ハイオクガソリンと学食の定食を天秤にかける男に未来はない
正午を告げるチャイムがキャンパスに響き渡ると同時に、埼玉中央総合大学・第10棟(学生会館)は、空腹を抱えた数千人の学生たちでごった返す。
普段ならば、油と排気ガスの匂いが染み付いた6棟裏のコンテナハウスから一歩も出ないはずのS・H・Bの面々が、今日は珍しく、この学内ヒエラルキーの頂点たる学生食堂のテーブルに集結していた。
理由は単純。
今朝、部室の旧式電気ケトルがショートして火花を散らし、唯一の生命線だったカップラーメンの供給が断たれたからである。
「ああ……温かい飯だ……。席に座って、冷房(暖房)が効いてて、プラスチックのトレイに乗った湯気立つ定食を食う……これこそが文明人の生活だよ……」
日替わりA定食(チキンカツ・五百五十円)を前に、一ノ宮雅紀が感涙にむせんでいた。
机を囲むメンバーの昼食も、それぞれ強烈な個性を放っている。
「加賀先輩、雅紀先輩! うちの母が持たせてくれた実家の新米おにぎりと、自家製味噌の豚汁です! よかったら一個どうぞ!」
細田葵人は、農家の恵みがこれでもかと詰まった三段重の特大弁当を広げ、爽やかに笑っている。具材はもちろん、朝採れの野菜がぎっしりだ。
「ありがとう葵人君。……ところで僕のこのクロワッサンだがね」
鈴木準は購買のパンを優雅にちぎり、灰色の瞳を細めた。
「幾重にも織り込まれたバターの層、そして表面の繊細な焼き目。まるで極寒のツンドラを生き抜くホッキョクギツネの二重毛の空気層を彷彿とさせるよ。舌の上でほどける刹那の儚さ……実に文学的だ」
「頼むからパンの感想に毛皮を混ぜるな」
雅紀が即座に突っ込む。
「ヘーーイ! ワタシのランチもワンダフルデース!」
マイケルがコンビニのレジ袋から取り出したのは、大量の菓子パンと調理パン。
「チャイワット師匠の店で『消費期限あと二十分』のシールが貼られたパンをオールハーフプライス(半額)でゲットしてきたデース! 浮いたマネーは全部ハイオクガソリンにトランスファー! エコノミー&エキサイティングデース!」
「チャイワットのコンビニの在庫処分係になってんじゃねえか……」
呆れる雅紀。
だが――最も常軌を逸していたのは、サークル長たる加賀練斗のトレイだった。
そこに乗っていたのは、学食の無料の給水機から汲んできた水を入れたコップと、銀色のアルミ包装が一本だけ。
大塚製薬のカロリーメイト(フルーツ味・二本入り)。以上である。
「……おい加賀」
雅紀が恐る恐る口を開いた。
「お前、昼飯それだけか? 昨日の洗車で体温奪われて頭のネジまで吹き飛んだのか?」
「愚問だな、雅紀」
加賀はカロリーメイトを機械のように正確な等間隔でサクッと齧り、無機質な視線を向けた。
「学食の日替わり定食、五百五十円。この金額を新座市内のエネオスのハイオク単価で除算すれば、約三・〇五リッターのガソリンに相当する」
「……は?」
「セリカたんの高速巡航燃費はリッター約十二キロ。すなわち定食を一食我慢すれば、セリカたんは新座から川越の蔵造りの街並みまでを往復できるエネルギーを獲得できるのだ。俺の胃袋に無駄な脂質と糖質を放り込むより、セリカたんの燃料タンクを満たす方が、工学的・熱力学的に圧倒的優位性を持つ。極めて合理的な判断だ」
「人間をやめるなァァァァァッ!!」
雅紀の絶叫が学食の片隅に響き渡った。
「なんだよ熱力学的優位性って! お前が餓死したらセリカを運転するやつがいなくなるだろ! 葵人、お前の巨大おにぎりをこいつの口に無理やりねじ込め!」
「はい! 母の作ったシャケ昆布です、加賀先輩どうぞ!」
「断る。咀嚼筋を無駄に動かすエネルギーすらセリカたんのステアリング操作のために温存したい」
「そこまで行くとただの重症患者だよ!!」
周囲のテーブルでは、他学部の男女グループが「今度の週末、レンタカー借りて海行かない?」「いいねー、夕日見たい!」などとキラキラしたリア充トークを繰り広げている。
その華やかな空気と、自分たちのテーブルの重油まみれの男臭さの落差に、雅紀は深くため息をついた。
「……はぁ。俺たち、これでいいのかなぁ。キャンパスライフの貴重な三年生の秋だぞ? 周りを見てみろよ。みんなサークル仲間で恋バナとか週末のドライブデートの計画立てて楽しそうにしてるのに、俺たちときたら……」
「ドライブデート?」
加賀が怪訝そうに眉を寄せた。
「助手席に人間を乗せることによる重量増(約五十キログラム)は、車両の前後重量配分を狂わせ、コーナーリング時のロール角を増大させ、制動距離を確実に延ばす。無駄なバラスト(死重)を積んで走行性能を低下させる行為に、一体何の情緒があるというのだ」
「ロマンスをバラストって呼ぶな!!」
雅紀が頭を抱える。
「葵人君、君はどうだい? 若いのだから、同世代の異性との交流に興味はないのかい?」
準が問いかけると、葵人は口元にご飯粒をつけたまま、きょとんとした。
「えっ? 僕ですか? 僕は土日は実家のキャベツの収穫がありますし、夜は『らき☆すた』の全話一挙放送がありますし、月曜の講義前にはVTECのオイル量をゲージで測らなきゃいけないので、人間の女の子と喋ってる時間はちょっと取れないですね!」
「爽やかに救いようのない回答を返すな!!」
「マイケルは……聞くまでもないか」
「オーウ! ワタシ、アメリカにいた頃はハイスクールのプロムでダンシングしたデース! でも日本の首都高のC1ルーレット族の動画を見た瞬間、すべてのガールフレンドの記憶がオーバーヒートして消去されたデース! JDMイズ・マイ・ワイフ!」
「全員手遅れだ……! このサークル、一人残らず社会復帰不可能な車狂いしかいねえ……!」
雅紀が絶望していると、ふと準が、冷水を一口含んだ加賀を見つめて言った。
「ところで加賀君。君のセリカへの偏愛はもはや周知の事実だが……君自身のプライベートについては、僕たちもほとんど知らないね。君にも、家族や血縁者との人間的な営みはあるのかい?」
「……なんだ藪から棒に」
加賀の箸――ではなくカロリーメイトを持つ手が、ピクリと止まった。
「いや、気になってな」
雅紀が身を乗り出す。
「お前、実家暮らしだろ? 普段セリカ弄る以外、家で何してんの? 親御さんとかに怒られないわけ?」
「……親は放任主義だ。ただ……」
加賀は珍しく、苦虫を噛み潰したような顔で視線を逸らした。
「厄介な案件なら、まさに今週末に控えている」
「「えっ?」」
雅紀と葵人の声が揃った。
「厄介な案件って、なんだよ? まさかセリカのローンが焦げ付いたとか!?」
「違う。……従姉妹が来る」
「「い、従姉妹!?」」
雅紀の目がカッと見開かれた。
「従姉妹って……女の子か!? 同年代か!? 女子大生か!?」
「歳はひとつ下だ。だが、お前が想像しているような華やかな話では断じてない」
加賀は深くため息をつき、頭を抱えた。普段の冷徹な彼からは想像もつかない疲労の色が滲み出ている。
「名前は莉々(リリ)という。……極度の人見知りだ。初対面の人間や慣れない環境に放り込まれると、借りてきた猫どころかフリーズしたWindows95のようになる。家族や俺以外の前では、蚊の鳴くような声すら出せん」
「へぇ……極度の人見知り……」
準の瞳が、獲物を見つけた猛禽のようにキラリと光った。
「警戒心の強い野生のフェネックの幼獣のようだね。実に庇護欲をそそる生態だ。耳と尻尾を生やしたら素晴らしいデッサンモデルになりそう――」
「準、貴様が半径十メートル以内に近づいたらセリカの牽引フックで絞殺するからな」
「冗談だよ」
「で、その従姉妹がどうしたんだよ?」雅紀が尋ねる。
「何をトチ狂ったのか、『練斗お兄ちゃんの大学に行ってみたい』と言い出してな。身内が頼み込んでくるので無下に断ることもできず、今度の日曜、午前中にキャンパスを案内する羽目になった」
「マ、マジかよ……!」
雅紀が戦慄した。
「おい加賀、大丈夫なのかよ!? こんな油臭くて奇人変人しかいない大学……いや、この6棟裏にそんなウブで人見知りの女の子を連れてきたら、一瞬でショック死するぞ!」
「だから部室には近づけん。正門付近の講堂(第12棟)や図書館(第9棟)を遠巻きに見せて、三十分で朝霞台駅へ送り返す予定だ。……セリカたんの助手席に乗せるのも気が引けるが、身内の情として致し方ない」
「お前のそのセリカ至上主義を従姉妹の前で発揮するなよ!? 絶対に引かれるからな!」
その時。
「――あら雅紀。こんなところで油売ってたの」
ゾクッ、と雅紀の背筋に氷柱が突き刺さった。
振り返ると、そこにはブランド物のバッグを肩にかけ、冷たい笑みを浮かべた実姉・一ノ宮舞花と、手帳を抱えた篠原朱音が立っていた。
「ひぃっ、姉ちゃん!?」
「言っておくけど、日曜の越谷レイクタウン、朝九時ジャストだからね。一分でも遅れたら、アンタのエイトのホイールナット全部緩めて走らせるから」
「殺す気満々じゃねえかァァァッ!!」
「……篠原先輩、行きましょう。騒音の元凶たちと関わると単位が逃げる」
「そうね朱音。じゃあね愚弟」
颯爽と去っていく治安維持部隊の二人。
雅紀はテーブルに突っ伏し、「日曜日が……俺の平穏な日曜日が……」と呻き声を上げた。
「フッ……因果応報だな、雅紀」
加賀は最後の一口のカロリーメイトを飲み干し、立ち上がった。
「さて、午後の機械力学の講義だ。貴様らも無駄口を叩いていないで持ち場へ戻れ」
秋風が吹き抜けるキャンパス。
日曜日――。
姉の物欲の生贄となる雅紀と、極度の人見知りの従姉妹を迎え撃つ加賀。
S・H・Bの平穏な日常に、新たな嵐の予兆が確実に近づいていた。




