姉という生き物は弟のプライベートスペースに土足で踏み込んでくるようにプログラムされている
埼玉中央総合大学・6棟裏。
西日が傾きかけたコンテナハウスの部室には、いつものように怠惰で平和な時間が流れていた。
「ふう……昨日は呉の親父さんに死ぬほど怒鳴られたけど、マイケルのレガシィも直ったし、アライメントも取ってもらえたし、平和って素晴らしいな……」
パイプ椅子に深く腰掛けた一ノ宮雅紀が、心底幸せそうに温かい缶ココアを啜る。
机を挟んだ向かいでは、細田葵人が泉こなたのアクリルスタンドを専用のクロスで丁寧に磨き上げ、鈴木準はスケッチブックに「狼の耳の内側に密集する房毛の陰影」を鉛筆で描き込み、マイケルはコンビニのファミチキを幸せそうに頬張っていた。
そしてサークル長の加賀練斗は、愛車セリカのダッシュボード用の保護艶出し剤の成分表を、まるで聖書のように熟読している。
誰の邪魔も入らない、愛車を愛する男たちの聖域――。
だが、その平穏は、コンテナハウスの薄い鉄扉が爆音とともに蹴破られたことで、無残にも粉々に打ち砕かれた。
ドガァァァァァンッ!!
「開けなさーーーーいッ!! 大学自治会治安維持部隊の抜き打ち監査よォッ!!」
秋の冷気を切り裂いて飛び込んできたのは、怒号と、シャネルの香水の匂い。
肩まで届く艶やかな黒髪ロングに、やや厚めの前髪。腕には『自治会・風紀治安維持』の腕章を巻き、手にはブランド物のレザートートを提げた長身の美女――社会学部四年、一ノ宮舞花。
そしてその背後には、淡々とした足取りで、手帳とデジタル騒音計を抱えた赤髪セミロングの女子学生が滑り込んできた。社会学部二年、篠原朱音。
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!? ね、姉ぢゃんんんんんっ!?」
雅紀の手から缶ココアが滑り落ち、机の上で激しくスピンした。
雅紀は脱兎の如く机の下へダイブしようとしたが、その襟首を舞花の細く、しかし万力のような握力の指先がガッチリと捕獲した。
「逃げるんじゃないわよ愚弟ィッ!!」
「痛い痛い痛い! 首絞まる! 頚動脈が逝く! 死ぬ死ぬ死ぬ!!」
「アンタねえ! 今日の五限、社会学原論の講義をブッチしてこんな吹き溜まりで油売ってんじゃないでしょうね!? 今期の単位落としたら、アンタの部屋に転がってる埃まみれの粗大ゴミ……あのジャンクアンプ、全部メルカリで最低価格の三百円で叩き売るって言ったわよね!?」
「サボってない! 今日五限休講なんだよ! 掲示板見てくれよ! あとメルカリはやめて! あのアンプは八〇年代のサンスイの幻の名機なんだぁぁぁっ!!」
取り乱して喚く雅紀の姿を、赤髪の篠原朱音は感情の読めない茶色の瞳で見つめながら、シャープペンシルを手帳に走らせた。
「……一ノ宮先輩、取り乱しすぎ。本題に入って」
「あ、そうだったわ」
舞花はコホンとわざとらしく咳払いをし、雅紀の襟首をポイと放り捨てると、部室の奥に陣取る加賀練斗をキッと睨みつけた。
「加賀練斗! アンタたちS・H・Bに、今月だけで近隣住民および工学部事務課から計十二件の騒音苦情が届いてるのよ! 特に昨日の夕方、第2駐車場で違和感のある排気音を響かせてたっていう目撃情報があるわ! 言い逃れはさせないわよ!」
「心外ですね、一ノ宮先輩」
加賀は読書をやめず、眼鏡もかけていないのにインテリ風の冷徹な流し目を向けた。
「昨日の夕方、我々が行っていたのはアイドリング状態における排気流速の測定および、吸気系トラブルの緊急整備です。空吹かしなどという下品な行為は一切しておりません。音圧レベルも環境省の定める規制値の範囲内。言いがかりも甚だしい」
「うるさいわね理屈倒れの機械オタク! アンタのその真っ赤なセリカ、昨日も新座バイパスで目撃情報が出てるのよ! ウェーバースポーツのド派手なエアロにデカいGTウィング! あんな目立つ車、新座市内でアンタ以外に乗ってる奴がいるわけないでしょ!」
「当然です。セリカたんの美しさは十キロ先からでも視認可能ですから。目立たないほうが物理的に不可能です」
「自慢してんじゃないわよバカ!」
舞花の血管が額に浮き出る横で、朱音がスッと前に出た。
朱音は手帳のページを淡々とめくりながら、部室の窓から駐車場に並ぶ四台を冷静に観察する。
「……日産ノート、NISMO S。マフラー、HKS製。JASMA認定プレート刻印あり、保安基準適合。……ホンダ・フィット、ingsエアロ装着。ダッシュボード中央に美少女キャラクターフィギュア設置。前方視界基準、コンマ数ミリ単位でセーフ」
「あ、篠原さん! こんにちは!」
葵人が人懐っこい笑顔で手を振る。
「前方視界、ちゃんと道路運送車両法を調べて車検対応の範囲に収めてあるので安心してください!」
「……細田君。視界はセーフだけど、急ブレーキ踏んだら助手席のこなたちゃんが飛んできてフロントガラス割る。固定具の強度、再確認して」
「はい! 耐震ゲルマットを三層にしておきます!」
「話が通じてるのか通じてないのか分からないわねこの後輩は……」
舞花が頭痛を堪えるように眉間を押さえた。
「オーウ! ビューティフルなレディたち、ウェルカムデース!」
そこで空気を読まずに立ち上がったのはマイケルだ。満面の笑みで胸を張る。
「シスター舞花! 怒ったフェイスもハリウッド・スターのようにエキゾチックでファンタスティックデース!」
「アンタねえ! 留学生枠だからって手加減しないわよ! ……まあ、その褒め言葉自体は悪くないけど」
「……先輩、お世辞に絆されないで。次、スバル・レガシィ」
朱音が冷ややかに舞花の脇腹を小突いた。
「……オイルパン破損による路面汚染の痕跡。ただし、油吸着剤とパーツクリーナーによる洗浄跡あり。処理は適切。路面への恒久的なダメージは認められない」
「……チッ。アンタたち、バカの集まりのくせに、こういう法規と後始末だけは無駄に完璧なのよね……だから余計にイラつくのよ!」
悔しそうに舌打ちする舞花。
そこへ、スケッチブックを抱えた鈴木準が、静かに歩み寄った。
「一ノ宮先輩。お怒りのところ誠に恐縮ですが、先輩のその黒髪の毛先の跳ね具合、実に野性味に溢れていて素晴らしいですね。まるで獲物を威嚇する雌豹のようなしなやかさだ。もしよろしければ、先輩をモデルにして――」
「アンタのその気持ち悪いスケッチブック、今すぐシュレッダーにかけて大学の中庭に撒き散らすわよ!?」
「それは困るね。僕の魂の結晶だからね」
準は涼しい顔でスケッチブックを胸に抱え込み、一歩下がった。
「もういい! 全員まとめてお説教よ!」
舞花がドカッとパイプ椅子を引き、乱暴に座り込んだ。
そして、持っていたブランド物のトートバッグから、一束の書類を取り出して机の上に叩きつけた。
「……これを見なさい」
「えっ……?」
机の下から恐る恐る這い出てきた雅紀が、書類を覗き込む。
そこには、太字でこう印字されていた。
『第6棟裏付属施設使用許可取り消しおよび撤去勧告について』
「ひっ……!? た、退去勧告!? 俺たちの部室が取り壊される!?」
「落ち着け愚弟」
舞花はフンと鼻を鳴らした。
「よく見なさい。その書類の一番下」
雅紀が視線を落とすと、書類の最下部、工学部事務長の押印欄の上に、朱色のマジックででかでかと**『自治会預かり・保留』**のスタンプが押されていた。
「……え? 保留?」
「……一ノ宮先輩が、事務課に怒鳴り込んで差し戻した」
朱音が、淡々とした口調で補足を入れる。
「葛城准教授が本気で激怒しかけてた。マフラーの騒音を理由に、今週中にもコンテナを撤去する手続きが進んでたのを、一ノ宮先輩が『学生の自主的な課外活動を一方的に排除するのは大学自治の精神に反する』って、二時間粘って事務課を論破した」
「姉ちゃん……!」
雅紀の瞳が潤んだ。
「お前……あんなに俺たちのこと目の敵にしてたのに、裏で守ってくれてたのか……!?」
「か、勘違いしないでよね!!」
舞花はバッと顔を真っ赤にして立ち上がった。
「アンタたちの味方をしたわけじゃないわよ! ただ、今のこの大学、真面目すぎて何考えてるか分からない死んだ魚みたいな学生ばっかりじゃない! アンタたちみたいなバカ騒ぎする連中が少しはいないと、キャンパスの活気が死ぬのよ! ……それに、雅紀が高校のときみたいに部屋に引きこもらず、毎日楽しそうに大学通ってんの……ここがあるからでしょ」
「姉ちゃん……やっぱり最高の姉貴だよ……!」
「だから!!」
舞花はギラリと瞳を輝かせ、雅紀の顔面すれすれに人差し指を突きつけた。
「その借りを返しなさい。今度の日曜日、朝九時集合。アタシのショッピングに一日中付き合いなさい。場所は越谷レイクタウン。荷物持ちと、買い漁った戦利品を運ぶトランスポーター役よ! もちろんガソリン代と高速代はアンタ持ちね!」
「やっぱりタダじゃねええええええええッ!!」
雅紀の絶望の悲鳴がコンテナハウスに響き渡った。
「レイクタウンだとォォォッ!? あの広大なモールで姉ちゃんの爆買いに付き合わされたら足の骨が折れる! それにエイトはトランクが狭いんだよ! タイヤ二本分くらいしか荷物載らないんだよォォッ!」
「知るか! 載らないなら屋根に縛り付けなさい! 遅刻したらアンタのエイトのマツダスピード風バンパー、バールで引っ剥がしてフリマに出すからね!」
「ヒィィィィッ!!」
「……任務完了。撤退する」
朱音は手帳をパチンと閉じると、部室のドアへ向かった。
去り際、朱音は加賀に向き直り、静かに告げた。
「加賀先輩。今回は先輩(舞花)が止めたけど、葛城先生のデシベルメーター、次は本当に振り切れる。……特にあの先生、お酒が入っていない昼間は容赦ないから。気をつけて」
「忠告感謝します、篠原。一ノ宮先輩、日曜日の荷物運び、セリカたんの助手席をお貸ししましょうか?」
「アンタの車なんかに乗ったら『息をするな』『埃を落とすな』って説教されるに決まってんでしょ! 絶対乗らないわよ! じゃあね雅紀、日曜九時! 一分でも遅れたら殺す!」
バタンッ!!
再びドアが吹き飛ぶような音を立てて閉まり、嵐のような二人は去っていった。
静まり返った部室の床に、雅紀が魂の抜けた抜け殻のように倒れ込んでいる。
「終わった……俺の日曜日が……俺のバイト代が……」
「安心しろ雅紀」
加賀が缶コーヒーのプルタブを静かに開け、哀れな副部長を見下ろした。
「姉貴の物欲を満たすことでS・H・Bの部室が存続するなら、極めて安価な防衛コストだ。お前の犠牲はセリカたんの歴史に深く刻まれるだろう」
「他人事みたいに言うなァァァッ!!」
天敵の厳しい監視と、不器用な庇護。
埼玉中央総合大学の片隅で、S・H・Bの奇妙なバランスの日常は、今日もギリギリのところで保たれていた。




