青いセダンと金色の呪い
四限が終わったE塔裏。
相変わらず「文明の墓場」のような香りが漂っていた。
ガソリン、古いエンジンオイル、そして誰かが地獄コンテナでこぼしたカップ焼きそばのソース。
これらが渾然一体となって熟成された、走り屋の加齢臭。
四月から嗅ぎ続けて、もう鼻がバカになっている。
「……で。言っておくけどな」
加賀練斗は飲み干した缶コーヒーを握りしめたまま、目の前の惨状を凝視した。
視線の先では、仲間たちが「文化活動」と称した奇行に走っている。
準がセリカのボンネットに何かを当てていた。
近づいてみると、ケモ耳の描かれたステッカーだった。
「……何してる」
「光の反射角の研究だよ。夕日に照らされると、この耳の毛並みがパール塗装みたいに輝くんだ。物理学と美学の融合——」
「その萌えエネルギーで俺のスーパーレッドを汚染するな。今すぐ離せ」
「細かいことを気にしない主義だよ、加賀くん」
「細かくない。殺意だ」
雅紀はジャッキの脇でしゃがみ込み、足回りの「よくわからないネジ」を無心で回していた。
「いや、ほら。"このネジ外したらエイトの寿命が3年延びるんじゃないか"って思ったら手が止まらなくて」
「寿命じゃなくて車輪が外れる。あと気になった時点で負けだ。お前の好奇心は13Bへの冒涜だぞ」
「でも気になるんだよ……」
「回すな」
その奥では、細田がセリカのボンネットをやさしく撫でながら目を閉じていた。
「……静かに。エンジンが言ってる。"今日は回すな、魂を休ませろ"って……」
「エンジンは喋らない。お前が休んでるのは脳みそだけだ」
「でも確かに聞こえ——」
「聞こえない」
マイケルが全員を見渡して、満足そうにうなずいた。
「VERY GOOD JAPANESE CLUB!! THIS IS…HOW YOU SAY…"青春(BLUE SPRING)"!!」
「青春を国際問題にするな。埼玉の局地的なバグで済ませろ」
加賀のツッコミが秋の空に虚しく響く。
いつも通りだった。
いつも通り過ぎて、逆に「何かが起きる前触れ」のような、妙に澄み切った空気がE塔裏を支配しようとした、その時だった。
ゴォォォ……
低く、重い。
地響きのようなエキゾーストノートが、E塔裏の空気を一枚、静かに剥がした。
大学に生息する学生たちの安っぽい直管マフラーとは、次元が違う。
トルクの太さが音の厚みになって、アスファルトを直接叩いているような音だ。
「……は?」
全員が一斉に振り返った。
青いセダンが、E塔裏に入ってきていた。
ただの青じゃない。「スバル、WRXブルーか?」と思わせる、鮮烈な青。
だがゆっくりと近づいてくるそのフォルムを、走り屋の目線が即座に解剖する。
「……インプじゃない。エボⅩだ」
加賀がぽつりと呟いた。
C-WEST製のフルエアロ。威圧的な巨大ウィング。
そして何より——。
「……金?」
細田が息を呑む。
ホイールが、異様に金色だった。
ピカピカのメッキではない。アドバンレーシング製の、走るための機能を突き詰めた末に辿り着いたような、主張してくる金色だ。
青いボディと金ホイール。
その組み合わせは、遠目には完全に「あの伝説のスバル車」に見えた。
「おい……あれ……まさか……」
雅紀が震える声で言いかけた瞬間、マイケルが叫んだ。
「OH!! SUBARU IMPREZA SENPAI!!! 伝説のインプ先輩が現れたYO!!!」
「違う。エボⅩだ。セダンの比率がおかしいし、インプにしては雰囲気が落ち着きすぎてる」
「でも青いデスYO!! 金ホイールデスYO!!」
「それだけで伝説にするな。三菱のオーナーが泣く」
準がすでにスマホを構えていた。
「"学内に出没した伝説級インプ先輩"としてSNSに——」
「やめろ」
青いセダンは、E塔裏のど真ん中に、やけに慣れた動きで停まった。
ドアが開く。
降りてきたのは、落ち着いた服装の青年だった。
二十代半ば。パリッとしたシャツ。社会人の空気。
だが、その目つきは、明らかに「こちら側の住人」のそれだった。
「……うわ」
雅紀が小声で漏らす。
「なんか……俺たちの未来の成れの果てみたいな顔してる」
青年はE塔裏を見回した。
散乱する工具。半分開いたジャッキ。
そして、ケモ耳ステッカーを持ったまま固まっている大学生の集団。
一瞥して、深いため息をついた。
「……まだ、やってるんだ」
その一言に、全員が絶句した。
加賀が一歩前に出る。
「失礼ですが……どちら様ですか。ここは一応、自動車サークルの——」
青年は少しだけ自嘲気味に笑って、言った。
「俺?」
一拍置いて。
「S・H・Bの初代OB。高田海斗」
そして、自分の青いエボⅩを指さした。
「通称——"偽インプ先輩"」
沈黙。
三秒後、全員の声が完全に重なった。
「「「「偽物!?!?!?」」」」
「失礼すぎるだろ」
高田が即座にツッコんだ。
「違う、そういう意味じゃなくて——金ホイールに青いセダンっていう組み合わせのせいで、毎回毎回インプレッサに間違われるだけで……」
準が目を輝かせた。
「なるほど……"誤認され続ける存在性"……これは実存主義的、かつケモ耳的なアイデンティティの——」
「ケモ耳は一ミリも関係ねぇ」
高田はE塔裏を再び見回した。
呆れと、隠しきれない懐かしさが混じった、複雑な色が浮かんでいた。
「……加賀、だったか。今の部長は」
「はい。加賀練斗です。三回生で部長を……」
「そうか。……一言だけ言わせてくれ」
高田は全員を指差した。
「俺が現役だった頃より、明らかに行儀がひどくなってないか?」
間があった。
加賀が、セリカの傷ついたバンパーと準の同人誌を交互に見て、静かに答えた。
「……自覚は、あります」
「だろうな」
高田はうなずいた。
エンジンを切ったばかりの熱を帯びたエボⅩに背中を預けて、言った。
「でも安心しろ」
走り屋の先輩としての、真面目な空気が一瞬流れた。
「……俺たちの代は、今よりもっと救いようのないダメ人間(雄星とか)ばっかりだったから」
「「「「最低の安心材料やめろ!!!!!」」」」




