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葛城准教授、飲みに行く ~割り箸、居酒屋の壁を貫通す~

 川越の夜は深い。


 商店街の外れにある居酒屋「蔵処」の座敷で、大宮涼真先生がジョッキ四杯目を空けていた。

 ネクタイが解けかかっている。耳の後ろが茹でダコになっている。


「ああ……今日も……内燃機関の魂が……埼玉の空へ吸い込まれていく。なんと文学的な光景だろうか……」


「一拍置きます。五分前まで講義室の窓から、加賀くんに"三速の伸びが甘いぞ"と絶唱していた方の台詞とは思えませんわ」


 大宮の正面で、ブルーグレーの長い髪をしっとりと照明に光らせながら、葛城零華准教授が原酒を猪口に注いでいた。

 居酒屋という騒がしい空間に座っているのに、そこだけ時間が止まっているような気配がある。


「はっはっは! 零華君、相変わらず手厳しいね! だが教育とは現場が大事なんだよ! 君だって窓からペンを投げた時、少しはしてやったりという顔をしてたんじゃないか!」

「してませんわ。私はただ、不法投棄された赤い鉄クズを清掃しようとしただけですわ。それより、そのラリーアートのネクタイピン。今すぐこのモツ煮の中に沈めて差し上げましょうか」


 葛城の手が、無造作に箸置きの割り箸へと伸びた。


「ひっ。零華君、今日は無礼講じゃないか! ほら、川越産サツマイモの天ぷらを食べたまえ! 黄金色に輝いてまるでインプレッサのホイールのようだぞ!」

「一拍置きます。消えなさい、三流の比喩ごと」


 葛城の手が、電光石火の速さで割り箸の袋を破った。

 大宮は本能的な恐怖で椅子をガタガタと鳴らし、後ずさりする。


「待て! 零華君! ここは教室じゃない! ペンを持っていない君に——」

「あら。お主、勘違いしてますわね。私がペン以外のものを投げられないとでも?」


 葛城は、萌え袖で二本の箸を指の間に絶妙な角度で挟み込んだ。

 その構えは、戦国の剣豪が短刀を抜く瞬間のそれと完全に同じだった。


「割り箸、二連装、不敬断ち」


 葛城の腕が振り抜かれた。

 ドシュゥゥッ、という、空気を切り裂く音。

 放たれた二本の割り箸が、大宮の右耳を数ミリ通過し、背後の壁に掛かったメニュー板を貫通して、木製の壁にブスリと埋まった。


「刺さった。居酒屋の割り箸が。壁に。埋まった。物理法則はどこに行ったんだよ……」


 大宮が床を転げ回る。

 周囲の他学部の教授陣は、もはや見て見ぬふりを決め込んで干物を突いていた。


「ふぅ。少しだけ脳の冷却水が循環し始めましたわ」


 葛城は何事もなかったように原酒を一口煽り、おっとりと微笑んだ。その笑顔が、直前の暴力を完全に上書きする魔力を持っていた。


 そこへ、座敷の奥からゆっくりと一人の老人が立ち上がった。

 大和田教授だった。グラスを持って、二人の方へ歩み寄ってくる。


「まあ、どちらも。正しい」


 声は、嵐を鎮める凪のように穏やかだった。


「走りすぎても。止まりすぎても。人は転ぶ。歴史とは、転び方の記録です。大宮くん、君は走ることを説くが、道がなければ走れん。葛城くん、君は静寂を説くが、無音は死と同じだ。あのバカ共がどう転んで、どう起き上がるか。それを眺めるのが我々老いぼれの仕事ではないかね」


 葛城が視線を落とした。


「……左様でございますわね。ただ、あの排気音だけは。生理的に受け付けられませんの」

「それもまた一つの感性だ。嫌いなものがあるから、好きなものが際立つ。歴史も、その繰り返しだよ」


 大和田はそう言って、満足そうに自分の席へ戻っていった。


 数分後。その時だった。


「ヘーーイ! ネーサン! 原酒、追加で持ってきましたヨ!!」


 セブンイレブンの制服を着たチャイワット・スリサイが、なぜか居酒屋の厨房に一升瓶を運んで現れた。


「お主」


 葛城零華のオーラが、座敷の照明をチカつかせた。


「サワディーカー! ネーサン、また飲んでる! 顔赤い! ベリー・カワイイデスヨ!」

「お黙りなさい。散華、木片千本桜」


 葛城の腕が薙ぎ払われた。

 爪楊枝入れから取り出した数十本の爪楊枝が、チャイワットが抱えていた酒瓶の周囲を正確に囲むように、床・壁・天井へと同時に突き刺さった。


「ヒィィィィ!! 逃げろおぉぉぉぉ!!」


 居酒屋がパニック映画の撮影現場に変わった。


 静寂。

 物理的に穴だらけになった店内で、葛城零華はゆっくりと最後の一口の原酒を飲み干した。


「少し、飲みすぎましたかしら」


 葛城は萌え袖で口元を隠し、大宮が隠れているレジカウンターに向かって、一枚の百円玉を弾いた。


「大宮先生。今日の会計はお主に任せますわ。私のローブのクリーニング代。お主のコルトの下取り価格で足りますかしら?」

「足りるわけないだろおぉぉぉぉ! 私のラリーアートは私の命なんだよおぉぉぉ!!!」


 翌朝、大学の掲示板に教職員向けの警告文がひっそり貼り出された。


「居酒屋での備品(割り箸・爪楊枝・箸置き等)の投擲は、いかなる理由があっても教育的指導の範囲外と見なされます。心当たりのある教員は、直ちに施設管理課へ修繕費の相談に行くこと」


 教職員駐車場の片隅から、ライトニングブルーマイカのエボⅩの影で双眼鏡を覗く男が一人。


「ククッ。はははは。姐さんのエイム、薄暗い照明の下でも狂ってないな。さあて。次は、あのバカ共のケツでも叩きに行くか」


 高田海斗は金ホイールを朝日になびかせ、悠然と走り去った。


 朱音が「教授陣、酒害記録」のページに書き込む。


 葛城准教授、割り箸で壁を貫通。爪楊枝でチャイワットを威嚇掃射。

 被害:居酒屋の修繕費推定二十万円、大宮先生の精神崩壊。

 特記事項:葛城先生の酔い顔は美しいが、近づくと物理的に消される。

 大宮先生:ラリーアートの下取り価格をスマホで調べたが、画面に涙が落ちてフリーズしていた。

 大和田教授:すべてを歴史として肯定。これが一番の脅威。

 結論:この大学で最も安全なのは、意外にも呉さんの工場かもしれない。

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