再会、そしてアクセルは踏まれた
「いいか高田さん。俺は三菱の技術力を疑っているわけじゃない。4B11エンジンの堅牢さとS-AWCの制御能力には、畏敬の念すら抱いてる」
E塔裏。
加賀練斗は、目の前に鎮座する青いエボⅩを「解けない数学の難問」でも見るような顔で凝視していた。
「だがこの色はダメだ。このライトニングブルーマイカ、あまりにも完成度が高すぎる。夕暮れの光を反射して深みを増すこの蒼と、アドバンレーシングのゴールドホイール。これはもはや三菱がスバルに仕掛けた高度な情報戦にしか見えない」
「……お前、なんで俺が一番聞きたくない方向に話を展開できるんだ」
高田海斗はエボⅩのボンネットに背中を預けたまま、悟りを開いた人間のような乾いた笑いを漏らした。
「いいか加賀。これは三菱純正のライトニングブルーマイカだ。俺がスバルに憧れて全塗装したわけじゃない。工場から出てきた時からの、誇り高き三菱の蒼だ。それを10年間、毎回毎回『あ、インプレッサだ!ラリー頑張ってね!』とか『やっぱり青いセダンはスバルに限るよね!』とか言われ続けてきた。俺の自尊心は今、ボロボロのヘッドガスケットみたいな状態だ」
「その例え、走り屋以外に1ミリも伝わらないですね」と準がスマホを構えながら言った。「記録します。……あと高田さん、この青、ケモノの瞳の奥にある神秘的な深淵と同じ色なんですけど、この車、モフっていいですか」
「死にたいのか。俺の外装に脂をつけた瞬間、AYCで強制スピンさせて地獄の果てまでドリフトで連れて行くぞ」
「性格の捻じれ方がLSDの効きすぎたデフみたいになってる!!」と雅紀がRX-8の陰から叫んだ。
マイケルが高田の足元に跪き、ホイールを眺めていた。
「OH...ADVAN Racing Gold...THE TRADITION!! タカダ・サンのエボⅩ、アメリカのJDMフェスに持っていったら10秒でスバリストに囲まれて暴動が起きるYO!! "インポスター!"って——」
「マイケル。"偽物"はNGワードだと言っただろ」と細田がフィットの陰から制止した。
高田はもう一度、深いため息をついた。
「まあいい。俺がここに来たのは色の議論をするためじゃない。呉さんに頼まれたんだ。『現役のバカ共が最近、自分の限界と車の限界を混同し始めてる。一度、本物の理不尽を見せてやってくれ』ってな」
ポケットからエボⅩのキーを取り出し、指先で回した。
「加賀。その赤い車、最後に本気で泣かせたのはいつだ」
加賀の目が、一瞬で変わった。
「毎日ですよ。俺の2ZZ-GEは常にレブリミットの向こう側を見据えてる」
「教えるつもりはない。ただ、初代S・H・Bがこの大学の地脈に残した傷跡を、少しだけ思い出させてやるだけだ」
高田はエボⅩの運転席に滑り込んだ。
シートベルトを締めるカチリという音が、E塔裏の喧騒を一瞬で静寂に変えた。
「全員乗れ。目的地は第3セクターの死のヘアピン。俺たちがかつてガソリンと涙で川越街道を水没させた、あの場所だ」
「「「「「川越街道を水没させるなよ!!何リットル漏らしたんだよ!!!!」」」」」
全員が自分の車へ駆け込む。
セリカ、RX-8、ノートNISMO、フィット、レガシィ。
5台のエンジンが、高田のエボⅩが放つ「初代の重圧」に呼応するように、次々と目覚めた。
「行くぞ。ちぎれるなよ、後輩共」
ライトニングブルーマイカが、夕闇に溶け込むように動き出した。
川越街道のバイパスを抜けて、郊外の工業地帯へ。
夜になると街灯もまばらになり、アスファルトの黒さだけが強調される、埼玉の走り屋たちの聖域——あるいは墓場。
先頭を行くエボⅩは、まるでレールの上を走っているかのように滑らかだった。
だが速度が、異常だった。
「あの先輩、コーナーの手前でブレーキランプが一回も点いてないぞ!?」
セリカを駆る加賀が、ステアリングを握る手に力を込める。
「4WDのトラクションを信じ切ってる……いや違う。車体の向きを変える一瞬の動作だけで、旋回を終わらせてやがる……!」
無線機から準の悲鳴が飛び込んできた。
「加賀ぁ!!ダメだ、俺のノートじゃあの青い残像にピントが合わない!!あの人タービンと脳が直結してるサイボーグだ!!」
「準、落ち着け!!マイケル、直線で追いつけるだろ!!」
「NO!!カガ!!ムリデスYO!!あのエボⅩ、加速するたびに『三菱の怒り』が地面を叩いてるYO!!オレのレガシィがビビってブーストが1.0以上上がらないYO!!精神的ノッキングデスYO!!」
「精神的ノッキングって何だ!!」
工業地帯の最深部。
通称「死のヘアピン」——Rが極端にキツい右カーブが、暗闇の中で口を開けていた。
エボⅩは、そこへ吸い込まれるような速度で突っ込んでいった。
加賀が「死ぬ」と直感したその瞬間。
エボⅩのリアが、物理法則を無視した角度で外側に流れた。
ドリフトではない。S-AWC(車両運動統合制御システム)を極限まで使いこなし、全輪に駆動力を配分した結果生まれる、神速の方向転換。
ドゴォォォォン。
強烈なスキール音と共に、エボⅩはヘアピンを一瞬で立ち上がり、闇の向こうへ消えた。
10秒後。
ヘアピンの手前でフルブレーキングをかまし、全員がよろよろと停車する。
「……化け物だ」
雅紀が窓から顔を出して戦慄した。
「AYCが泣いてたぞ。あんなの、機械へのパワハラだろ」
「違う」
加賀が窓を全開にして、熱気を逃がしながら言った。
「車が、喜んでた。セリカのハンドルから伝わってきた。あの車は悲鳴を上げてるんじゃない。『もっと回せ、もっと踏め』って、高田さんと会話してたんだ」
闇の中から、ゆっくりとエボⅩが戻ってきた。
ハザードを点滅させ、静かに停車する。
高田が降りてきた。
ライトニングブルーマイカのボディから、陽炎が立ち上がっていた。
「どうした。俺の偽インプレッサに、置いていかれた気分は」
「完敗ですよ、高田さん」
加賀が悔しさを隠さずに言った。
「でも一つだけ。あのライトニングブルーマイカ、さっきの走りを見たら——もうスバルには見えませんでした」
高田は意外そうに目を見開いた後、ふっと鼻で笑った。
「そうか。なら今日のガソリン代は無駄じゃなかったな」
「タイヤの溝は無駄になりましたけどね」
全員が笑った。
しかし高田は、空を見上げて少しだけ真面目な顔になった。
「ただ、加賀。浮かれるのはまだ早いぞ。俺が戻ってきたってことは——あいつらも、黙ってないはずだ」
「あいつら?」
「俺たちの代を地獄に変えた、大学の真の支配者たちだ。特に、日本史学部のあの准教授。あいつにだけは絶対に車を近づけるな。ホワイトボードのペン一本で、お前のセリカが廃車になるぞ」
加賀の背筋に、冬の埼玉の風より冷たいものが走った。
朱音がメモ帳に書き込む。
「高田OB来訪。エボⅩによる洗礼。加賀:完敗を認めた——珍しい。特記:日本史学部の准教授に注意とのこと。ホワイトボードのペンで廃車。意味がわからない。でもこの大学ならあり得そうなのが一番怖い——記録完了」
夜の工業地帯に、冷えていく6台のエンジンの音が、ピキピキと響いた。




