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隠密作戦は一秒で終わった

「いいか野郎ども。耳の穴をかっぽじって、ピストンの往復運動より精密に俺の言葉を刻み込め」


 早朝、E塔裏。

 加賀練斗は、昨日の細田からのLINEを三回読み返した後、セリカのボンネットに手を置いて全員を見渡した。その顔つきは、指名手配中の爆弾魔のリーダーのそれだった。


「今日この瞬間から、S・H・Bは完全隠密組織へと移行する。キャンパス内でマフラーの音を一デシベルでも漏らしてみろ。サークル長権限でお前らの排気口に呉さんの工場の軍手を三十枚詰め込んで、ハイブリッドカー以下の静寂を強制執行してやるからな」


「……加賀くん。声がデカい」


 鈴木準がガタガタと膝を震わせながら蚊の鳴くような声で言った。足元には、なぜかケモ耳少女が描かれた同人誌の表紙が魔法陣のように敷き詰められている。薄い本のインクで物理攻撃を防ごうとする論理は、すでにオーバーヒートを起こしていた。


「ヘーーイ! カガ! 隠密作戦デスネ! オレ得意デスYO! アメリカの忍者映画を全巻三周した! 泥を顔に塗れば誰にも見つからないデース! USA!!」


 マイケル・タナーが、呉さんの工場からくすねてきた黒いモリブデングリスを顔面に厚塗りして現れた。

 忍者というより、クランクシャフトの潤滑に失敗した直後の整備士だった。


「汚ねぇよ! 逆に目立つんだよ! モリブデンは塗装に付くと落ちにくいって呉さんがいつも怒鳴ってるだろ! 今すぐウエスで拭け!」

「OK! ノープロブレム!」


 雅紀はRX-8のスペアタイヤを抱えたまま、ハイライトが消えた目で虚空を見つめていた。昨日、細田のLINEで読んだ「ペン一本で廃車」の四文字が、脳内の13Bを逆回転させている。


「あの、加賀さん」


 細田が遺書でも書いているような顔で挙手した。


「なんだ細田。顔面がフィットのパールホワイトより白いぞ」

「一限が葛城先生の『日本古代史概論』なんです。しかも俺、今日の発表担当なんです」

「……」

「これ発表じゃなくて公開処刑の間違いですよね。ホワイトボードの前に立った瞬間、俺の喉仏に赤いペンが垂直着弾するんですよね。せめて遺影は、VTECが切り替わった瞬間の、一番輝いていた俺の写真にしてください」

「諦めろ。走り屋はコーナーに突っ込んだらブレーキは踏まない。教壇という名のクリッピングポイントに、迷わず突っ込んでこい。帰りに学食で二二〇〇円の肉料理を奢ってやる」

「命の値段が安すぎる。加賀さんはハイオクの代わりに悪魔の血液を給油してるんだ」


 细田が半泣きでE塔の階段を登っていくのを、残り四人は黙祷のポーズで見送った。


 正門を目指して、四台が静かに動き出した。

 アクセル開度二パーセント。回転数一三〇〇固定。アイドリングの振動がE塔三階の窓を震わせた瞬間に終わりだ。

 加賀が「原子力潜水艦の無音潜航任務だと思え。呼吸も止めておけ」と言い、全員が頷いた。


 正門まで、あと五十メートル。


「おーい! お前らどこへ行くんだぁぁぁ!!!」


 背後から、宇宙規模の大声が響いた。

 大宮涼真先生である。


 赤いコルト・ラリーアートの窓から身を乗り出して、親指を立てている。


「奇遇だね! 私も今から、零華君にワンオフマフラーの排圧を測定してもらう予定なんだ! 一緒に行かないか!!」

「来るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!! お前は死神か!!!!」


 四人の絶叫が響いた瞬間、恐怖で痙攣した雅紀の右足がアクセルを踏み込んだ。

 低回転で溜まっていた未燃焼ガスが、一気に排気管へ。


「——パパパンッ!!!」


 バックファイア。

 祝砲のような、あるいは宣戦布告のような爆発音が、静まり返ったキャンパスに轟いた。


 一瞬、世界から音が消えた。


 E塔三階の窓が、ゆっくりと開いた。

 そこから、ブルーグレーの髪を逆立てたように見えた葛城零華が、ペン立てごと身を乗り出した。


「見つけましたわ。逃げるドブネズミと、空気を読まない赤い産業廃棄物を」


「終わった! 誰か俺の遺体を呉さんのピットに埋めてくれ!!」


 葛城の手が、ペン立てから赤・青・黒の三本を同時に掴んだ。

 それは、かつて初代S・H・Bを地獄の淵に叩き落としたと噂される、トリプル・アクセル・ショットの構えだった。


「消えなさい。このキャンパスに、騒音とバカは、一人も必要ありませんわ」


 葛城の腕が、萌え袖の中で視認不可能な残像を描いた。

 三本のペンが、空気抵抗を無視した軌道を描き、大宮先生のコルトのリアウィンドウ、雅紀のRX-8のトランク、そして加賀のセリカのサイドミラー付近を、コンマ数ミリの精度で狙い撃ちにした。


「——ドシュゥゥゥッ!!!」

「——ドシュゥゥゥッ!!!」

「——ドシュゥゥゥッ!!!」


「ぎゃあああああ!! サイドミラーにペンがめり込んでる!! 死角が死んだ!!!」


 加賀がステアリングを握りしめたまま絶叫した。セリカのサイドミラーには、黒いペンが垂直に突き刺さっていた。まるで最初からそこにあった部品のように、完璧な角度で。


「ラリーアートのエンブレムがペンで貫通されたよ! 零華君の愛が重すぎる! 物理的に重すぎる! これじゃラリーカーじゃなくて文房具の展示車両だよ!!!」


 大宮先生が蛇行しながら悲鳴を上げる。


「まだ予備はありますわよ。お主らのガソリンが尽きるのが先か、私の文房具代が尽きるのが先か、試して差し上げますわ」


 葛城が萌え袖の中から補充インクボトルを取り出した。キャップを口で外す動作が、手榴弾のピンを抜くそれと完全に同じだった。


「物理攻撃から化学兵器に移行したぞ!! 全員撤退だ!! タイヤの溝を使い切ってでも正門を突き抜けろ!!!」


 加賀の号令と共に、隠密作戦は一秒で完全崩壊した。

 六台が白煙を上げながら川越街道へと逃走する。


 E塔の屋上から、双眼鏡でその光景を眺めていた男が一人。


「ククッ。はははは」


 高田海斗。ライトニングブルーマイカのエボⅩの屋根に腰かけ、板チョコを齧っていた。


「葛城の姐さんにインク瓶を持たせたら、もうそのキャンパスに安息の日々は訪れない。俺たちが卒業した時に、彼女が放った最後の一撃——あれが校門の石柱を粉砕したのを、今でも鮮明に覚えてる。いいフォームだ。当時よりキレが増してるな」


 高田はエボⅩの屋根から降りると、金ホイールを朝日にきらめかせ、静かに去っていった。


 一方、三階の講義室では。

 発表を終えた细田が、葛城が投げ忘れた黄色いペンを手に、ガタガタと震えながら立っていた。


「あの、葛城先生。発表、終わりましたけど。外の皆さんが凄い勢いで逃げていきましたが」


 葛城は、走り去るセリカのテールランプを眺めながら、聖母のような声で答えた。


「お疲れ様、細田くん。素晴らしい発表でしたわ。歴史は繰り返される。今の情景にぴったりのテーマでしたわね。古の戦場も、きっとこれくらい賑やかだったのでしょう。血の代わりにインクが流れるだけの違いですわ」


 葛城は細田から黄色いペンをゆっくりと受け取ると、胸ポケットに、優しく、しかし確実に布地を突き破るほどの力で差し込んだ。细田の胸元に、じわりと黄色いインクが染み出す。


「これを、あのお友達に伝えておいて。次は、蛍光色をお前たちの瞳の奥に直接塗り込んで差し上げます、と。夜道でもよく目立つように、丁寧にマーキングして差し上げますわよ」


「伝えたくありませぇぇぇぇん!!!!」


 夜。呉自動車のガレージ。

 泣きながらサイドミラーの補修を依頼する加賀と、ペンが刺さったコルトを見て開いた口が塞がらないまま、レンチを落とした呉福造の姿があった。


 朱音がメモ帳に書き込む。


 S・H・B、隠密作戦に完全失敗。

 原因:大宮先生の不時着と雅紀の排気系トラブル。

 被害:加賀のサイドミラー貫通(修復不能)、コルトのエンブレム破壊。

 特記事項:葛城准教授、インクボトルを投擲武器として正式採用。

 結論:走り屋は、静かにすることが最も苦手である。


 朱音は遠くで鳴り響くパトカーのサイレンを聴きながら、棒付き飴をガリリと噛み砕いた。

「さて、面白くなってきたじゃない。……呉さんに、セリカの対ペン強化装甲を見積もりで出してもらおうかしら。紹介料込みで」

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