正史は黙って帰ってこない ~掃除当番と、川越街道の亡命者~
「学内騒音および迷惑行為に関する最終警告」という掲示板の文字は、明らかに赤いペンで書かれていた。
加賀練斗は、E塔の縁石に腰を下ろして、その文字を五分間、虚空の目で見続けた。
「……あれ、葛城准教授が俺たちの血で書いた予告状に違いない」
「加賀くん、比喩の精度が下がってるよ。疲れてる時のサインだ」
準がノートNISMOのボンネットに突っ伏しながら言う。
「処分が出た。一ヶ月間の学内清掃奉仕活動。そして——」
加賀が缶コーヒーを握りつぶしそうな勢いで続けた。
「その期間中の、全車両走行禁止」
五秒の沈黙。
「「「「「……は?」」」」」
「走れない。一ヶ月、走れない。理解できるか雅紀」
「……俺の13Bが。プラグが固着して死ぬ……」
「VTECが。ただのバルブに戻ってしまう……」
「オレのブローオフが。音を忘れてしまうデス……」
「スーパーストラットが。泣いてる……」
全員が、それぞれの形で死んだ顔をした。
その夜、本部棟の会議室では、掃除用具の割り当てが行われていた。加賀たちはスーツを着せられ、いつもの排気音の代わりに、モップを引きずる音を立てていた。
「……俺たち、いつから清掃業者になったんだ」
雅紀が窓の外の、駐車場で寂しそうに佇むRX-8を見つめながら言った。
六時間、汗を流した夜。
その時だった。
ドォォォォォォン!!!
キャンパスの正門付近から、地響きのような排気音が響き渡った。葛城准教授が望む静寂を、原子レベルまで粉砕する、圧倒的な音圧。
「この音、4B11エンジン——まさか!」
加賀が窓に駆け寄った。
ライトニングブルーマイカのエボⅩが、メインストリートをサーキットのホームストレートのように全開加速し、第一会議室の真下でドーナツターンを決めた。アスファルトに黒い轍が、巨大な円となって刻まれる。
「よぉ、掃除当番の諸君。なんだ、その、去勢された駄犬みたいなツラは」
高田海斗が窓から身を乗り出し、不敵な笑みを浮かべた。
「高田先輩! 走行禁止令の真っ最中ですよ! 廃部になる!!」
「禁止? ああ、葛城の姐さんか」
高田はエボⅩのアクセルを一際大きく煽った。アフターファイアが夜の闇を裂く。
「正史ってのはな、黙って座ってても帰ってこないんだよ」
その瞬間、E塔三階の窓が爆発するように開いた。
「高田、貴様! 卒業生でありながら、私の聖域で何という不敬を!」
葛城が、両手に十数本のペンを扇状に構えて身を乗り出した。ソニックグレーの髪が静電気で発光しているように見えた。
「消えなさい、過去の遺物ごと!」
十二本のペンが、超音速の矢となってエボⅩへと殺到した。
だが高田は笑っていた。
「遅いですよ、姐さん」
エボⅩがギアを叩き込んだ。S-AWCが電子制御の限界を超えたトルク配分を行い、青いボディが、ペンが着弾するコンマ数秒前にその場から消失した。
ドシュドシュドシュッ! とアスファルトに十二本のペンが垂直に突き刺さる。
「加賀。俺は今から川越街道の正史を回ってくる。走る気がないなら、そのまま一生、葛城先生のペン先でも数えてな」
エボⅩが、吸気音と排気音を夜の空気に撒き散らして消えた。
後に残されたのは、強烈なハイオクガソリンの焦げた香り。
加賀の手が、激しく震えていた。
恐怖じゃない。ここ数日、文房具を恐れて忘れていた、あの熱が、全身の血管を逆流している。
「準。雅紀。細田。マイケル。雑巾を捨てろ」
「でも加賀くん、廃部が——」
「廃部になったら、ただの不法集団としてE塔裏を占拠すればいいだけだ」
加賀がスーツの上着を脱ぎ捨て、袖を捲り上げた。
「聞こえないか。セリカが泣いてる。正史を連れ戻せって、俺の右足にアクセルペダル越しに語りかけてくるんだよ。一ヶ月も待てるわけないだろ。走り屋の時間は、レブリミットの瞬間にしか存在しないんだからな!」
「行こうぜえええええ!!!!!」
五台の咆哮が、埼玉中央総合大学の駐車場に響き渡った。
葛城准教授が三階から放つインクボトルの雨を、加賀のセリカが神がかったステアリングワークで回避し、雅紀のRX-8が火花を散らして追う。
どれだけ理不尽な力が介入しようとも。
ステアリングを握り、フロントタイヤが路面を掴む瞬間の感触が、自分たちの唯一の真実だ。
朱音が建物の陰でビデオカメラを回しながら、メモ帳に力強く書き込んだ。
S・H・B、走行禁止令を完全に無視して出撃。
対戦相手:葛城准教授。
被害:セリカのリアバンパーに青いインクの掠り傷一本。
これより埼玉中央総合大学は、再びカオスの時代へ突入する。
特記事項:高田OBのエボⅩのタイヤ、後で呉さんが怒鳴っていた。
追記:正史は黙って帰ってこなかった。排気音という名の最も騒がしい福音と共に、自分たちの手で連れ戻した。




