第九章 残火
三日が過ぎた。
あれから、帝国軍に大きな動きはなかった。小さな小競り合いはあるものの、カイルの姿は戦場に現れなかった。ガルドは「遊び疲れて休んでんだろう」と舌打ちしたが、その声には安堵の色があった。
リオンも少しだけ息がついていた。吐く回数が一日一度に減った。眠れる夜もあった。トールが軽口を叩き、エマが紅茶を淹れ、三人で食事を取る時間が、戦場でも少しずつ日常に似てきた。
四日目の朝、その日常が終わった。
戦闘が始まったのは、夜明けの直後だった。
帝国軍が、これまでにない規模の攻勢をかけてきた。中央の正面突破。大規模な歩兵と、後方からの炎の飽和攻撃。ヴェルディア軍は即応したが、被害が大きかった。
リオンの小隊には、左翼への展開命令が下った。左翼が突破されかけている。打ち消しで押し返せ。
走った。
左翼の前線に着いたとき、リオンは違和感を覚えた。
戦場の空気が、違う。
三日前までの戦闘とは何かが違っていた。うまく言葉にできない。ただ、兵たちの死に方が違う。ヴェルディア兵が倒れる速度が、異様に速い。一人、二人、三人と連続で、立っていた場所から消えるように倒れていく。
炎が駆け抜けた。大きい。一塊の、見覚えのある炎。
地面を嘗めるように、前線を走った。火線に入ったヴェルディア兵が、悲鳴を上げる間もなく倒れていく。
リオンは足を止めた。
炎の奥から、金髪の男が歩いてきた。
カイルだった。
しかし、三日前の彼とは別人に見えた。
足取りは変わらない。悠然としている。髪のかき上げ方も同じ。装束も同じ。しかし――目が違った。
三日前は、退屈そうな子供の目だった。今のカイルの目には、その気紛れな軽さが消えていた。代わりに、仕事をする大人の目があった。淡々と、効率的に、斬るべきものを斬っていく目。
カイルの剣が、次のヴェルディア兵を斬った。兵は老兵だった。精霊の力も大してない。三日前なら、見逃したかもしれない相手だ。しかし今日のカイルは、何の躊躇もなく斬った。斬りながら、前に歩いていく。
次の兵。若い。怯えている。三日前のリオンと同じくらい、震えている。
カイルは斬った。手首の返しで、首を切り裂いた。兵が倒れた。
リオンは息ができなくなった。
あれは、前に見逃されたリオンと同じタイプの兵だ。戦意もない。技量もない。怯えているだけ。三日前のカイルなら「興ざめだ」と言って見逃したはずの相手を、今日のカイルは躊躇なく斬る。
違う。全然違う。
「まずい」
ガルドの声がした。どこから現れたのか、気づかなかった。リオンの横に立っていた。
「あの男、今日は遊びじゃねえな」
「……え」
「目が違う。――着任したんだろ。正式に」
ガルドは剣を抜いた。古い傭兵の剣。傷だらけの刀身。
「リオ。お前ら、下がれ」
「ガルド」
「いいから下がれ。あの男は、今度こそ本気だ。お前らじゃ相手にならねえ」
ガルドが前に出た。
カイルが顔を上げた。
リオンたちに気づいた。目が細められた。しかし三日前のような好奇心の光はなかった。
「リオン、か」
低く呟いた。
「約束通り、来てやった」
炎が、カイルの手のひらで膨らんだ。三日前の火球とは比較にならない大きさだった。将軍として本気で放つ、ヴェルディアの陣形を焼き尽くすための炎。
「走れ!」
トールが叫んだ。リオンの腕を掴んで引いた。エマも走り始めている。
リオンも走った。しかし目の端で、ガルドがカイルと対峙するのが見えた。
ガルドの剣に、炎が灯った。
刀身を包む、深い赤の炎。ガルドの傍らに、小さな炎の精霊が寄り添っていた。いつもリオンの鍛錬を見ていたあの酒瓶の影に、静かに控えていた存在。リオンは初めて見た。養成学校でも、戦場でも、ガルドが精霊を顕現させたことは一度もなかった。
カイルが、剣を構え直した。
その刀身にも、炎が灯った。
リオンは息を呑んだ。――そうだった。三日前の戦場で、正規軍の剣士たちがカイルに斬られていく光景を思い出す。あのとき兵たちは、剣で受けることができていなかった。受けようとした剣がそのまま両断されていた。
刀身に炎を宿した剣。その炎ごと斬るカイルの剣筋。鉄だけの刃では、打ち合った瞬間に溶けて切り落とされる。だから兵たちは、剣を構える間もなく斬られていた。
その剣と、打ち合える者がいる。
カイルの炎と、ガルドの炎が、鋭く尖った刃の延長として、それぞれの剣先に宿っていた。
「ほう」
カイルが呟いた。
「珍しい使い手だな。――まさか、俺一人を、相手してくれるのか?」
面白がるような、どこか嬉しそうな声だった。
「ガキどもを逃がせりゃ、なんでもいい」
ガルドは低く答えた。剣を前に構えた。歴戦の構え。無駄のない姿勢。刀身の炎がゆらりと揺れる。
「傭兵か。名のある者か」
「名なんざ、とっくに捨てた」
ガルドは踏み込んだ。
二人の剣が交差した。金属と金属がぶつかり、同時に炎と炎がぶつかった。火花と熱風が戦場に撒き散らされた。
ガルドが先に攻めた。
踏み込みが鋭かった。鋭さが違う。足の運び、剣の軌道、体重の乗せ方――すべてが磨き抜かれていた。
カイルが初撃を受けた。受けて、押し返した。ガルドが半歩下がる。二撃目。三撃目。四撃目。
リオンは走るのを止めていた。戦闘から目を離せなかった。トールがリオンの腕を引いているが、リオンの足は動かなかった。
ガルドが押している。
カイルの剣筋がガルドに読まれている。先読みされて受けられる。フェイントに乗せた振りが返される。カイルは押されて、半歩、また半歩と下がっていた。ガルドの間合いに押し込まれるたびに、カイルの表情が硬くなる。
そしてカイルが、跳んだ。
後ろに、大きく。ガルドの剣が届かない距離まで、一気に離れた。
その手の先から、炎が膨らんでいた。剣の刀身を離れた炎が、空中で塊を作り、飛礫となって飛んでいく。
剣を合わせれば押し負ける。カイルはそれを認めた。そして、自分の得意な距離まで戦場を引き直した。
炎が飛ぶ。ガルドは刀身の炎で薙ぎ払う。カイルの炎と、ガルドの炎が、空中で相殺する。しかし一つ捌けば次が来る。二つ、三つと連続で、違う角度から。刀身の炎で受けきれないものは、避ける。避けきれない小さな炎が、肩を、脇腹を、腕を焼く。呻き。血。ガルドは血を垂らしながら前に出続けた。
近づく。もう一歩、もう一歩。近づけば、また剣の間合いに戻る。その一歩が届く前に、炎が増えていく。
距離を詰めるまでの数歩が、ガルドを削っていった。
それでも、ガルドは間合いに入った。
血を垂らしたまま、焼かれた肩を引きずりながら、剣を振り上げた。カイルがそれを迎え撃った。近接の剣戟。しかし、もう先ほどのガルドではなかった。動きの鋭さが鈍り、先読みの精度が落ちている。
数合、打ち合った末に――カイルの剣が、ガルドの胴に深く入った。
ガルドの身体が傾いだ。刀身の炎が大きく揺らいだ。血が吐き出された。口からも、胸の傷からも。
「ここまでか」
カイルが剣を引き上げた。最後の一撃を振り下ろそうとする。
「――ガルド!」
リオンの叫びだった。気づいたら走っていた。トールが止めようとしたが、振り切った。ガルドの前に立とうとしていた。
ガルドがリオンを見た。一瞬だけ。そして――笑った。血の混じった、歪んだ笑い。
その目を、リオンは知っている気がした。
遠い昔の夜、何かの前に立って、届かなかった男の目。それを十数年引きずって、酒瓶の底で問い続けてきた男の目。
その目が今、答えを見つけた者の目になっていた。
「バカ野郎」
ガルドが、立ち上がった。
胴の傷から流れていた血が、止まっていた。傷口が、刀身から溢れた炎に舐められて、焼き閉じていた。肩の火傷も、脇腹の火傷も、同じように炎に覆われていた。
一度は消えかけていた刀身の炎が、今はむしろ激しく燃え上がっていた。揺らがず、細らず、ガルドの剣を、身体を、立たせ続けていた。
カイルの振り下ろされる剣を、ガルドが下から受け止めた。
一閃。
鍔迫り合いになった。カイルの剣が、押し戻された。カイル自身も、半歩下がった。
ガルドの目が、変わっていた。
血まみれで、傷だらけで、胴から血を滲ませたまま立っている、満身創痍の男の目ではなかった。不思議と穏やかだった。怯えも、焦りも、すでにどこにもなかった。
その穏やかさの奥で、一つだけ揺るがないものが燃えていた。弟子の元へは、何があっても通さない。それだけだった。
カイルの目が、初めて、別の色を帯びた。驚愕ではない。もっと深い、軍人としての敬意。
カイルが半歩、退いた。剣は手にしたまま、しかし先ほどまでの余裕はなかった。
二人が睨み合った。
そのとき、遠くで、ヴェルディア軍の退却の角笛が鳴った。全軍後退の合図。左翼が支えきれない。中央も崩れている。総退却。
「退けッ! 総退却だッ!」
指揮官の叫びが戦場を渡った。ヴェルディア兵たちが一斉に後退を始めた。
「リオ」
ガルドが、振り返らずに言った。
「行け」
「ガルド――」
「行けって言ってんだろ」
ガルドは笑っていた。振り返らないまま。
「ガキを守るために命を使う。……本望じゃねえか、ええ?」
「ガルド」
「泣くんじゃねえよ、莫迦弟子」
ガルドはそこで、もう一度笑った。血を吐いた。それでも立っていた。刀身の炎は、揺らがないまま燃え続けていた。
カイルが動いた。ガルドに斬りかかった。ガルドが受けた。剣と剣。炎と炎。
「行けッ!」
ガルドの叫びが、リオンの背中を叩いた。
リオンの足が、動いた。
トールがリオンの腕を掴んで引いた。エマが先に走っている。リオンも走った。振り返りたくて、振り返れなかった。涙で視界が歪んでいた。
後ろから、剣の音、炎の音、ガルドの咆哮が聞こえていた。
退却は続いた。
リオンたちは仲間の小隊と合流し、後退する隊列の中に入った。帝国軍の追撃が始まっている。乱戦の中を、振り返らずに走り続けた。
しばらくして、戦場の音が遠ざかった。
リオンは走りながら、もう一度振り返った。
遠くで、戦場がまだ燃えていた。ヴェルディアの陣地も、帝国の火も、乱戦の土埃も、すべてが朝の光の中で煙っていた。その中のどこに、ガルドがまだ立っているのかは、もう見えなかった。
やがて、戦場は地平の向こうに消えた。
リオンは走り続けた。涙が止まらなかった。フィルが襟の中で震えていた。
「ガルド……」
呟いた。声にならなかった。
誰も応えなかった。




