前で。

 リオンはミアの背中を、そっと支えた。他に何もできなかった。

 葬儀の後、校長が短く言った。

「これは、想定された訓練ではなかった。魔獣の動きが、明らかに変わっている。各地で同様の報告が相次いでいる」

 各地で同様の報告。

 リオンたちの小隊だけが特別だったのではない。あの日、あの森で起きたことは、大陸のあちこちで起きていた。本来いるはずのない魔獣が、本来いるはずのない場所に現れる。安全圏が安全でなくなる。前線が少しずつ後退する。

「魔神の復活」。誰も口には出さなかったが、皆が漠然と同じ想像をしていた。


 それからの一月は、妙に静かだった。

 候補生たちは普段通りに座学と実技を続けていた。しかし食堂の空気、廊下の声、夜の寮の気配――すべてが少しずつ張り詰めていった。連日、前線からの報告が届いているらしい。村が襲われた。街道が封鎖された。騎士団の小隊が壊滅した。正規軍が次々と戦線に投入され、それでも足りない。そんな噂だけが、養成学校の中を巡っていた。

 そして、もう一つの報せが届いた。

 ガレスティア帝国が、国境で軍を動かし始めた。

 単なる示威行動ではなかった。大規模な兵力の集結。明らかな戦意。魔獣対応で西部と北部に戦力を割かれているヴェルディアを、東から叩く好機と見ている。

 大規模な二面作戦。

 王国の司令部に、連日緊急会議が持たれていることが候補生にも伝わってきていた。正規軍の兵力では足りない。予備役もとっくに招集した。それでも足りない。

 そしてある朝、養成学校に通達が来た。

 全候補生の戦線投入。

 実地訓練の延長ではない。演習ではない。正式な戦線配属命令。

 候補生たちの食堂が、その朝、静かだった。誰も喋らなかった。誰も食べなかった。パンを口に運びかけて、手が止まる。スプーンを持ったまま、動けない。

 トールが小さく言った。

「……本気か」

 エマは黙って紅茶のカップを両手で握っていた。温度を確かめるように。

 リオンは何も考えられなかった。怖いとも、覚悟とも、何とも言えない空白が頭の中にあった。

 正式な戦線配属。死ぬかもしれない。殺すかもしれない。訓練で一人死んだ。次は、誰が。


 三日後、講堂に全候補生が集められた。

 通達があった。王の来訪。

 候補生たちがざわめいた。国王が養成学校を訪れるのは稀だ。それが、今日。

 前日には、配属の方針も伝えられていた。候補生は正規軍には編入されない。独自の指揮系統のまま、戦況に応じて投入される機動部隊として運用される。若く、一律の陣形戦闘に慣れていない候補生たちを正規軍に組み込めば、かえって足手まといになる――王の判断だ、と教官が簡潔に説明した。

 講堂の空気が張り詰めていた。数百人の候補生が整列し、一人も口を利かない。息を殺している。

 正面の扉が開いた。

 王が、入ってきた。

 国王アルディス。白髪交じりの壮年。中背。歩幅は小さく、足音はほとんどしない。豪奢な装束ではなく、簡素な騎士服を身につけている。装飾と呼べるものは、腰に下げた一振りの剣だけだった。

 しかし――歩くだけで、講堂の空気が変わった。

 リオンは息を呑んだ。何が違うのか、言葉にできない。ただ、その男が歩いてくるだけで、身体が勝手に背筋を伸ばす。視線が勝手に追う。王という立場から来る威ではない。その男自身が持っている、重力のようなもの。

 アルディスが壇上に立った。候補生たちを見渡した。

 何秒か、沈黙があった。

 そして、口を開いた。

「勇者候補生の諸君」

 声には重量があった。一言一言が、講堂の石壁に染み込んでいくようだった。

「突然の通達で驚いていることだろう。おそれ、怒りを覚えているものもいるだろう。――前例のないことだ。無理もない」

「今、我が国は存亡の危機にある」

 アルディスの声が、一段低くなった。

「魔獣との戦線が崩壊し、卑劣にも東の帝国はその隙をつき、我が国を蹂躙せんとしている。正規軍だけで、この二つの勢力を抑えることはできない」

 一拍。

「お前たち候補生は、我が国が誇る戦士だ。強き魔法、強き剣、そして強き意志を持っている、真の戦士だ」

 声に熱が入り始めた。

「お前たちが、この国を守るのだ。獣に蹂躙されんとしている幼子たちを、帝国に凌辱されんとしている女たちを――お前たちが倒れれば、その地獄が現実となる」

 講堂の空気が一変した。恐怖が、怒りに変わっていった。

「かの悪魔たちは、すぐそこまで迫っている」

 アルディスが剣の柄に手をかけた。

「我が国の勇者たちよ。大陸最強の遊軍として、これを叩け! 出撃せよ!!」

 講堂が爆発した。

 歓声。拳が突き上がる。誰かが叫んだ。誰かが吠えた。数百の声が重なって、講堂の石壁を震わせた。

 リオンも拳を握っていた。

 怖かったはずだった。戦場に送られる。死ぬかもしれない。震えていたはずだった。しかし今、この瞬間、リオンの心臓は熱く鳴っていた。

 自分も、行けるのかもしれない。

 そう思わせる声だった。

 アルディスは何も応えなかった。微笑みすらしなかった。ただ静かに壇上を降り、扉から出ていった。候補生たちの歓声が、王の背中を見送った。


 講堂から出たあと、候補生たちは興奮冷めやらぬ様子で寮に戻っていった。「行ってやるぞ」「絶対に勝つ」「俺たちの時代だ」。先ほどまで青ざめていた顔が、紅潮している。

 リオンも寮への道を歩いていた。心臓がまだ鳴っていた。トールとエマが隣にいた。

「……すごかったな」

 トールが呟いた。

「うん」

 リオンも頷いた。頷いてから、胃のあたりに違和感が残った。

 さっき、自分は拳を握っていた。王の声に胸が熱くなった。

 でも、冷静に考えると、王は若い自分たちを死地に送ると言っただけだ。ひどい話だ。拒否権もなく戦場に放り込まれる。死ぬかもしれない。仲間が死ぬかもしれない。それをひどいと怒るべきなのに、さっきの自分は震えるどころか熱狂していた。

 おかしい、とリオンは思う。

 何がおかしいかと言えば、自分がだ。あんな話を聞いて、怒るべきときに熱くなった自分が、おかしい。

 あの王は、何を考えていたのだろう。

 リオンは演説の光景を思い返した。声、言葉、目。候補生たちを熱狂させる技術に、迷いが一切なかった。まるで、こうすれば人間がどう動くかを正確に知っているみたいに。

 若者を死地に送ることに慣れている。

 その考えが浮かんだ瞬間、リオンは息を呑んだ。

 アルディスは演説が終わると、微笑みもせず、歓声にも応えず、ただ静かに壇を降りた。あのとき――ほんの一瞬、王の目がどこか遠くを見たように感じた。気のせいかもしれない。でも、もし気のせいでなかったら。

 あの目は、何を見ていたのか。

 リオンは答えを持たなかった。ただ、さっきまでの熱が、少しずつ冷めていた。

 フィルが襟の中で震えていた。

 リオンは右手の親指で、左手の甲をこすった。


 配属が決まったのは、その二日後だった。

 養成学校の候補生は、大きく二つに分けられた。

 一つは、魔獣前線への投入組。候補生の大半がここに回される。相手は人間ではない。

 もう一つは、対ガレスティア戦線への投入組。少数精鋭。候補生の中でも特に優秀な者たちが選抜される。人間同士の戦争。

 通達を受け取ったとき、リオンは呆然とした。

 リオンの配属は、対ガレスティア戦線だった。

 ありえない。自分は精鋭などではない。剣術は相変わらず最下位だ。模擬戦ではまだ勝てていない。選ばれる理由がない。

 しかし通達の下部に、編成の詳細があった。

 小隊は三人。支援小隊。固定の戦線を持たない。戦場の各所を転戦し、正規軍や精鋭小隊の要請に応じて随時投入される。

 リオンは数度、文面を読み返した。

 三人。少ない。そして固定の戦線を持たず、呼ばれるがままに戦場を飛び回る。ひたすら前線をさまよう運用。

 理由は一つしか考えられなかった。

 フィルの精霊の力を打ち消す力。ガレスティア帝国軍の主力は精霊だ。その精霊攻撃を無効化できる存在は、どこで必要になるか分からない。だから固定しない。呼び出しに即応できるように小さく編成し、あらゆる戦線に投入する。

 自分は駒として使われる。それもかなり危険な使われ方だ。固定の戦線がないということは、常に激戦の最前線に呼ばれるということ。

 胃がひっくり返りそうだった。

 魔獣なら、怖くても相手を割り切れる。だけど、人間は。

 剣を向けられるのは、剣を向けるのは、人間だ。家族がいて、名前があって、昨日まで普通に生きていた人間だ。その人間を、自分は、殺すのか。

 寮の自室に戻って、寝台に座り込んだ。フィルがリオンの膝の上でぼんやりと震えていた。

「……フィル。俺、人を殺すのかな」

 フィルは答えなかった。答えられるはずがない。リオンも答えを求めていなかった。

 その日、リオンは食堂に行かなかった。授業にも出なかった。寝台に座って、ずっと天井を見ていた。時間の感覚が曖昧になった。


 それから三日が過ぎた。

 食堂でトールとエマと会った。リオンの配属のことは、もう知れ渡っていた。トールもエマも、それについては何も言わなかった。ただ、いつも通り一緒に食事をした。

 その日の夜、リオンの部屋がノックされた。

 トールとエマが、並んで立っていた。二人とも、手に通達の紙を持っていた。

「リオ。通った」

 リオンは通達を見た。配属変更通達。二人分。

「……え?」

「俺とエマ、お前と同じ戦線だ」

 トールはあっさり言った。

「トール、お前――」

「迷ったけどな。三日考えた。で、決めた」

「志願した。人手不足みたいで、あっさり通ったよ。まあ、当然か」

 エマが隣で頷いた。

「私も、志願しました」

「エマ、駄目だ。お前は回復型で、戦闘は――」

「だから必要なんです。精鋭部隊には上級の回復型がつくでしょうけど、特例で急遽編成されたリオンさんの小隊に、十分な支援が回るとは思えません。リオンさんの小隊に、私がいないと、誰も治せません」

 エマの声は静かだったが、揺るがなかった。普段のおっとりした空気が、今はどこかに消えていた。

「それに」

 エマが続けた。

「同じ小隊なんですから」

 それだけだった。それ以上の理由は語らなかった。

 リオンは何も言えなかった。言葉が出なかった。涙が出そうだった。

 トールが肩を叩いた。

「臆病者の勇者様を、一人で行かせるわけにはいかねえだろ。俺たちの勇者様をよ」

 リオンは泣いた。嗚咽をこらえようとしたが、こらえきれなかった。フィルが膝の上でリオンと一緒に震えていた。

 トールは何も言わずに、エマと並んでリオンの前に座っていた。リオンの嗚咽が落ち着くまで。


 出発の前日。

 リオンは一人で訓練場に来ていた。夜遅く、他には誰もいない。月明かりだけがある。

 いつもの素振り。

 振る。振る。振る。

 頭の中には、いつもの理想の軌道。あの夜の母の剣。先日の魔獣戦で、ほんの一瞬だけ触れた、理想の残像。

 振っても届かない。また振る。届かない。振る。届かない。

 後ろで声がした。

「ここにいたか」

 ガルドだった。酒瓶は持っていなかった。珍しく素面だった。

「明日、出発だってな」

「……うん」

 リオンは素振りを続けた。振る。振る。届かない。

 ガルドがしばらく黙って見ていた。それから言った。

「対ガレスティア戦線か」

「うん」

「人を斬る覚悟はあるのか」

 リオンは手を止めた。

 答えられなかった。ない。覚悟はない。斬りたくない。斬りたくないのに、斬らなければ仲間が死ぬ。そのジレンマの中にいる。

「……わからない」

 正直に答えた。嘘をつけないから。

 ガルドが鼻を鳴らした。

「覚悟なんて、できるもんじゃねえよ」

 リオンは顔を上げた。ガルドがリオンのすぐ横に立った。

「戦場じゃ、覚悟してから斬るんじゃねえ。斬ってから、背負うんだ。……毎回な。死ぬまで、それを繰り返す」

 ガルドの目が、どこか遠かった。過去の戦場を見ているようだった。

 リオンは黙っていた。

「ただな」

 ガルドがリオンの肩に手を置いた。重く、大きく、温かい手。ベルクの手とは違う重さ。でも、似た温度。

「お前が斬るとき、後ろに誰かがいる。そいつを守るために斬る。それだけ、覚えとけ。それだけが、救いだ」

 ガルドは肩から手を離して、背を向けた。訓練場から出ていこうとして、足を止めた。振り返らずに言った。

「俺も、そっちの戦線に行く」

 リオンが目を見開いた。

「ガルド……?」

「傭兵として雇われた。給料がいいんでな」

 嘘だ、と分かった。ガルドが金で動くなら、もっと稼げる仕事がある。

 でもガルドは振り返らなかった。

「一人で死ぬなよ。……俺が行くまで、生きてろ」

 それだけ言って、ガルドは去っていった。

 月明かりの下、リオンは一人残った。

 素振りを再開した。

 振る。振る。振る。

 届かない。でも、振り続けた。明日からは、戦場だ。届かないなりに、振り続けるしかなかった。

 フィルが肩の上で、小さく光っていた。

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