洗車に命を懸ける男たちの水飛沫はだいたい他人に直撃する
雲ひとつない秋晴れの土曜日、午前十時。
講義のない週末の埼玉中央総合大学は、平日の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
だが、キャンパス最奥の第6棟裏・第2駐車場には、白装束ならぬ黒ツナギに身を包み、まるでこれから古代の密儀でも執り行うかのような厳粛な面持ちで佇む男がひとり。
加賀練斗である。
その足元には、色違いの大型バケツが三つ。
横には高圧洗浄機、フォームガン、中性カーシャンプー、鉄粉除去剤、水垢取りクリーナー、純水器、そして整然と並べられた厚さの異なる十数枚のマイクロファイバークロス。
その光景を、パイプ椅子に座って缶コーヒーを飲んでいた雅紀が、ドン引きした目で見つめていた。
「……なぁ加賀。ただの洗車だよな? これから新座市内の外科手術でも始めるのか?」
「愚問だな、雅紀」
加賀は純白の洗車用ムートングローブを手にはめ、冷徹な視線を向けた。
「洗車とは、単なる汚れ落としではない。『セリカたんの柔肌を愛撫し、日頃の走行で付着した塵芥を祓い清める神聖なミサ』だ。貴様のようにガソリンスタンドの洗車機に車を放り込むような輩は、愛車を回転ブラシで公開処刑している万死に値する外道だ」
「そこまで言ってねえだろ! 洗車機くらい誰でも使うわ!」
「セリカたんのスーパーレッドⅤのクリア層に洗車傷をつけるなど言語道断。スポンジは摩擦係数が高すぎるため破棄。バケツは三層構造、グリッドガード(底引き網)を入れて砂の巻き上げを防止。さらに水は水道水ではなく、カルシウムとマグネシウムを完全除去した純水しか使わん」
「狂気だよ! なんで大学生が車洗うために純水器買ってんだよ!」
雅紀が頭を抱えていると、駐車場に乾いた足音が響いてきた。
「おはようございます、加賀先輩、雅紀先輩!」
爽やかな挨拶とともに現れたのは、細田葵人だ。
愛車の純白フィットの横に立ち、手にはなぜか先端の極細な歯ブラシと、医療用のマスキングテープを握りしめている。
「葵人……お前、その歯ブラシ何に使うんだ?」
「はい! リヤガラスのこなたちゃんステッカーの縁の洗浄です!」
葵人は眼鏡をクイと押し上げ、真剣そのものの表情で語り出した。
「洗車シャンプーの泡がステッカーの段差に溜まると、乾燥したときに白い輪ジミになって、こなたちゃんの輪郭がぼやけてしまうんです! なので、ステッカーの周囲をコンマ五ミリ単位でマスキングし、歯ブラシで毛先を使って汚れを優しくかき出します!」
「お前も別の方向で狂ってんな!!」
雅紀のツッコミが冴え渡る。
「ステッカーの輪郭のために歯医者みたいな精密作業すんな!」
「やあ、諸君。実に清々しい朝だね」
続いて、文学部トートバッグを肩にかけた鈴木準が優雅に歩み寄ってきた。
シルバーのノートNISMO Sのボディを、愛おしそうに指先で撫でる。
「昨夜の雨で、僕のノートにも細かな泥の飛沫が付着していてね。……だが、見てくれたまえ。この銀色のフェンダーに散った泥の斑点、まるで獲物を追って深い森を駆け抜けてきた若き銀狐の足跡のようだ。この荒々しい野性味、ひとつの絵画として残しておくべきか、それとも洗い流して真の毛並みの艶を取り戻すべきか……実に文学的な葛藤だよ」
「洗えよ! ただの泥だろそれは!」
雅紀はこめかみを押さえた。
「なんでこのサークルの人間は、車一台洗うだけで全員宗教儀式か現代アートを始めるんだよ!」
「ヘーーーイ! ブラザーズ! ナイス・サタデーデース!!」
その時、コンテナハウスの裏から、地鳴りのような足音とともに特大の災厄がやってきた。
アメリカ人留学生、マイケル・タナーである。
Tシャツに短パン、頭にはなぜか水中メガネを装着し、両手にはホームセンターで買ってきたとおぼしき巨大な黄色い高圧洗浄機を抱えている。
「マイケル……その格好、あとその業務用っぽい洗浄機は何だ?」
嫌な予感に顔を引きつらせる雅紀。
「オゥ! ジャパニーズ・洗車パーティーと聞いて、ホームセンターで一番ハイパワーな洗浄機をレンタルしてきたデース! 吐出圧力、なんと驚異の十五メガパスカル! アメリカンスタイル! パワー・イズ・ジャスティスデース!!」
「待てマイケル!」
加賀が血相を変えて叫んだ。
「十五メガパスカルだと!? そんな水圧、車のボディに向けたら塗装どころかバンパーの爪が吹き飛ぶぞ! 今すぐ電源を――」
「レッツ・シャワータイムデースッ!!」
マイケルが雄叫びとともにトリガーを引いた。
――ズギャギャギャギャッッッ!!
轟音とともに噴出されたのは、水流というよりウォーターカッターの奔流だった。
あまりの反動に、がっしりした体格のマイケルの腕がガクガクと激しくブレる。
そして――ホースのノズルが、暴れ馬のように宙を仰いだ。
「オゥ!? ウルトラ・リコイル! 制御不能デースッ!!」
「止めろバカァァァッ!!」
プシャァァァァァァァッッッ!!
無差別に乱射される超高圧の水飛沫。
まず最初の犠牲者となったのは、一番近くでパイプ椅子に座っていた雅紀だった。
「ぶばばばばばばっ!? 冷たっ! 痛っ! 水圧で息ができねえええええっ!!」
雅紀が椅子ごと吹っ飛んでアスファルトを転がる。
続いて水流は、葵人のフィットへと旋回した。
「いけない! こなたちゃんがッ!!」
葵人は躊躇なくダイブし、両手を広げてリヤガラスに張り付いた。
「こなたちゃんのステッカーに水圧をかけるくらいなら、僕の背中を撃ち抜いてくださいッ! ぐあっ! 痛い! でもこなたちゃんは無傷です!!」
「葵人ォォォッ!!」
さらに水煙は鈴木準へと降り注ぐ。
「しまっ……! 僕のスケッチブックが……! 新作の『マズル十五度の雪豹少女』の原稿が滲んでしまう……!」
準は華麗な身のこなしでスケッチブックを胸に抱え込み、地面にスライディングして水流を回避した。
「……危機一髪だ。芸術が水泡に帰すところだったよ」
「お前の髪の毛セットが完全にペタンコになってるぞ準!!」
そして――。
暴れるノズルから放たれた極太の水柱の余波、細かなミストのひと塊が。
加賀練斗が今朝から三時間かけて脱脂し、完璧な下地処理を終えていたセリカのボンネット中央に、ぽつん、と落下した。
ピチャ。
「…………」
空気が、凍りついた。
マイケルの高圧洗浄機が、ようやくコンセントが抜けてプスプスと沈黙する。
ずぶ濡れで倒れる雅紀。
背中を強打してフィットにへばりつく葵人。
びしょ濡れのウルフカットから滴を垂らす準。
そして、泡を吹いて笑っているマイケル。
「ハハハ! ダイナミック・ミステイクデース!」
その光景の中心で、加賀練斗がゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、光が一切なかった。
漆黒の闇の奥で、業火が静かに、しかし超新星爆発の勢いで燃え盛っていた。
「……マイケル」
「イエス?」
「貴様今……水道水の飛沫を……未硬化のコーティング被膜の上に……落としたな?」
「オーウ、ジャスト・ア・リトル・ドロップ――」
「カルシウム! マグネシウム! ケイ素の結晶化! イオンデポジット(雨ジミ)の恐怖を貴様は理解しているのかァァァァァッッッ!!」
加賀の絶叫が新座の空を突き破った。
「セリカたんの処女の如きクリア層にアルカリスケールを焼き付かせようとした大罪! 万死! 万死に値するッ! 貴様のその金髪を酸性クリーナーに浸して中和してやるゥゥゥッ!!」
「オーウ!? ケミカル・アタック!? ノープロブレムじゃないデースッ!」
加賀は手元の純水ホースを拾い上げると、ノズルをジェットモードに切り替え、猛然とマイケルへ突撃した。
激しい水合戦が勃発する。
「死ねマイケル! 純水の水圧で貴様の不浄な魂を洗い流してやる!」
「ワタシも負けないデース! バケツの水、テイク・ディスッ!」
「うわっ、こっちに飛ばすな! 俺はもう十分濡れたっつーの!」
「加賀先輩、泡立て用のフォームガンをお使いください! 弱酸性シャンプーで視界を奪えます!」
「葵人、お前どっちの味方配慮してんだよ!」
秋の陽光の下、第2駐車場は泡と水飛沫、そして男子大学生たちの意味不明な怒号が飛び交う地獄絵図と化した。
通りかかった文系学部の女子学生たちが、「うわ……6棟裏の人たち、全員ずぶ濡れで奇声あげてる……」「近づかないでおこうね……」と小走りで逃げていく。
――三十分後。
コンテナハウスの部室の中。
石油ストーブ(まだ灯油は入っていないので電気ヒーター)の前に、全員がバスタオルを頭から被り、ガタガタと震えながら並んで座っていた。
「……ず、ずびっ。……なんで俺たち、車を綺麗にするために、人間が全員低体温症になりかけてんだよ……」
雅紀が青い唇を震わせながら、温かいお茶の湯呑みを啜る。
「……フッ。だが、見ろ」
タオルを首に巻いた加賀が、窓の外を誇らしげに指差した。
そこには、秋の陽光を浴びて鏡のように輝く五台の車。
水滴ひとつ残さず拭き上げられたセリカの赤は息を呑むほど鮮やかで、隣の黒いRX-8も、シルバーのノートも、白いフィットも、深い青のレガシィも、新車のように眩しい光を放っていた。
「セリカたんの水滴接触角、百十度。完璧な超撥水だ……。苦難を乗り越えた先にあるこの輝きこそ、真の愛の証明だな」
「僕のノートも……毛並みを整えられた銀狐のように気高いよ」
「こなたちゃんのステッカーも、一切の輪ジミなく輝いています!」
「ガハハ! エブリシング・イズ・シャイニー! オール・オーケーデース!」
全員が満足げに愛車を眺める中、雅紀だけが深くため息をついた。
「……車がピカピカでも、乗ってる人間が全員風邪ひいて講義休んだら本末転倒なんだよバカどもが……」
ズズッ、と響く雅紀の鼻をすする音とともに、S・H・Bのくだらなくも輝かしい休日は、静かに更けていくのだった。




