白いローブの小柄な准教授に喧嘩を売るとボールペンが音速を超える
埼玉中央総合大学において、最も侵してはならない絶対の掟が存在する。
それは試験でのカンニングでも、学食の席取りでの割り込みでもない。
――第6棟(工学部棟)の三階、北側角部屋の研究室の半径百メートル以内で、『騒音』を撒き散らしてはならない。
「いいか全員、今日のテーマは『完全なる静寂』だ」
午後二時、6棟裏のコンテナハウス。
加賀練斗は、いつも以上に引き締まった面持ちでホワイトボードの前に立っていた。
机を囲む雅紀、準、葵人、そしてマイケルの四人は、まるで爆発物の解体現場に立ち会っているかのような緊張感で唾を呑み込んでいる。
「昨日、自治会の篠原朱音から受けた警告を忘れたわけではあるまい。現在、第6棟三階では、あの『白い死神』が今学期の査読論文を執筆中だ。もし万が一、執筆中の思考を妨げる周波数の排気音を立ててみろ。我々は部室ごと更地にされるぞ」
「わ、分かってるよ……!」
雅紀が震える手でパイプ椅子の脚を握りしめる。
「葛城准教授……あの人だけはマジで怒らせちゃダメだ。去年、中庭で奇声を上げてたテニスサークルの連中が、窓から飛んできたチョーク一本で全員眉間を撃ち抜かれて即死(気絶)したって伝説があるんだぞ……!」
埼玉中央総合大学准教授、葛城零華。
静寂と秩序を神聖視し、騒音を撒き散らす不届き者には容赦のない制裁を下す、大学側の絶対抑止力。
学内で最も恐れられている女帝の執筆期間――それが今日だった。
「安心しろ。対策は完璧だ」
加賀は自慢げに、セリカのリアマフラーのテールエンドを指差した。
「セリカたんのマフラーには、俺が徹夜で削り出した特製のアペックス・インナーサイレンサーを圧入済みだ。排気音圧は驚異の四十八デシベル。もはや高級羽毛布団の擦れ合う音と同等だ。アイドリングしても草木のざわめきにかき消される」
「僕のノートも、ECUのマップを弄ってアイドリング時の燃料噴射量を極限まで絞ってあるよ」
準がスケッチブックの端を静かにめくりながら頷く。
「音を立てずに獲物に忍び寄るユキヒョウの如き静粛性だ。美しき毛皮の獣たちは、いつだって無音の中にこそ気高さを宿すからね」
「僕のフィットも大丈夫です!」
葵人が胸を張る。
「こなたちゃんの目覚まし時計のアラーム機能は完全にOFFにしてあります! 車内からの音漏れゼロです!」
「よし、全員素晴らしい危機管理意識だ」
加賀が満足げに頷いた、その時だった。
「ヘーイ! ガイッズ! ルック・アット・ディス!」
呑気極まりないハスキーボイスとともに、マイケルがポケットから銀色に光る小さなリモコンを取り出した。
「マイケル……? お前、それ何持ってるんだ……?」
雅紀の心配性センサーが、けたたましく警報を鳴らし始める。
「オゥ! ワタシ、AliExpressで超グレイトなパーツをゲットしたデース! 『ワイヤレス排気可変バルブシステム』! このリモコンのボタンをワンプッシュするだけで、マフラーのバルブがオープン&クローズ! サイレントモードと爆音モードを瞬時にスイッチできるハイテク・ガジェットデース!」
「待てマイケル」
加賀の顔色が変わった。
「まさかお前、それをレガシィの配線に噛ませたのか? 中華製のリモコン回路はノイズ耐性が極端に低い。電波の誤作動で――」
「ノープロブレム! さっきアパートでテストしたときはパーフェクトだったデース! 今、サイレントモードのテストを――」
カチッ。
マイケルの親指が、軽快にリモコンの『Aボタン』を押し込んだ。
バチンッ! ブススス……ドバババババババッッッ!!
プシャァァァァァァァンッッ!!
突如として、第2駐車場に停められたレガシィの柿本改マフラーから、アフターファイアの破裂音とともに、大気開放ブローオフの絶叫が炸裂した。
可変バルブが全開のまま固着し、ECUが誤作動を起こして二千五百回転で猛烈なアイドリングを始めたのだ。
「「「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」」」
雅紀、加賀、準、葵人の四人が同時に絶叫した。
「マイケル貴様ァァァッ! 何がサイレントだ! 全開固定になってるだろうがァァッ!」
「オゥ!? クローズボタンがノー・リアクション! 電波がスタックしたデース!?」
「切れ! 今すぐレガシィのキーを捻ってエンジンを――」
加賀が叫びかけた、その瞬間。
キィィィィィィィィン……。
空気が、凍りついた。
第6棟の三階、北側の窓が、音もなくスルスルと横へスライドした。
開かれた暗がりの中に、揺れるソニックグレーの長い髪。
羽織っているのは、自分の身体よりも二回りは大きな、袖の長い真っ白なローブ。
華奢な肩、小さな体躯。どう見ても高校生、下手をすれば中学生にしか見えないあどけない容貌の少女――だが、その瞳に宿る光は、絶対零度の氷河そのものだった。
「ひ……」
雅紀の喉から、空気の抜けるような悲鳴が漏れた。
「で、出たァァァァッ……! 白い死神……葛城准教授だァァァッ!!」
三階の窓辺に立つ葛城零華は、一切の表情を変えずに、ダボダボのローブの袖からスッと右手を伸ばした。
その指先に握られていたのは、一本の三菱鉛筆・ジェットストリーム四色ボールペン(0.7mm)。
ピュッ。
風を裂く鋭利な音が鼓膜を打った。
直後――。
ドゴォォォォォンッ!!
「オゥッ!?」
マイケルの真横、レガシィのフロントフェンダーのわずか数ミリ外側のアスファルトに、ボールペンが根元まで深々と突き刺さっていた。アスファルトに走る放射状の亀裂。
「な、投げ槍の威力だよそれぇぇぇぇっ!?」
雅紀が頭を抱えて地面にひれ伏す。
「ボールペンがアスファルトに突き刺さるわけねえだろ! どんな初速だ! どんな質量保存の法則を無視してんだよォォッ!」
「……散開しろ」
加賀が冷や汗を流しながら低く告げた。
「狙いは正確だ。次の一撃は、マイケルの頭蓋骨か、レガシィのインタークーラーを撃ち抜く」
だが、逃げる間もなかった。
パタパタパタ……と、頼りないスリッパの足音が階段を降りてくるのが聞こえたかと思うと、第6棟の非常口の扉が開き、白いローブをまとった葛城零華が姿を現した。
間近で見ると、本当に小さい。百五十センチにも満たない身長に、透き通るような白い肌。
とても大学で教鞭を執り、学会で恐れられる准教授には見えない。
「……うるさい」
零華の口から零れたのは、鈴の音のように澄んだ、しかし底知れぬ圧力を秘めた美声だった。
「私の思考ルーチンが、今の低周波振動によって〇・八秒停止した。……〇・八秒あれば、査読論文のアブストラクト(要約)が一行書けた」
「ア、アイ・アム・ソーリー……!」
さすがのマイケルも、殺気配分がおかしい小柄な女性を前に直立不動でガタガタと震えている。
「ワタシ、可変バルブのテストを……」
「言い訳は不要」
零華の紫がかった瞳がスッと細められた。
「……またあなたたちね、S・H・B。高田海斗が卒業して、ようやくこのキャンパスに知性と静寂が戻ると思っていたのに。後輩の知能指数まで退行しているとは思わなかった」
(高田先輩の名前が出たァァァッ!)
雅紀の脳裏に、かつて葛城先生の投擲ペンをノールックで躱し続けたという伝説のOBの顔がよぎる。しかし今のS・H・Bに、そんな神業を使える人間はいない。
「今すぐその青いワゴンをスクラップ工場へ持っていきなさい。二度とこの敷地内に音波を撒き散らせないよう、コンテナハウスごとプレス機でキューブ状に圧縮してあげてもいいけれど?」
「じゅ、准教授、お待ちください」
絶対絶命の空気を切り裂いて、加賀練斗が一歩前に進み出た。
加賀は動じることなく、背後に隠し持っていた紙袋を両手で恭しく差し出した。
「今回の騒音トラブル、我々の整備上の不備であり、弁解の余地もございません。……つきましては、研究を中断させてしまったお詫びとして、こちらを納めさせていただきたく存じます」
「……何それ。物で私の機嫌を取れると思っているの? 愚劣な――」
冷徹に言い放ちかけた零華の視線が、紙袋の隙間から覗いた一本の瓶のラベルに吸い寄せられた。
厳かな和紙に墨文字で書かれた銘柄――鹿児島県産・本格芋焼酎『魔王』。
「…………っ」
零華のソニックグレーの髪が、ピクッと跳ねた。
「これ……どこで手に入れたの」
「機械工学部のOBが経営する酒販ルートから正規に取り寄せました」
加賀は完璧なビジネスマンの如き無表情で畳み掛ける。
「先生が先週末、大学近くのスーパーの酒売り場において、レジ打ちの店員から『お客様、失礼ですが身分証明書はお持ちですか?』と年齢確認を求められ、財布を研究室に忘れていたがために購入を断念されたという情報を入手いたしましたので」
ピキッ。
零華の陶器のような額に、鮮やかな青筋が浮かんだ。
白いローブの裾がワナワナと震える。
「……だ、誰が未成年ですか。……私は三十路手前の立派な研究者。身分証を忘れたのは、ただのポカミス……」
「重々承知しております。この『魔王』、ロックでもお湯割りでも極上のまろやかさを誇ります。今夜の論文執筆のお供に、ぜひ」
沈黙が流れた。
秋風が吹き抜け、地面に突き刺さったジェットストリームが微かに揺れる。
零華はジトッとした目で加賀を睨みつけ、それから素早い手つきで紙袋を奪い取ると、大きなローブの袖の中にスッポリと隠した。
「……今回の騒音は、突発的な機材故障による不可抗力と認定する」
「寛大なご処置、痛み入ります」
「ただし」
零華はクルリと背を向け、スリッパをパタパタと鳴らしながら非常口へと歩き出す。
そしてドアに手をかけたところで、冷ややかに首だけを振り返った。
「次に私の聴覚を汚したら、その赤いセリカを真っ二つにへし折って、ロシア行きのコンテナに詰め込んであげるから。……肝に銘じなさい」
バタン。
非常口の重い鉄扉が閉まり、絶対零度のプレッシャーが霧散した。
「た、助かったぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!」
雅紀がその場に崩れ落ち、アスファルトに大の字になった。
「死ぬかと思った……! 加賀、お前マジで命の恩人だよ……! ていうか葛城先生、あんな見た目で焼酎党なのかよ!?」
「合理的判断だ」
加賀はセリカのボディを愛おしそうに撫でながら、何食わぬ顔で言った。
「対象の弱点と嗜好をリサーチし、最適なリソースを投入して破滅を回避する。これもまた工学的なアプローチの一環に過ぎん。……だがマイケル」
「イ、イエス……!」
「その怪しげな可変バルブのリモコン、今すぐハンマーで粉砕しろ。セリカたんを二分割されてたまるか」
「アイ・アム・ソーリー! ノープロブレムじゃなかったデース!!」
遠く第6棟の三階から、酒瓶の包み紙をカサカサと開けるような微かな気配を感じつつ、S・H・Bの面々は胸を撫で下ろした。
埼玉中央総合大学の絶対抑止力――その恐ろしさと、ほんの少しの人間臭さが、6棟裏の歴史に刻まれた午後だった。




