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第五章 実地訓練

入学から三月。最初の実地訓練が告げられた。

 養成学校の伝統行事だという。候補生を五、六人の小隊に分け、魔獣支配域付近の比較的安全な圏域を三日間行軍する。野営。帰還。精霊契約者としての基礎を実地で叩き込む訓練。

 極めて弱い魔獣との遭遇くらいは想定されているが、教官が各小隊に一人ついて監督するし、危険な場合は即座に撤退する手筈になっている。毎年行われていて、これまで死亡事故は一度もない。

 はずだった。


 リオンの小隊は六人編成だった。

 トール。エマ。それから三人の候補生。一人は炎の精霊を持つ男、一人は風の精霊を持つ女、もう一人は大地の精霊を持つ男。いずれも中位の実力で、特別優秀でも劣等でもない。

 教官はベテランの剣術教官で、候補生たちには「先生」と呼ばれている男だった。実地訓練の引率は十回以上。穏やかだが頼りになる壮年の騎士で、炎の精霊を連れている。

「この圏域で危険な魔獣は出ない。だが油断はするな。基本に忠実に行動しろ」

 出発前のブリーフィングで、教官はそう言った。

 リオンの胃が縮み上がった。大丈夫じゃない。森が怖い。獣が怖い。夜の野営が怖い。何もかも怖い。

「リオ、顔色悪いぞ」

 トールが背中を叩く。重い手だ。

「……いつもこうだよ」

「知ってる」

 トールが笑った。リオンは笑えなかった。


 初日は順調だった。

 森の中を行軍する。整備された獣道がある。夏の森は蒸し暑く、虫が多い。リオンは虫が苦手だ。腕に虫が止まるたびに小さく悲鳴を上げ、そのたびにトールが笑い、エマが「大丈夫ですよ」と言った。

 重い装備を背負っての長距離移動。候補生たちが次第に口数を減らしていく。汗が滲み、肩に食い込む荷紐が痛い。足が重くなる。

 しかしリオンだけは平然と歩いていた。

 九年間、毎日の鍛錬で培った体力。走り込み。素振り。養成学校に入ってからはさらに追い込んでいる。この程度の行軍は、朝の鍛錬より楽だった。

「お前、なんでそんなに平気なの」

 炎の精霊の男が、息を切らしながら聞いた。

「……毎日、走ってるから」

「走ってるだけでそうなるのか」

「走って、振って、また走って……それを九年」

 男が黙った。

 夕方、指定された地点で野営の準備。テントを張り、火を起こし、携帯食を温める。リオンが火の番を申し出た。

「お前、いつも火の番だな」トールが言う。

「夜が怖くて眠れないだけだよ」

「知ってる」

 トールは何も聞かずに先に寝た。エマが毛布を一枚多く出して、焚き火の前に置いた。「冷えますから」。リオンはそれを受け取り、そっとエマの肩にかけた。「先に寝てて。俺は起きてるから」。エマは少し驚いた顔をして、「……ありがとうございます」と小さく言った。

 フィルが焚き火の光を受けてぼんやり光っている。二人で火を見つめる夜。旅の途中の野宿と同じだ。

「フィル。怖い?」

「……こわい」

「だよな」

 小さな光が揺れた。リオンは右手の親指で左手の甲をこすった。


 二日目の午後。

 帰路に入っていた。あと半日歩けば学校に戻れる。小隊の空気は緩んでいた。初日は緊張していた候補生たちも、何事もなかったことで油断している。弱い魔獣すら見かけなかった。「なんだ、拍子抜けだな」と誰かが言った。

 リオンだけが落ち着かなかった。

 森の匂いが変わっている気がした。朝から薄い獣の臭いがある。風向きのせいかもしれない。気のせいかもしれない。ただ、リオンの臆病さが「何かがおかしい」と囁いている。

 臆病は、ときに最良のセンサーになる。

「トール」

「ん?」

「……なんか、変じゃないか。静かすぎる」

 トールが耳を澄ませた。確かに、鳥の声がしない。朝からずっと聞こえていた小鳥のさえずりが、いつの間にか途絶えている。

「言われてみれば――」

 地面が、揺れた。

 木々の間から、それが現れた。

 大きい。牛よりも大きい。四つ脚の獣。黒い毛皮。筋肉の束が皮膚の下でうねっている。牙が長く、目が赤い。通常の魔獣とは明らかに異なる。この圏域に、こんなものがいるはずがなかった。

 ――誰にも分からない。ただ目の前に、殺される大きさの獣がいる。

 小隊が凍りついた。

 教官が動いた。

 候補生たちの前に、一歩で出た。剣を抜き、炎の精霊を全開にした。振り返らなかった。

「全員、後退しろ。走れ」

 低い、落ち着いた声だった。十年以上この訓練を率いてきた男の声。こういう事態は想定していなかったはずだが、声は揺れなかった。

 魔獣が突進した。教官が迎え撃った。炎の壁が正面を焼き、獣が一瞬たじろぐ隙に、剣が首筋を斬り裂く。浅い。すかさず炎で追撃する。

 教官が背中越しに叫んだ。

「下がれ! 走れ!」

 そのとき、風の精霊の女が凍りついて動けずにいるのが、リオンの目に入った。魔獣の向きが変わり、女の方に注意が向いた。教官も気づいた。

 魔獣が女に跳びかかる。教官が跳んだ。

 爪が、教官の胴を深く裂いた。

 血が飛んだ。候補生たちの悲鳴が上がった。教官は膝をつかなかった。腹を押さえながら、もう一度炎を放った。魔獣が仰け反る。一瞬の隙。

「走れと言っている!」

 教官が叫んだ。初めて声を荒げた。振り返った顔は蒼白だった。腹からの出血が止まっていない。致命傷だと、リオンにも分かった。

 それでも教官は魔獣に向き直った。剣を構え直した。震える腕で。候補生たちが逃げる時間を、一秒でも長く稼ぐために。

 候補生たちが走り始めた。リオンも走った。走りながら振り返った。教官が魔獣の牙を剣で受け止めていた。もう立っているのが不思議なほどの傷を負っているのに。

 獣の咆哮。鈍い音。教官の身体が吹き飛ばされた。地面に転がり、動かなくなった。

 魔獣が、候補生たちのほうに向き直った。

 教官がいない。もう、誰も守ってくれない。

 パニックが走った。

「逃げろ!」風の精霊の女が叫んだ。大地の精霊の男がすでに背を向けて走っている。炎の男も散りかけている。

 散る。散ったら終わりだ。六人がバラバラに逃げれば、一人ずつ追い詰められる。この獣は速い。走って逃げ切れる相手じゃない。教官がそうだった。一人で戦って、死んだ。

 リオンの膝が笑っている。歯がカチカチ鳴っている。視界の端が暗くなる。恐怖。逃げたい。逃げたい。走りたい。ここから消えたい。

 ――トールが隣にいる。エマが後ろにいる。

 教官が命を懸けて稼いでくれた時間を、無駄にするのか。

「逃げるな」

 声が出た。

 自分の声だと思えなかった。低く、硬く、震えているのに、よく通る声。

「ここで散ったら、一人ずつ狩られる」

 走り出しかけた候補生たちが、足を止めた。振り返った。リオンを見た。震えている。泣きそうな顔をしている。膝が笑っている。それなのに、声だけが揺るがなかった。

「固まれ。散るな。先生が稼いでくれた時間を使え」

 トールが最初に動いた。リオンの前に立った。「前は俺が抑える。みんなを頼むぞ、リオ」

 エマがリオンの後ろについた。「回復は任せて」

 残りの三人が、戸惑いながらもリオンの左右に並んだ。散るよりはましだ。少なくともこいつは、何か考えがあるように見える。

 リオンの頭は恐怖で煮えたぎっていた。しかし恐怖の中で、不思議と考えることはできた。臆病だからだ。怖いから、あらゆる最悪を想定する。あらゆる最悪を想定するから、どう動けばいいかが分かる。

「正面から受けるしかない。けど一人じゃ無茶だ、トール。俺も行く。二人で抑えるぞ」

「リオ、お前――」

「炎、風、大地。あいつが突っ込んでくる直前に、俺の合図で同時に撃って牽制しろ。少しでいい、速度を落とせれば、なんとかする。撃ったらすぐ下がれ。絶対に前に出るな」

 指示が出た。明確で、無駄がない。

 怖くて怖くて仕方がないから、全部の可能性を考え尽くした結果の指示だった。

 魔獣が突進してきた。

「今だ!」

 三つの精霊の力が同時に放たれる。炎が目を焼き、風が土埃を巻き上げ、大地が前脚の下を揺らす。魔獣が頭を振り、足をもつれさせる。速度が落ちた。完全には止まらない。それでも、落ちた。

 リオンとトールが正面から受けた。

 一人なら確実に吹き飛ばされていた質量が、二人でようやく止まる。それでも押されている。靴裏が土を削って後退している。魔獣の頭が目の前にある。熱い息。血の匂い。牙が見える。

 リオンの腕が限界を超える。

 ――と、トールが呻いた。「うおおお――」。渾身の力で押し返す。大地の精霊の力を総動員して、足場を固め、全体重で。ほんの一瞬、魔獣がわずかに仰け反る。リオンにかかる圧が、わずかに抜けた。

 剣の自由が、生まれた。

 脳が真っ白になる。頭の中にあの夜の母の剣が浮かぶ。怖いときこそ――

 踏み込んだ。理想の軌道。何千回描いて、届かなかった軌道。

 今。

 剣が魔獣の眼を下から突き上げた。

 自分でも信じられない一閃だった。正確で、速く、無駄がない。毎朝振ってきた理想が、ほんの一瞬だけ現実に触れた。フィルの光がリオンの肩で弾ける。

 魔獣が咆哮した。眼球を貫かれた痛みで、頭を振って後退する。大きくのけぞる。

 隙ができた。ほんの数秒。それで十分だった。

「走れ! 今だ!」

 六人が走った。リオンは最後尾だった。全員が前にいることを確認してから走り出した。

 怖い。怖い。怖い。後ろから地響きが聞こえる。魔獣が体勢を立て直している。追ってくる。

 風の精霊の女がつまずいた。木の根に足を取られて転ぶ。リオンが駆け寄り、腕を掴んで引き起こした。「走れ!」。女が走り出す。

 地響きが近い。振り返る。魔獣が迫っている。あと十数歩。

 リオンは足を止めて、剣を構えた。手が震えている。実地訓練用の支給品の剣。重い。こんな腕で何ができるわけでもない。でも追いつかれたら仲間が死ぬ。

 魔獣が跳びかかる。リオンが横に転がって躱し、起き上がりざまに鼻面を剣の腹で打った。一瞬、ほんの一瞬だけ動きが止まる。振り返って走る。

 大地の精霊の男が足をもつれさせている。疲労で限界だ。リオンが追いつき、肩を貸した。「走れ、もう少しだ」。二人分の重さ。鍛錬馬鹿の脚が踏ん張る。

 また地響き。また振り返る。また剣を構える。牙が風を裂く。紙一重で躱す。打つ。走る。

 魔獣の動きが、わずかに鈍い。リオンの姿を目にするたび、一瞬だけ躊躇するような間がある。気のせいかもしれなかった。恐怖で感覚が鈍っているだけかもしれなかった。だがその一瞬の積み重ねが、命を繋いだ。

 六人が圏域の境界を越えた。境界の向こうで、隣の小隊の教官が異変に気づき、精鋭の騎士が迎撃に入った。

 魔獣が退いた。


 安全圏に入った瞬間、リオンの身体から力が抜けた。

 膝から崩れ落ちた。地面に手をついて、胃の中のものを全部吐いた。嗚咽が漏れる。身体が震える。止まらない。恐怖の揺り戻し。戦闘中は無我夢中だったものが、全部いっぺんに押し寄せてくる。

「怖かった……」

 涙が地面に落ちた。

 フィルが肩で震えている。リオンと一緒に。

 トールがリオンの隣で大の字に倒れていた。「死ぬかと思った」と天を仰いで言っている。エマが座り込んで、小さく祈るように手を組んでいる。

 残りの三人は、それぞれの場所で呆然としていた。

 しばらくして、炎の精霊の男がリオンのほうを見た。

「お前さ」

 リオンは顔を上げられなかった。まだ涙が止まっていない。

「ただの臆病者じゃなかったな。……すまなかった」

 リオンは何も答えなかった。首を横に振ることすらできなかった。

「……あいつがいなかったら、俺たち死んでたぞ」

 大地の精霊の男が言った。小さな声だった。リオンに肩を貸されて走った男だ。

 風の精霊の女が黙って頷いた。

 誰かが言った。「先生は」。

 沈黙が落ちた。全員が、同じことを考えていた。教官が最初に飛び出して、自分たちを逃がして、そして――。

 エマが立ち上がった。「救護を呼びます」。走っていった。だが全員が分かっていた。あの傷では。

 リオンは泣いていた。声を殺して、地面にうずくまって泣いていた。怖かったから泣いているのか、教官のことで泣いているのか、自分でも分からなかった。全部だった。

 情けない姿だった。誰がどう見ても、英雄の姿ではなかった。

 でも六人とも、生きていた。六人が、全員。

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