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ソニックグレーの殺気 ~萌え袖の裏に、音速がいた~

 日本史学部の講義室は、その朝も不気味なほど静かだった。

 少なくとも、細田葵人が重たい扉を開けるまでは。


「……助かった。今日も平和な日本史が始まる」


 誰に言うでもなく独り言を吐いて、细田は指定席に尻を沈めた。いつもの大和田教授の講義。あの心地よい低音と板書の美しさが、エンジン過熱気味の脳をちょうどよく冷ましてくれる。

 今日のうちに、零一〇〇パワーチャンバーのフィルターをエアガンで掃除しようか。いや、いっそ新品に——


 そこで、细田の思考が凍った。


 教壇の前に立っていたのは、大和田教授ではなかった。


 白いローブ。ただの白じゃない。冬の朝の光を透かすような、神聖な白さだ。金とターコイズブルーの差し色が入り、その人物の立ち姿を、この世のものとは思えないほど浮世離れしたものにしていた。

 そして何より目を引いたのは——袖口から指先を半分隠す、いわゆる「萌え袖」。


 准教授という地位にある人間が、あのファッションをしている。

 それが最大の異常であることに、この時の细田はまだ気づいていなかった。


 走り屋の職業病で、细田の脳内比較回路が強制起動した。

 あの髪の色——ブルーグレーの長い髪が、蛍光灯の下でしっとりとした光沢を放っている。

 FL5シビックタイプRの、ソニックグレー・パール。

 間違いない。


 自分の頬をつねった。痛い。現実だ。


 教壇の女性は、ゆっくりと、一切の無駄なく、こちらを向いた。

 糸を引くような穏やかな微笑。垂れ目、垂れ眉。どこか幼さすら感じさせる、おっとりとした顔立ち。


「おはようございます。皆さんはじめまして。本日は大和田先生の急な不在に伴い、代理で講義を担当することになりました」


 声は、春の陽だまりのように温かかった。

 だが、细田の脊髄は、その声の裏にある絶対零度の何かを察知して、警報を鳴らし始めていた。


「日本史学部・准教授の葛城零華です。歴史とは、勝者が自分たちの正当性を守るために積み上げた、非常に身勝手な記憶の集積に過ぎません。今日はその中から、特に自分たちの愚かさを正当化しようとした権力者たちの滑稽な様を、皆さんと共に解剖していこうと思います」


 葛城はそう言いながら、机の上に置かれていたホワイトボードペンを一本、手にした。

 サクラクレパス製の、どこにでもある黒いペン。

 しかし彼女がそれを指先で一回転させた瞬間、ペンの先端から殺気が噴き出したような錯覚に、细田は囚われた。


 講義が始まった。

 内容は、驚くほど濃密で、恐ろしいほど冷徹だった。

 源頼朝を「極めて執念深く、自己保身に長けた面倒な男」と定義し、鎌倉時代の権力構造を錆びたメスで死体を切り刻むように解剖していく。大和田教授の温かい歴史観とは、完全に別の生き物だった。


「歴史は、結果が良ければすべて正しいというわけではありません。むしろ、その過程でどれだけの無実の者が、勝者の身勝手な論理によって踏みにじられたかを見るべきです」


 その時、教室後方から、空気を読まない声が響いた。


「あの、葛城先生。でも、鎌倉幕府が日本を安定に導いたわけですから、頼朝の判断は経営学的にも正解だったんじゃないですか。犠牲とかいっても、必要経費というか」


 细田は瞬時に、隣の席なら絞め落としていただろうと思った。

 バカか。地雷原の真ん中でキャンプファイアを始めたようなものだ。


 葛城零華は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、質問した学生の方を振り向いた。

 微笑みは、消えていない。むしろ、深くなった。

 だが、瞳から一切の光が消えていた。


「いい質問ですね。経費、ですか」


 葛城の右腕が、萌え袖の中でわずかに動いた。

 细田の動体視力では追えない。ヒール・アンド・トゥを極めたプロドライバーでも、これほど鋭い「入力」は不可能だ。


 シュッ、という、空気が切り裂かれる音がした。

 ズドンッ!!!


 質問した学生の鼻先から数センチ。合板のはずの机の天板に、ホワイトボードペンがキャップの先から三センチほど、深々と埋まっていた。

 ペンは小刻みに震えながら、そこにあった。


「歴史はですね。正解だったかどうかではなく、誰が犠牲になったかで見るべきだと申し上げたはずです。次、私の言葉を遮ってそのような"ノイズ"を発した場合は、その口の中にインクを直接流し込んで差し上げますわ」


 葛城は何事もなかったように黒板に向き直った。

 质問した学生は、口をパクパクさせたまま、椅子に張り付いていた。


 细田は、自分の心臓がレブリミットを超えていることを確認した。


 刺さった。

 今、文房具が、木材を貫通して、物理的に刺さった。

 ダーツとかそういうレベルではない。


 高田さんが言っていた「ペン一本で廃車」は、比喩じゃなかった。

 あんなものがセリカのフロントガラスに飛んできたら、加賀さんの命は三回くらい足りない。


 チャイムが鳴った。葛城は教科書を閉じ、優雅に一礼した。ローブの裾が美しく揺れる。

 去り際、なぜか彼女の視線が、最前列で石化していた細田を捉えた。


「细田くん」

「ひっ、はい!! 何でしょうか!! 全力で反省しています!!」

「あなたのサークル……S・H・B、でしたわね」


 細田の脳内で、2ZZのピストンが音を立てて止まった気がした。


「今朝、研究室の窓の外から、二速全開のような下品な音が聞こえてきましたわ。歴史的に見て、平安を乱す騒音主には適切な"埋葬"が必要だと思いませんか?」

「思、思います! 埋葬するべきです! ただ俺のフィットはローンが三回残ってまして——」

「ふふ。面白い子」


 葛城は小さく笑った。それがまた、恐ろしかった。


「大宮先生には伝えておいてください。次に私の講義の邪魔をしたら、彼のあの赤い鉄クズのタイヤに、私の在庫のペンを全部"板書"して差し上げますわよ、と。穴だらけのタイヤは、和歌の調べのように美しいでしょうね」


 そう言い残して、ソニックグレーの髪が翻って消えた。

 残されたのは、虚空を見つめる細田と、机に深々と刺さったままの「呪いのペン」だけだった。


 細田は震える手でスマホを取り出し、S・H・BのグループLINEに打ち込んだ。


『全員、今すぐこの大学から逃げろ。ここはもう、走り屋が棲める場所じゃない。ソニックグレーの死神が、俺たちの背後に立っている。繰り返す、ペンは文房具じゃない。これは対人・対車両用の最終兵器だ』


 すぐに加賀から返信が来た。


『落ち着け細田。ペンが刺さったくらいで騒ぐな。俺たちのセリカやエイトは、そんなヤワな設計じゃないだろ』


 細田は涙を流した。

 何もわかっていない。

 あの女は、内燃機関という文化そのものを、一本のプラスチックの棒で歴史の闇へ葬り去ろうとしているのだ。


 夕暮れのキャンパス。

 朱音が、講義室に残された「刺さったペン」を無表情で突いた。

 微塵も動かなかった。


 メモ帳を開く。


 葛城零華准教授、初接触。

 使用武器:サクラクレパス製ホワイトボードペン。威力はプレス機に匹敵。

 大宮先生との関係性:対話の拒絶と物理的排除。

 S・H・Bへの評価:不明。ただし把握済み。

 結論:このキャンパスのカオスは、今、最終段階へとシフトアップした。


 朱音はメモ帳を閉じ、棒付き飴をガリリと噛み砕いた。

 窓の外では、何も知らないマイケルが「USA!! USA!!」と叫びながらブローオフバルブを鳴らしていた。


「……あの人のレガシィのタービンが、明日まで無事かしら」

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