表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
96/153

正史は黙って帰ってこない ~掃除当番と、川越街道の亡命者~

 「学内騒音および迷惑行為に関する最終警告」という掲示板の文字は、明らかに赤いペンで書かれていた。


 加賀練斗は、E塔の縁石に腰を下ろして、その文字を五分間、虚空の目で見続けた。


「……あれ、葛城准教授が俺たちの血で書いた予告状に違いない」

「加賀くん、比喩の精度が下がってるよ。疲れてる時のサインだ」


 準がノートNISMOのボンネットに突っ伏しながら言う。


「処分が出た。一ヶ月間の学内清掃奉仕活動。そして——」


 加賀が缶コーヒーを握りつぶしそうな勢いで続けた。


「その期間中の、全車両走行禁止」


 五秒の沈黙。


「「「「「……は?」」」」」


「走れない。一ヶ月、走れない。理解できるか雅紀」

「……俺の13Bが。プラグが固着して死ぬ……」

「VTECが。ただのバルブに戻ってしまう……」

「オレのブローオフが。音を忘れてしまうデス……」

「スーパーストラットが。泣いてる……」


 全員が、それぞれの形で死んだ顔をした。


 その夜、本部棟の会議室では、掃除用具の割り当てが行われていた。加賀たちはスーツを着せられ、いつもの排気音の代わりに、モップを引きずる音を立てていた。


「……俺たち、いつから清掃業者になったんだ」


 雅紀が窓の外の、駐車場で寂しそうに佇むRX-8を見つめながら言った。


 六時間、汗を流した夜。


 その時だった。


 ドォォォォォォン!!!


 キャンパスの正門付近から、地響きのような排気音が響き渡った。葛城准教授が望む静寂を、原子レベルまで粉砕する、圧倒的な音圧。


「この音、4B11エンジン——まさか!」


 加賀が窓に駆け寄った。


 ライトニングブルーマイカのエボⅩが、メインストリートをサーキットのホームストレートのように全開加速し、第一会議室の真下でドーナツターンを決めた。アスファルトに黒い轍が、巨大な円となって刻まれる。


「よぉ、掃除当番の諸君。なんだ、その、去勢された駄犬みたいなツラは」


 高田海斗が窓から身を乗り出し、不敵な笑みを浮かべた。


「高田先輩! 走行禁止令の真っ最中ですよ! 廃部になる!!」

「禁止? ああ、葛城の姐さんか」


 高田はエボⅩのアクセルを一際大きく煽った。アフターファイアが夜の闇を裂く。


「正史ってのはな、黙って座ってても帰ってこないんだよ」


 その瞬間、E塔三階の窓が爆発するように開いた。


「高田、貴様! 卒業生でありながら、私の聖域で何という不敬を!」


 葛城が、両手に十数本のペンを扇状に構えて身を乗り出した。ソニックグレーの髪が静電気で発光しているように見えた。


「消えなさい、過去の遺物ごと!」


 十二本のペンが、超音速の矢となってエボⅩへと殺到した。


 だが高田は笑っていた。


「遅いですよ、姐さん」


 エボⅩがギアを叩き込んだ。S-AWCが電子制御の限界を超えたトルク配分を行い、青いボディが、ペンが着弾するコンマ数秒前にその場から消失した。

 ドシュドシュドシュッ! とアスファルトに十二本のペンが垂直に突き刺さる。


「加賀。俺は今から川越街道の正史を回ってくる。走る気がないなら、そのまま一生、葛城先生のペン先でも数えてな」


 エボⅩが、吸気音と排気音を夜の空気に撒き散らして消えた。

 後に残されたのは、強烈なハイオクガソリンの焦げた香り。


 加賀の手が、激しく震えていた。

 恐怖じゃない。ここ数日、文房具を恐れて忘れていた、あの熱が、全身の血管を逆流している。


「準。雅紀。細田。マイケル。雑巾を捨てろ」


「でも加賀くん、廃部が——」


「廃部になったら、ただの不法集団としてE塔裏を占拠すればいいだけだ」


 加賀がスーツの上着を脱ぎ捨て、袖を捲り上げた。


「聞こえないか。セリカが泣いてる。正史を連れ戻せって、俺の右足にアクセルペダル越しに語りかけてくるんだよ。一ヶ月も待てるわけないだろ。走り屋の時間は、レブリミットの瞬間にしか存在しないんだからな!」


「行こうぜえええええ!!!!!」


 五台の咆哮が、埼玉中央総合大学の駐車場に響き渡った。


 葛城准教授が三階から放つインクボトルの雨を、加賀のセリカが神がかったステアリングワークで回避し、雅紀のRX-8が火花を散らして追う。


 どれだけ理不尽な力が介入しようとも。

 ステアリングを握り、フロントタイヤが路面を掴む瞬間の感触が、自分たちの唯一の真実だ。


 朱音が建物の陰でビデオカメラを回しながら、メモ帳に力強く書き込んだ。


 S・H・B、走行禁止令を完全に無視して出撃。

 対戦相手:葛城准教授。

 被害:セリカのリアバンパーに青いインクの掠り傷一本。

 これより埼玉中央総合大学は、再びカオスの時代へ突入する。

 特記事項:高田OBのエボⅩのタイヤ、後で呉さんが怒鳴っていた。

 追記:正史は黙って帰ってこなかった。排気音という名の最も騒がしい福音と共に、自分たちの手で連れ戻した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ