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準、文学部棟の裏で死にかける

 文学部棟の裏手。


 カビ臭い古書の匂いと、加賀のセリカから漏れ出したハイオクの残り香が混ざり合う、この大学で最も不健康な聖域。

 その木漏れ日の中を、銀色の尻尾がゆらりと揺れていた。


 鈴木準は、人生の重大な岐路に立っていた。


 目の前には、銀髪の狐巫女・狭霧がいた。萌葱色の瞳。凛とした白い和装。感情の起伏に合わせて優雅に揺れる狐耳と、一本の巨大な尾。


 準の脳内では現在、フルブースト状態の煩悩がレッドゾーンを突破していた。


(マジで可愛いなこのモフモフ!! 触りたい、顔を埋めたい、三途の川を逆走したい)


 理性が、13Bのアペックスシールのようにギリギリで摩耗に耐えていた、その時だった。


「居る」


 背後から、一切の感情を剥ぎ取ったような声が響いた。


 振り返ると、白い髪。白い肌。白いコート。すべてが白で構成された、しかし瞳だけがこの世のドロドロとした現実を余すことなく映し出している少女がいた。


 オカルト同好会会長・白鷹菜穂だった。


「A級霊的存在。危険度、特級。排除対象と判定。処理を開始するわ」


 彼女はコートのポケットから、何かの呪印が刻まれた金属製の杭を取り出した。


「は?」


 準の口から素っ頓狂な声が漏れた。


 狭霧は首を傾げた。銀色の耳が不思議そうにピクピクと動く。


「……わらわのことか? お主、なかなか面白い瞳をしておるな。我を『処理』できると本気で思っておるのか」


 準の脳内で、何かが決定的に切れた。


(排除対象? このモフモフを? このモフモフを!?)


「——待て」


 低い声だった。自分でも驚くほど低く、重い声だった。


「彼女に手を出すな。その杭をポケットにしまえ。さもなくば、狭霧様の霊力でお前のルーターを物理的に破壊してもらうことになるぞ」


 白鷹は数秒間、準を無機質な瞳で見つめた。


「どいて。一般人。巻き込まれたくないなら退くべきよ」

「断る。三回言わせるな。俺の辞書に退却という文字は、セリカが事故って廃車になった回以来、存在しないんだ」


 狭霧の長い銀色の尾が、風に流されて準の背中に触れた。

 その瞬間、準の脳内の多幸感物質が爆発し、生存本能を完全に上書きした。


「鈴木準。警告するわ。それは人間ではない。古の執念が形を成した化かしの塊よ。いずれあなたの魂は——」

「知っている。そんなことは最初から分かっているんだ」


「……なぜ、そこまでして守るの」


 準は天を仰いだ。口元に、狂信者特有の不敵な笑みが浮かぶ。


「なぜだと? 決まっているだろ。俺が、守ると決めたからだ」


 沈黙。


 狭霧が準の背後でそっと囁いた。


「準よ」

「大丈夫です、狭霧様。あなたは一歩も動かないでください」

「いや、そうではなく」

「たとえ俺が肉片になっても、あなたのその神聖な毛並みに——」

「話を聞け」

「あなたは、俺が守る! 俺のこの、文学部で培った語彙力と、ケモナーとしての魂の叫びで!」

「……お主、話を聞かぬな。まあ、よいが」


 白鷹の周囲で、空気が物理的に震えた。

 霊圧。殺意を伴った霊的圧力。普通の人間なら立っているだけで鼻血を出して昏倒するレベルの圧力が、準に向かってくる。


 だが準は、泰然自若としてそこに立っていた。


(来た来た来た!! この感じ! この圧倒的なラスボス感! 選ばれし者の対峙! 覚醒!)


 準は右手を高く掲げた。

 もちろん、何も起きていない。光ってもいない。重要なのは雰囲気だ。


「来いよ、霊能力者。君の冷たい論理で、俺の情熱を冷やせると思ったら大間違いだぞ」

「……その右手は何? 何かを投げようとしているの?」

「これは、魂の構えだ! 力が!」

「霊的エネルギーは1ミリも感じられない。ただの筋肉の緊張ね」

「同じだ! 緊張が極まれば、それは力になるんだよ!」


 狭霧が、溜息をついて一歩前に出た。


「準よ。さっきから足が小刻みに震えておるぞ。武者震いというには、ただの貧乏ゆすりじゃ」

「下がっていてください狭霧様! これは男の戦いなんです! VTECがハイカムに切り替わる時のような不可逆的な瞬間なんです!」

「話を聞けと申しておる……。よいか、白い娘よ」


 狭霧が白鷹を見据える。


「我を排除するというのなら、受けて立とう。ただし、この人間の子の魂まで傷つけるというのなら、わらわは本気で怒るぞ。狐の怒りは、お主の想像より遥かに執念深い」


 白鷹の指先に、青白い霊力が収束していく。

 準は死を覚悟した。


(やばい、本当に死ぬやつだ。漫画なら闇の力が目覚めるが、俺が今持ってるのは呉さんの工場でもらった軍手だけだ)


 だが退かない。

 狭霧の尻尾が、今、彼の腕に優しく巻き付いていたからだ。


「来いよ、白鷹菜穂。俺たちは負けないぞ。俺には世界最強のモフモフが付いているんだ!」

「準殿、今のセリフ、致命的に格好悪いぞ」


 次の瞬間。


「——ちょっと」


 背後から、コンクリートを粉砕するような声が降ってきた。


 一瞬にして、戦場を支配していた霊的プレッシャーが、霧が晴れるように霧散した。


 振り返ると、一ノ宮舞花だった。

 ヒールをコツコツと鳴らしながら、切れ長の瞳に「この状況を経済的に処理する」という光を宿して歩み寄ってくる。


「何してんの、アンタたち。うちのサークルの、大事な労働力に手を出そうとしたわよね?」


 白鷹は眉をひそめた。


「A級の霊的存在。潜在的な危険性が——」

「証拠は? 客観的なデータは? 彼女がこの大学の器物を損壊した、あるいは学生に危害を加えたという具体的な報告書は上がってるわけ? ここ、法治国家の教育機関なのよ。分かってる?」


 白鷹の言葉が、初めて詰まった。


「……」


「許可なく特定の存在を"排除"するなんて行為、強要罪だし、場合によっては威力業務妨害として訴えることもできるんだけど。朱音、記録した?」


 朱音が建物の陰からビデオカメラを構えて現れた。


「記録完了。白鷹菜穂さんの一連の発言と行動、全て保存済みです」


 白鷹は、ゆっくりと杭をポケットに戻した。その瞳に、初めて「驚き」以外の色が宿る。それは学術的な熱情に近いものだった。


「……なるほど。単なる擬態ではない。既にこの人間と深くリンクしているのね。不気味だわ」


 准は、感動のあまり胸を張った。


「リンクしてる! 俺と狭霧様は、深くリンクしてるんだ!」

「しておらぬ。お主が勝手につきまとっておるだけじゃ」

「でもリンクしてるって言われましたよ!」

「お主が尾のことばかり考えておるから、波長が勝手に合っておるだけじゃ。迷惑な話よ」


 白鷹は一歩引いて、静かに言った。


「今日は引くわ。ただし、観察は続ける。あなたたちは……非常に興味深い群れね」


 彼女は白いコートを翻し、音もなく立ち去った。


 狭霧がぽつりと言った。


「あの娘、まっすぐな目をしておる。悪い子ではないぞ、準よ」

「でも俺のモフモフを排除しようとしましたよ?」

「お主が"俺のモフモフ"と言った。わらわの尊厳はどこに行ったのじゃ」

「あなたの全てが俺のものです」

「死にたいのか」


 扇子がパシンと準の額を叩いた。


 朱音がメモ帳に書き込む。


 白鷹菜穂、初接触。霊感強度、異常値。

 狭霧:A級霊的存在として認識。排除しようとするも、舞花先輩の法的論理で退場。

 準:今回の守護行動により、狭霧の尻尾に「偶発的に」触れることに成功。至福で死んでいた。

 結論:準の生存本能はすでにケモナーの本能に完全に乗っ取られている。

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