アルミのネジ山を舐めるやつは人生の厳しさも舐めている
埼玉県新座市の外れ。
青々としたキャベツ畑と、大型トラックが行き交う抜け道が交差する街道沿いに、トタン屋根の整備工場が佇んでいる。
看板には、煤けた赤文字で『呉自動車整備工場』。
車検から重整備、果ては深夜の峠で足回りを曲げた走り屋たちの駆け込み寺まで引き受ける、S・H・Bの技術的・精神的バックボーンである。
「バッカ野郎がァァァァッ!!」
工場のピット内に、雷鳴のような怒声が轟き渡った。
響き渡る声の主は、油染みのついた青いツナギを着た小柄な壮年男性。
ダブルブリッジの無骨な眼鏡の奥から、鋭い眼光を飛ばしている。この工場のオーナー兼ベテラン整備士、呉福造だ。
「どこのどいつだァッ! アルミのオイルパン相手にゴリラの怪力でレンチ回した大馬鹿野郎は!!」
「オゥ! ワタシデース! ノープロブレム!」
「ノープロブレムじゃねえッ!!」
リフトアップされた濃紺のレガシィの下で、呉の手にしたメガネレンチがマイケルの額へ正確無比なツッコミとして振り下ろされた(寸前で止まった)。
「見ろこのネジ山を! 綺麗サッパリ削れてアルミの粉になってんだろうが! ドレンボルトは締めるもんじゃねえ、『座面を密着させる』もんだって教習所で習わなかったのかアメリカン!」
「オゥ、ワタシのハートがパッションでタイトだったデース……」
「知るかお前のパッションなんぞ! 車への愛はな、締め付けトルクの繊細さに宿るんだよ! ボルト一本満足に締められねえやつが『JDM最高』だのブローオフ鳴らして走るんじゃねえ、三輪車からやり直せ!」
呉のマシンガンのような説教に、ピットの隅で見ていた雅紀がヒッと肩を竦める。
「うわぁ……やっぱり呉の親父さん、ブチギレてるよ……。俺のエイトのクラッチ異音のときも二時間説教されたもんなぁ……」
「だが、言っていることは百パーセント正論だ」
加賀練斗はセリカに寄りかかり、腕を組んで頷いた。
「締め付けトルクを軽視する輩は、いつか高速道路でホイールナットを吹き飛ばしてガードレールに突き刺さる。呉さんの怒りは安全に対する至極まっとうな職人倫理だ。……まあ、口調の治安は最悪だがな」
ピットの奥には、呉の愛車であるチャンピオンイエローのスズキ・スイフトスポーツ(ZC32S)が、埃ひとつない極上のコンディションで鎮座している。
ロッソモデロのマフラーに、クスコの1.5way LSD。一見すると実用的なコンパクトカーだが、中身は完全にベテランの職人が仕立て上げた戦闘機だ。
「やあやあ、相変わらずいい声が出ていますね呉さん。街道沿いまで怒号が響いていましたよ」
軽やかな笑い声とともに、ピットの外に一台の赤いハッチバックが滑り込んできた。
三菱・コルトラリーアート バージョンR。
真っ赤なボディにエンケイのRPF1ホイールを履かせ、乾いたターボサウンドを響かせて降りてきたのは、黒髪のスパイキーショートに角ばった顔立ちの青年――ではなく、この大学の教員だった。
「お疲れ様です、大宮先生」
葵人がペコリと頭を下げる。
文学部准教授にして、S・H・Bの顧問(という名の公認隠れ蓑)を務める大宮涼真である。
「大宮先生……」
鈴木準がジト目を向けた。
「先生、今日の三限、文学部の『近現代日本文学演習』の講義がありましたよね? なぜ休講の通知を出してこんなところにいるんですか」
「すっぽかしたんじゃないよ鈴木君。あれは『自主研究のためのフィールドワーク』だ」
「平日の昼間に自分の車のオイル交換に来ることを、学術の世界ではフィールドワークとは呼ばないんですよ」
雅紀が間髪入れずに突っ込む。
大宮は悪びれもせず、胸ポケットから手帳を取り出して広げた。
「いいかい諸君。近現代文学における疾走感と葛藤は、内燃機関の過渡特性と極めて密接にリンクしているんだ。特に一九九〇年代、世界ラリー選手権(WRC)においてトミ・マキネンが駆ったランサーエボリューションの軌跡! あのターボラグをねじ伏せて四輪で大地を掴むトラクションのドラマツルギーこそが、現代人に必要な――」
「おい大宮」
呉が、油まみれの軍手を大宮の鼻先に突きつけた。
「お前は大学のセンセイだろうが! 学生に無茶な走り屋理論を吹き込んでどうすんだ! だいたい三菱三菱うるせえんだよ! スズキのテンロク自然吸気エンジンの、あの素直で淀みないレスポンスを見習え!」
「いや呉さん、自然吸気も素晴らしいですが、過給圧がかかった瞬間に背中を蹴飛ばされるあの暴力的な加速Gこそが人生の起爆剤ですよ。葵人君、君もそう思うだろう?」
「はい! でも僕としては、NAの高回転域……VTECのカムが切り替わって、泉こなたちゃんが『らき☆すた』のOPで全速力でダンスを踊り狂っているようなあの解放感も捨てがたいです!」
「誰も大人の会話をしてねえ!!」
雅紀の絶叫が工場内に反響する。
文学部准教授はラリーに狂い、工場の親父は説教が止まらず、後輩は美少女アニメをエンジンの弁機構に重ねて熱弁している。まともな人間が一人もいない。
「……呉さん」
不毛な論争を完全に無視し、加賀が整備台の工具箱の前に歩み出た。
「マイケルのオイルパン、下穴の径からしてM14のピッチ1.5でヘリサートを挿入するのが最短ですね。リコイルキットとタップ、あと切り粉を掃除するパーツクリーナーを貸してください。下準備は俺がやります」
「……チッ」
呉は乱暴に頭を掻き、棚から専用の工具ケースを放り投げた。
「加賀、お前は相変わらず話が早くて助かるぜ。おいアメリカン! 加賀に缶コーヒー百本奢れよ! あと大宮、お前はウチに油売りに来る暇があったら、大学本部に提出するサークルの活動報告書をさっさと通してこい!」
「おや、活動報告書ならもう提出しましたよ。『自動車工学および安全運転に関する実証的地域研究』という名目でね」
「通り抜けるわけねえだろそんなペテン!!」
雅紀が青ざめた。
「通るさ。現に去年も通った」
大宮は不敵に笑う。
「もっとも、学内を徘徊している社会学部の治安維持部隊……一ノ宮君、君のお姉さんだったね。彼女と、あとは葛城先生に見つからなければ、だがね」
ピクッ、と大宮の肩が不自然に跳ねた。
「葛城准教授……あの人はまずい。先週、私のコルトのマフラーの音に気付いて、研究室の三階の窓からボールペンを投げてきましてね。ドアミラーの付け根を正確に撃ち抜かれましたよ」
「ヒィィッ! やっぱりあの人人間じゃねえ!!」
雅紀がガタガタと震え出す。
そんな騒動の横で、加賀の的確なサポートと呉の熟練の職人技により、レガシィのオイルパンのネジ山は見事に修復された。
新しいドレンワッシャーを噛ませ、トルクレンチが『カチッ』と心地よい音を響かせる。
「ほらよ、直ったぞマイケル。漏れテストも完了だ」
「オーウ! アンビリーバブル! 完璧デース!」
マイケルが青い目を輝かせ、呉の手を両手でぶんぶんと握りしめた。
「ミスター・クレ! ユー・アー・リアル・ジャパニーズ・マイスター! ワタシ、感動デース!」
「……ふん、大げさなんだよ」
呉は照れ隠しのように顔を背け、タバコに火をつけた。
「いいか、次にここに来るときは壊す前だ。定期メンテで来い。……あと、そこのロータリー乗り」
「ひぇっ、俺!?」
ビクッと直立不動になる雅紀。
「お前のエイト、リアのトー角が微妙に狂ってるぞ。近いうちアライメント取ってやるから、金握りしめて持ってこい」
「……! は、はいっ! ありがとうございます!」
口は悪く、小言は果てしないが、若者たちの愛車と安全を誰よりも気にかけている頑固オヤジ。
そして、適当そうに見えて大学の裏で彼らの居場所を必死に守っている問題児の准教授。
「さあ諸君」
大宮がコルトのキーを回し、窓から顔を出した。
「直ったことだし、夕方の新座バイパスを軽く流して帰るとしようか。制限速度プラスマイナスゼロ、ラリーのリエゾン区間のようにジェントルにな」
「先生、プラスマイナスゼロはただの法定速度です」
加賀の冷静なツッコミを背に受けながら、赤、青、白、シルバー、黒の五台が、呉自動車のピットを後にした。
埼玉中央総合大学『S・H・B』――。
呆れるほど頼もしい大人たちを巻き込みながら、その活動の輪は、確実にキャンパスの枠をはみ出し始めていた。




