燃費がアレなら最初からスポーツカーに乗るな
月曜日の放課後、埼玉中央総合大学・6棟裏。
コンテナハウスの長机に、完全に生気を吸い取られた一枚の雑巾――もとい、一ノ宮雅紀が突っ伏していた。
「……死んだ。俺の肉体と精神と、銀行口座が完全に死滅した……」
「お疲れ雅紀先輩! 昨日のレイクタウン、大変だったみたいですね!」
葵人が爽やかな笑顔で、実家から持ってきた冷たい麦茶を差し出す。
雅紀はピクピクと指先を動かし、恨めしそうに顔を上げた。その目元には濃い隈が刻まれている。
「大変なんてもんじゃねえよ……。姉ちゃんのやつ、ブランド物のコートやらブーツやらバッグやら、両手じゃ抱えきれないほどの紙袋を買い漁りやがってさ……。エイトのトランクに入り切らないから助手席とリアシートにも無理やり詰め込んだんだよ。結果どうなったと思う? 車重が百キロ以上増えて、リアの車高が二センチ下がった」
「ほう」
パーツクリーナーで工具を拭いていた加賀練斗が、関心なさそうに呟いた。
「ダンパーのストロークが縮み、ロールセンターが狂ったな。減衰力を二段硬めるべきだった」
「そんな走りのアドバイス求めてねえよ! 問題はそこじゃない! 外環道の往復高速代と、エアコン全開でリッター五キロしか走らなかったガソリン代、全部俺の財布から毟り取られたんだよ! 今月の俺の全財産、これだけだぞ!!」
バァンッ! と雅紀が机に叩きつけたのは、千円札が一枚と、百円玉が八枚。
合計、千八百円。
「千八百円あれば、新座バイパス沿いのエネオスでハイオクが約十リッター入るな」
加賀は平然と言い放った。
「セリカたんなら百二十キロは走れる。充分な活動限界だ」
「俺の今月の食費はどうすんだよォォォッ!!」
雅紀の絶叫が木霊する。
「オーウ……ガソリン・プライス、ベリー・クレイジーデース……」
部室の隅でパイプ椅子を二つ並べて横たわっていたマイケルが、深くため息をついた。
「ワタシのアパートの近くのスタンド、ハイオクが一リッター百八十七円デース! レガシィのシーケンシャル・ツインターボはガソリンをテキーラのようにガブガブ飲むから、ワタシのウォレットもエンプティデース!」
「僕のノートも、NISMO専用チューンだからハイオク指定でね」
スケッチブックを広げた鈴木準が、憂いを帯びた瞳で天井を仰ぐ。
「しなやかな肉食獣を養うには、相応の極上肉が必要ということさ。だが、この燃料高騰の嵐は、文学徒の貧しい懐には少々風速が強すぎるね」
「僕のフィットも、J’sのECUを入れてからハイオク指定になっちゃったんですよねー」
葵人が困ったように頭を掻く。
沈黙が落ちた。
埼玉中央総合大学『S・H・B』。
走ることに魂を売った男たちの前に、現実という名の巨大な壁――「原油価格の高騰」が容赦なく立ちはだかっていた。
「……おい」
千八百円を握りしめた雅紀が、ギラリと濁った瞳を光らせた。
「このままじゃ全員ガソリン代で破産して部室ごと沈没するぞ。……勝負だ」
「勝負?」加賀が眉を寄せる。
「名付けて、『第1回・6棟裏エコラン選手権』だ! 大学を出発して、志木街道を抜けて朝霞台の駅前をぐるっと回ってくる約十キロの市街地コース! 制限速度遵守、急加速・急ブレーキ厳禁! 車載の燃費計で一番リッターあたりの数値を叩き出せなかった最悪のドベが――今週末の部室の自販機代、全員分奢りだ!!」
「雅紀先輩、全財産千八百円なのに勝負して大丈夫なんですか!?」
「うるさい葵人! エイトだってな、六速ホールドでアイドリングギリギリを維持すればリッター十キロくらい走るんだよ! 俺は自分の千八百円を死守するために、悪魔にでも魂を売ってやる!」
「……よかろう」
加賀が工具を置き、不敵な笑みを浮かべた。
「エコ運転とは、すなわち『運動エネルギーの熱変換損失を最小限に抑える物理の最適化』だ。機械工学科の俺が貴様らに後れを取るはずがない。セリカたんの空力美と俺の精密なスロットル制御を見せてやる」
こうして、金欠大学生たちによる、意地とプライドと数滴のハイオクを懸けた泥沼の燃費レースが幕を開けた。
――十分後。志木街道。
夕方の新座の市街地を、異様な車列が走っていた。
先頭を走るのは、鈴木準のシルバーの日産ノート NISMO S。
「……ふふふ。静かに、滑らかに。気配を完全に遮断し、獲物に悟られぬよう風雪の中を忍び寄るユキヒョウのステップ……」
準は時速三十五キロ、アクセル開度わずか五パーセントを維持。
後ろには、制限速度四十キロの道路でノロノロ走るノートに業を煮やした農協の軽トラックが、車間距離五センチまでピタリと張り付いていた。
「準先輩! 後ろの軽トラのおじいちゃんが般若みたいな顔でクラクション鳴らそうとしてますよ!」
無線(LINE通話)で葵人が叫ぶが、準は優雅に流した。
「無視したまえ。芸術とは常に無理解の嵐に晒されるものだよ」
その直後、二番手を走るマイケルのレガシィに異変が起きた。
新座バイパスとの合流地点。本線から大型ダンプカーが猛烈な勢いで迫ってくる。
「オゥ!? デンジャラス! ブレーキ踏んだらリッター燃費がドロップしちゃうデース! でも止まらないとクラッシュデース!」
『マイケル、アクセルを踏むなよ! ターボがかかったら一瞬でガソリンが気化するぞ!』
雅紀が無線で警告するが、ダンプカーの巨体がレガシィの真横に迫り、轟音とともにクラクションが鳴り響いた。
パァァァァァンッ!!
「……ノー! アメリカンのソウルが、舐められたまま後退することをディスアグリー(拒絶)しているデースッ!」
『おいマイケルやめろ!!』
「プライド・イズ・パワー! キックダウーーーンッ!!」
グオォォォォォンッ!! プシャァァァッ!
ツインターボが過給圧を一・二キロまで一気に押し上げ、レガシィが猛然とダンプを置き去りにした。
車載燃費計のデジタル表示が、【11.2 km/L】から音を立てて【4.3 km/L】へと垂直落下する。
「ガハハハハ! グッド・バイ、エコノミー!」
『自爆したァァァァッ!?』
一方、最も車重が軽く、マニュアルのフィットを駆る細田葵人は、極めて順調にリッター十五キロをキープしていた。
しかし――車内のスピーカーから、シャッフル再生されていた『らき☆すた』のオープニング曲が流れ始めた瞬間、空気が変わった。
――♪ 曖昧3センチ そりゃぷにってコトかい? ちょっ!
「……っ!」
葵人の眉間がピクリと跳ねる。
「だ、ダメだ……! こなたちゃんたちが全力で電波ソングを歌い踊っているのに……僕がこんな、千五百回転の低燃費走行でノロノロ走るなんて……作品に対する冒涜だ……!」
『葵人!? お前は何をブツブツ言ってんだ!?』
「雅紀先輩、すいません! オタクには、燃費よりも優先しなければならない信仰があるんです! VTEC、全開ッ!!」
カチッ、とハイカムへ切り替わる澄んだ金属音。
フォォォォォォォンッ!!
七千回転の咆哮とともに、純白のフィットが夕暮れの街道へと弾丸のようにカッ飛んでいった。
『後輩が電波ソングに脳を焼かれて脱落したァァァッ!!』
残るは、雅紀のエイトと、加賀のセリカ。
雅紀は奥歯をガチガチと鳴らしながら、必死にアクセルペダルに足を「添えるだけ」の運転を続けていた。
だが、信号待ちからの発進で、ロータリー特有の低速トルクの無さが襲いかかる。
ガクガクッ……ガクッ!
「ひぃっ!? ノッキング!? ノッキングした!? 低回転で引っ張りすぎてプラグが被りかけてる!?」
雅紀の脳裏に、第1話の「エンジンブローの悪夢」がフラッシュバックした。
「ダメだ! 被ったらカブりを取るためにレーシング(空吹かし)しなきゃいけない! 止まる! 交差点でエイトが止まったら姉ちゃんに『何のために生きてんの?』って言われるゥゥゥッ!!」
恐怖に耐えきれなくなった雅紀は、クラッチを蹴っ飛ばしてアクセルを床まで踏み抜いた。
ブオォォォォォォォンッ!!
ロータリーサウンドが新座の空に炸裂し、燃費計は一瞬で**【3.8 km/L】**を記録した。
「アペックスシールは守ったけど俺の千八百円が死んだァァァッ!!」
そして――最後尾を走る加賀練斗。
加賀は完璧だった。
信号の変わり目を完璧に予測し、無駄なブレーキを一切踏まず、六速千二百回転をミリ単位で維持。
車載燃費計は驚異の【16.8 km/L】を指していた。
勝負あった。工学の勝利。セリカたんの完全勝利――のはずだった。
赤信号で停止した瞬間、加賀の視線が、交差点の角にあるガラス張りの高級輸入車ディーラーのショールームに吸い寄せられた。
ガラスに、夕日を浴びる真っ赤なセリカが映っている。
スーパーレッドⅤのボディ。ウェーバースポーツのフロントバンパー。
しかし――その姿を見た瞬間、加賀の瞳からハイライトが消え失せた。
「……セリカたん」
加賀の唇が、小刻みに震え出した。
「すまない……俺の都合で、こんな千二百回転のノロノロ運転を強要して……! ヤマハの誇る2ZZ-GEエンジンが、六千回転のハイカムに入りたくて『もっと踏んで! もっと回して!』とシリンダーの奥から咽び泣いている……! 俺は……俺はなんて残酷な飼い主なんだァァァァッ!!」
ガコッ! とシフトレバーを一速へ叩き込む音。
青信号に変わった瞬間、加賀はクラッチを乱暴にミートさせた。
「待たせてすまなかったセリカたん! 八千回転まで解き放ってやるぞォォォォッッ!!」
ギョワァァァァァァァァンッッ!!
甲高いヤマハチューンの咆哮とともに、真っ赤なクーペが白煙を上げて交差点をブッ飛んでいった。
――三十分後。6棟裏・第2駐車場。
全員が力尽き、コンテナハウスの前の地面に車座になって座り込んでいた。
提出された燃費計の記録。
・鈴木準:14.2 km/L
・細田葵人:6.1 km/L
・加賀練斗:4.8 km/L
・マイケル(レガシィ):4.1 km/L
・一ノ宮雅紀(RX-8):3.6 km/L
「……というわけで」
準が優雅に立ち上がり、灰色の瞳を細めて微笑んだ。
「勝者は僕だ。敗北した四人は、約束通り自販機の缶コーヒーを全員分奢ってもらおうか」
「うわああああんッ! やっぱり俺の千八百円が消えたァァァッ!!」
雅紀がアスファルトに頭を打ち付けて号泣する。
横では、加賀がセリカのボンネットに優しく触れながら、「気にするな雅紀。八千回転まで回ったセリカたんの表情は天使そのものだった。悔いはない」と悟りを開いた顔で呟いていた。
「お前の頭のネジを八千回転で締め直してこい!!」
カララン……。
その時、コンテナの脇に、一台のボロいママチャリが止まった。
大学前のコンビニの制服を着たチャイワットが、荷台の缶コーヒーの段ボールを降ろしながら、死んだ魚のような目で五人を見下ろした。
「オマエら、高いハイオク燃やして爆音出して、缶コーヒー一本のために泣いてる。タイのジャングルの猿でも、もう少し頭使ってバナナ食べるぞ」
「「「「…………」」」」
痛烈すぎる正論が、夕暮れの6棟裏に深々と突き刺さった。
「……チャイワット師匠、温かいブラック五本ください……」
雅紀が震える手で小銭を差し出す音とともに、S・H・Bの極貧エコラン抗争は、全員の財布に特大のダメージを残して幕を閉じたのだった。




