埼玉ガソリン枯渇パニック 〜ハイオク無しでは生きていけない〜
「……おい、準。お前、さっきから何をしてるんだ」
埼玉中央総合大学、E塔裏。
加賀練斗は、愛車セリカの給油口を虚ろな目で見つめ、ノズルも刺さっていないのに給油キャップを開けたり閉めたりしている鈴木準を、心底気味悪そうに眺めていた。
「……匂いだよ、加賀。ハイオクの、あの芳醇で、不健康で、脳の神経細胞をダイレクトに洗浄してくれるような香りが……もう埼玉のどこにも残っていないんだ……。クソッ、俺の身体が、HR16DEエンジンが、ガソリンを求めて震えてやがる……!!」
「お前の身体が日産製なのは初耳だが、状況は理解した。……マジで、一滴もねぇんだな」
そう。この日、埼玉中央総合大学……いや、埼玉県全域のガソリンスタンドから、忽然と「ハイオクガソリン」が消え去るという、走り屋にとっての人類滅亡以上の大惨事が発生していた。
原因は不明。一説には「アラブの石油王が埼玉のダサい走り屋たちに愛想を尽かした」とも、「県警が暴走行為を封じるために元栓を閉めた」とも囁かれているが、真実は闇の中である。
「ヘーーイ!! ガイズ!! ミーのレガシィが、レギュラーを入れた瞬間に『オレは水など飲まないYO!!』ってノッキングを起こして泣いてるデーーーース!! USAの魂にレギュラーは屈辱デース!!」
マイケルが星条旗を半旗に掲げて号泣する横で、雅紀もRX-8の横で膝をついていた。
「ロータリーにレギュラーを入れるのは、聖域に土足で踏み込んでカップ麺を食うのと同じ大罪なんだ……。嗚呼、13Bが……俺の13Bが、低回転でプスプス言ってる……。これは断末魔だ……俺の青春が、オクタン価の低下と共に死んでいく……」
「うるせぇ!! 青春を燃料の精製度で測るな!!」
加賀が怒鳴るが、その彼自身も、セリカの燃料計がレッドゾーンの遥か下を指しているのを見て、指先が微かに震えていた。
そこへ、このパニックを嘲笑うかのように現れたのが、鉄研の3バカ——高坂、佐野、三輪である。
「ハハハハハ!! 見ろ、あの無様に地に這いつくばる内燃機関の奴隷どもを!!」
高坂が、自身の「交通系ICカード(チャージ残高800円)」を宝剣のように掲げた。
「時代は電気だ! 架線から供給されるクリーンで無限(料金制)なエネルギーだ! ガソリン一滴に一喜一憂する君たちの文明は、まさに明治維新前の飛脚と同じレベルだよ!!」
「なんだとぉぉぉ!!! 三脚を武器にしてる奴らが文明を語るんじゃねぇ!!! だったらお前ら、架線のないところでどうやって動くんだよ!!」
「歩くよ。徒歩20分の距離を、完璧な時刻表通りにな」
「ただの散歩じゃねぇか!!!!」
カオスが極まるキャンパス。
走り屋たちがガソリン代わりの「唐揚げ棒の脂」を燃料タンクに入れようとする(絶対に壊れる)暴挙に出る寸前、朱音が無表情で爆弾を投下した。
「……あ、そういえば。さっき舞花先輩が呉さんの工場で、"最後のドラム缶一本分のハイオク"をキープしたって言ってたわよ。……『これ、オークションにかけたら雅紀の修理代3年分くらいになるわね』って、目が¥マークになってたけど」
「「「「「呉自動車へ、全速前進ッ(※押して)!!!!!」」」」」
S・H・Bの5人は、エンジンすらかからない鉄の塊を、もはや野生のヌーの群れのような勢いで押し始め、呉自動車へと向かった。
1トンを超えるセリカやレガシィを人力で押す。
それは、走り屋としてのプライドを捨て、物理的な筋力だけで「ガソリン」という神に縋る、最も惨めで最も熱い行進だった。
到着した呉自動車。
シャッターの前では、一ノ宮舞花が、キンキンに冷えた(物理的な意味でも、殺意的な意味でも)コーラを飲みながら、一本のドラム缶の上に座っていた。
その足元には、なぜかキチガイJK三人衆が「舞花お姉様ぁ〜! 扇いで差し上げますぅ〜!」と、団扇を持って奉仕している。
「……あ、来たわね。燃料に飢えたゾンビども」
「姉貴!! 頼む!! そのドラム缶の中身を、俺たちの車に分けてくれ!! このままだと埼玉の走り屋文化が、環境保護団体に表彰されるレベルで静かになっちまう!!」
雅紀が土下座するが、舞花はピクリとも動かない。
「ダメよ。これは貴重な資源なの。……呉さんが、『最近の若者はガソリンの有り難みを忘れて、無駄にレブリミットまで回しすぎる。一度、ガソリンが血の一滴だということを骨の髄まで理解させろ』って言って、私に管理を任せたんだから」
「呉さん……あの人、たまに本気で教育(拷問)を仕掛けてくるな……!!」
加賀が震える声で一歩前に出た。
「……舞花さん。……条件を、言ってくれ。何をすれば、そのハイオクをセリカに……俺たちの魂に、注いでくれるんだ」
舞花は、楽しそうに目を細めた。
「いいわ。……条件は一つ。今からあんたら、車を押して大学の中庭まで往復しなさい。……ただし、"エンジン音の口真似"をしながらね。……近隣住民に『あ、あのバカたち、ついにガソリンがなくて頭がイカれたんだな』って思われるレベルのクオリティで」
「「「「「屈辱すぎるぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!!!!」」」」」
こうして、埼玉中央総合大学のメインストリートで、伝説の「口内燃機関・パレード」が開始された。
「ヴ、ヴ、ヴォォォォォォン……! バ、ババババッ(アフターファイアの真似)!!」
加賀が、顔を真っ赤にしながらセリカを押し、全力でVVT-iLの作動音を口で再現する。
「プシュンッ!! ピーーーー!! 」
マイケルが、もはや何の音かわからない絶叫を上げながらレガシィを動かす。
その横を、朱音がビデオカメラで撮影しながら、淡々と実況を加える。
「……現在、加賀選手の口内燃機関、3,000回転付近で唾液が飛散。……マイケル選手、英語と擬音が混ざりすぎて近隣住民が通報の準備。……雅紀選手、姉への殺意とロータリーへの愛が混ざり合って、顔面が13Bの形に変形中」
「記録するなぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
地獄のパレードが3周目に突入したとき、ようやく呉福造が奥から現れた。
「……よし、そこまでだ。……お前ら、ガソリンがねぇと自分たちがどれだけ無力で、ただの『叫ぶ不審者』になるか、よくわかったか?」
「……はい、呉さん……。もう、無駄に信号待ちで吹かしたりしません……。ハイオクを……ハイオクをください……」
加賀たちが、もはや幽霊のような足取りで呉に縋り付く。
呉は無造作にドラム缶を開け、給油ポンプを手に取った。
「……わかった。今日はワシの奢りだ。……ただし、次にガソリンを無駄遣いしたら、今度は『お前らの汗』で車を走らせる方法を開発してやるからな」
「汗で動くセリカ!? それ、人間がエンジンのピストンになるやつじゃないですか!! 嫌だ!!」
ハイオクが、セリカ、ノート、RX-8、フィット、レガシィの胃袋へと流れ込んでいく。
その瞬間、5台のエンジンが同時に目覚め、先ほどまでの「口真似」とは比較にならない、美しくも野蛮な咆哮を上げた。
「……ああ、この振動。この爆発。……やっぱり俺、これがないと生きていけねぇわ」
雅紀が、ステアリングを抱きしめて号泣する。
「ガソリンの匂い……マジlitデスYO……。オレ、今夜はガソリンスタンドで寝るYO……」
パニックは、翌朝、何事もなかったかのように収束した。
実は、ガソリン枯渇の原因は、大宮先生が「文学的実験」として、埼玉中央総合大学周辺のGSのハイオクを、すべて自腹で買い占めて、自分のコルトのスペアタンク(という名の巨大な水槽)に貯蔵していただけだったことが判明し、彼はその後、舞花の鉄拳によって「埼玉中央の地脈の一部」として地面に埋められることになるのだが、それはまた別の話である。
朱音がメモ帳に最後の一行を書き添えた。
『記録:第89話。埼玉ガソリン枯渇騒動。走り屋たちは、ガソリンがなくなるとただの"唾を飛ばす不審者"になることが証明された。教訓:大宮先生に金を持たせてはいけない——記録完了』




