第四章 臆病者の仲間たち
入学から一月が過ぎた。
リオンの生活は単調だった。日の出前に起きて素振り。朝食。座学。昼食。実技。夕食。自主鍛錬。就寝。繰り返し。繰り返し。繰り返し。
変わったのは、鍛錬の質だった。
ガルドが来る日は稽古がつく。来ない日のほうが多いが、ガルドに指摘されたことを一人で反復する。「足が流れてる」と言われれば、百回足運びだけを繰り返す。「振りが遠回りだ」と言われれば、最短の軌道を百回描く。
木人形相手の素振りは、確実に良くなっていた。
しかし模擬戦の成績は変わらない。
人間が相手になると、身体が止まる。頭では分かっている。振ればいい。踏み込めばいい。でも相手の目を見た瞬間、手首が緩む。殺さないと分かっていても、木剣が人に当たることが怖い。当たったら痛い。相手が顔を歪めるかもしれない。そう思った瞬間、腕が止まる。
結果、毎回倒される。毎回立ち上がる。毎回また倒される。
「臆病者の勇者様」
このあだ名は、もう定着していた。
その日の模擬戦も、いつも通りだった。
リオンは四度目の尻餅をついた。口の中を切ったらしく、唾に血が混じっている。対戦相手は剣を収め、つまらなそうに去っていった。
立ち上がろうとして、膝が笑った。疲労ではない。恐怖の蓄積だ。何度倒されても恐怖は薄れない。むしろ回を重ねるごとに、倒される瞬間の記憶が積み上がって、次の模擬戦がさらに怖くなる。
「おい、まだやんのかよ」
観戦していた候補生の一人が声を上げた。
「見てるこっちが辛いんだけど。いつまで立ってんだ、お前」
「勇者様は諦めが悪いからなあ」
笑い声。数人が囃し立てている。リオンは黙って立ち上がった。いつものことだ。言い返す言葉はない。弱いのは事実だから。
「なあ、お前さあ。なんでここにいんの? マジで。精霊は光るだけ、剣は振れない、模擬戦は全敗。迷惑なんだよ、連携訓練のとき足引っ張られるのがさ」
リオンは目を伏せた。反論できない。連携訓練で足を引っ張っているのは事実だ。自分がいる小隊は、自分のせいで判定負けが増える。
「聞いてんのか、おい――」
「弱い奴を笑うのは、もっと弱い奴のやることだろ」
声が割って入った。
大きな影がリオンの横に立った。同期の候補生だった。大柄。リオンより頭一つ半は高い。日に焼けた肌。短く刈った茶色い髪。体格は候補生の中でも最大級だが、表情はどこか鷹揚で、怒りというよりも面倒くさそうな顔をしている。
大地の精霊を持つ候補生。名前はトール。
囃し立てていた候補生たちが口を噤んだ。トールの体格は純粋に威圧感がある。
「……なんだよ。お前には関係ないだろ」
「関係ないな。ただ見てて気分が悪い」
トールはリオンをちらりと見た。それからまた囃し立てていた候補生たちに視線を戻した。
「こいつは毎日、お前らの三倍は訓練場にいる。お前らが寝てる間に振って、お前らが飯食ってる間に走ってる。それで勝てないのは、まあ、才能がねえんだろうな。でもな」
トールが一歩前に出た。
「才能がなくてもやめないやつを笑う資格は、才能があるだけで何もやってない奴にはないぞ」
囃していた候補生が顔を赤くした。何か言い返そうとして、トールの体格を見上げ、黙って去っていった。
トールがリオンを見下ろした。リオンは見上げた。体格差がひどい。
「……ありがとう」
「別に。気分が悪かっただけだ」
トールは頭を掻いた。そしてふと、思い出したように言った。
「お前、リオンだっけ。臆病者の勇者様」
「……うん」
「俺はトール。よろしくな、リオ」
「リオ?」
「長いだろ、リオンって。リオでいい」
勝手に呼び方を決められた。リオンは少し面食らった。でも、嫌ではなかった。
トールの精霊は大地の精霊だが、出力は低い。体格は大きいのに精霊の力は弱く、「でかいのに弱い」と馬鹿にされることもあるらしい。しかしトール自身はまったく気にしていない。
「精霊の強さで人の価値が決まるなんて、つまんない話だろ」
からからと笑う。この男には、悩みというものがないのだろうか。リオンには信じられなかった。
トールとの縁ができてから、少しだけ日常が変わった。
食堂で一人だったリオンの向かいに、トールが当然のように座るようになった。大食いで、リオンの三倍は食べる。食べながら喋る。口の中に食べ物が入っているのに喋る。マナーは最悪だが、不思議と不快ではなかった。
「リオ、今日の模擬戦も負けたんだってな」
「……うん」
「何敗目?」
「数えてない」
「数えろよ。記録は大事だぞ」
「数えたくない」
「そうか。まあ、俺も今日三敗だけどな」
トールは全敗はしない。身体の大きさで押し勝つことがある。しかし精霊の出力が低いため、精霊を使った戦闘では不利になる。トールはそれを「まあしゃあない」で済ませている。
リオンには、トールのその楽観がときどき眩しかった。
ある日の夕食時、もう一人が加わった。
「あの、ここ、いいですか」
おっとりした声。リオンとトールが顔を上げると、亜麻色の髪の少女がお盆を持って立っていた。小柄。穏やかな目。水の精霊が肩の上で静かに光っている。
エマ。回復・支援型の精霊契約者。座学では上位だが、戦闘訓練は得意ではないらしく、連携訓練ではいつも後方に回されている。リオンとは何度か同じ小隊になったことがある。
「いいけど、なんで?」トールが口いっぱいに飯を入れたまま言う。
「この席、いつも空いてるので」
それは事実だった。リオンの向かいはトールが来るまで常に空席で、トールが来てからも横は空いていた。「臆病者の勇者様」の食卓に、好んで座る者はいない。
エマが座った。静かに食べ始める。裏表のない、穏やかな空気。
しばらくして、エマがリオンに言った。
「リオンさんって、毎朝すごく早いですよね」
「……え?」
「私、朝が弱くて、でもたまに早く起きるんです。そうすると訓練場から木剣の音が聞こえてて。毎朝。雨の日も」
「……うん」
「すごく、真面目なんですね」
リオンは返事に困った。真面目だから振っているわけではない。ただ母との約束があって、それしかできることがないから振っている。でもそれをうまく説明する言葉が見つからなかった。
「……ありがとう」
とだけ答えた。エマは微笑んだ。それだけだった。
しかしその「それだけ」が、リオンにとっては大きかった。養成学校に来て一月以上、鍛錬を「すごい」とも「真面目」とも言ってくれた人間は、ガルドを除けばエマが初めてだった。
三人は自然と行動をともにするようになった。
食堂で一緒に食べる。座学で隣に座る。連携訓練で同じ小隊を希望する。誰かが決めたわけではない。なんとなく、そうなった。
トールは大柄な体格を活かして、模擬戦でリオンの前に立つことが多くなった。「お前は後ろで打ち消してろ。前は俺がやる」。リオンの打ち消しとトールの壁役は、連携としてそれなりに機能した。
エマは後方から回復に徹した。連携訓練で負傷した者の手当てを素早く行い、小隊の継戦能力を保つ。地味だが確実な仕事だった。
三人の小隊は強くはなかった。むしろ弱い部類だ。しかし「負けにくい」小隊ではあった。リオンの打ち消しで相手の精霊攻撃を封じ、トールが物理的に耐え、エマが回復する。泥臭い。格好悪い。でもなかなか崩れない。
「俺たち、勝ちはしないけど負けもしないな」
トールが笑う。リオンも少しだけ笑った。
ある夜、鍛錬を終えたリオンが寮に戻ると、廊下でエマと鉢合わせた。エマの手には救急箱があった。
「リオンさん」
「……なに?」
「手、見せてください」
言われるまま右手を差し出した。掌のタコが割れて血が滲んでいた。いつものことだ。鍛錬をやりすぎると皮が剥ける。
エマが消毒をして、薬を塗り、包帯を巻いてくれた。手つきは慣れていた。
「毎回こうなるまでやるんですか」
「……気がつくと」
「気がつくと、じゃなくて、気がつく前にやめてください。身体壊したら鍛錬もできなくなりますよ」
言葉は厳しいが、声は穏やかだった。
「ありがとう、エマ」
「当然のことです。同じ小隊なんですから」
エマは救急箱を閉じて、「おやすみなさい」と去っていった。
リオンは包帯を巻かれた手を見た。温かかった。誰かに手当てをしてもらうのは久しぶりだった。父が死んでから、怪我をしても自分で処置していた。
フィルが肩の上で、エマが去った方向を見ていた。小さな光がぼんやりと揺れている。
「……いい人たちだな、フィル」
フィルが小さく頷くように光った。
ガルドの指導は続いていた。
不定期に現れ、リオンの鍛錬に付き合い、容赦なくダメ出しをし、ごく稀に「今のは悪くなかった」と言って去る。
ある日、ガルドがいつもと違う稽古をつけた。
「模擬戦で勝てない理由は分かってる」
リオンは黙った。分かっている。臆病だからだ。
「人間が怖い。当たるのが怖い。当てるのが怖い。だから振れない。違うか」
「……違わない」
「じゃあ聞くが、木人形は怖いか」
「怖くない」
「あの夜、魔獣の前に立ったときはどうだった」
リオンは黙った。あの夜。子供たちの前に立った夜。怖かった。死ぬほど怖かった。でも立った。
「怖かった。……でも、立てた」
「なぜだ」
「子供たちが、後ろにいたから」
ガルドが鼻を鳴らした。
「つまりお前は、自分のためには振れねえ。でも誰かのためなら立てるんだ。……厄介な性格だな」
リオンは何も言えなかった。ガルドが続けた。
「覚えとけ。戦場じゃ常に、お前の後ろに誰かがいる。仲間がいる。守るべき奴がいる。お前が振らなきゃ、そいつらが死ぬ。……模擬戦で人を打てない奴が、本番で仲間を守れると思うなよ」
ガルドの目は厳しかったが、そこに侮蔑はなかった。ただ事実を突きつけている。
「お前の課題は腕じゃねえ。腕は俺が叩き直す。問題は心だ。それだけは自分でどうにかしろ」
ガルドは酒瓶を手に取り、訓練場から出ていった。途中で足を止め、振り返らずに言った。
「まあ、心をどうにかするのが一番難しいんだがな。……焦るな。やめなきゃいい」
リオンは一人で木人形に向かった。振った。理想を描いて、振った。
この木人形が、明日の模擬戦で相手になるあいつだったら。その向こうに仲間がいたら。振れるのか。振れるようになるのか。
分からない。
ただ、やめないことだけは決めていた。




