呉、国家権力に完全包囲される 〜車検の向こう側、正義の鉄槌(物理)〜
「……おい、準。昨日の残りの唐揚げ棒、まだあったか?」
日曜の昼下がり。呉自動車のガレージ内は、いつになく平和な空気に包まれていた。
加賀練斗は、リフトに上げられた自分のセリカの下に潜り込み、デフオイルの漏れをチェックしながら、隣でスマホをいじっている鈴木準に問いかけた。
「あるわけないだろ。さっきマイケルが『Oh, Spicy!』とか言いながら全部飲み込んだよ。それより見てくれ、この『狐耳がエンジンフードに挟まった時の切なすぎる表情』を描いた新刊の下書き……これが本当の『メカ×ケモ』の融合——」
「バカ、不吉なこと言うな! 挟まるとか不吉だろ! 俺の2ZZ-GEに異物が混入したらどうするんだ!!」
加賀がスパナを振り回して準を追い払おうとした、その時だった。
ガレージの表から、アスファルトを力強く踏みしめる複数の足音、そして無線機のノイズ音が響いてきた。
『——マル被、確保の準備。周囲を完全に封鎖しろ』
「……あ?」
加賀がリフトの下から這い出して、ガレージのシャッターの隙間から外を覗き込む。
そこには、埼玉県警のパトカーが5台、そして「機動捜査隊」と書かれた防弾チョッキを着た屈強な男たちが、呉自動車を完全包囲している光景があった。
「「「「ぎゃああああああああああああああああ!!!」」」」
ガレージの奥で「痛車用ステッカーの貼り付け(角度0.1度単位)」に集中していた細田、マイケル、雅紀の三人が、一斉に叫び声を上げた。
「やばい!! ついにバレたんだ!! 俺が昨日、隣の家の猫に向かって『我が眷属よ……』って語りかけてたのが不審者として通報されたんだ!!!」
「違うYO!! オレが昨日、公園の噴水でブローオフバルブの掃除をしてたのがテロの予行演習だと思われたんデスYO!!」
「どっちも逮捕されて妥当な理由だけど今は違うだろ!!! 呉さんだ!! 呉さんがついに『違法改造の総本山』として国家権力にロックオンされたんだよ!!!」
雅紀の絶叫に呼応するように、ガレージの奥から、ダブルブリッジのメガネを光らせた呉福造が、悠然と歩いてきた。
その手には、使い古された巨大なパイプレンチが握られている。
「……やかましいぞ、ガキ共。国家権力がどうした。俺は車検に通らない車は一台も外に出してねぇ。法律の範囲内で『魂』を込めてるだけだ」
呉は無造作にシャッターを蹴り上げた。
目の前には、十数名の警察官。その中央で、一人の警部補が手帳を突き出した。
「呉福造さんですね。あなたに『特定不正改造および、公序良俗に反する車両の隠匿』の疑いがかかっています。……あと、そこの白いフィット」
警官が指差したのは、細田のフィット(GD3)だった。
リアウィンドウには、昨日のキチガイJKによる呪い——**『マジカル・LOVE』**の文字が、消えない油分で生々しく輝いている。
「……あの『マジカル・LOVE』、警察から見ると『特殊詐欺グループの隠語』か『ヤバい薬物の取引サイン』にしか見えないらしいぞ」
朱音がどこからともなく現れ、冷ややかに解説を添える。
「違うんです!! あれは近所の女子高生にかけられた不可抗力の呪いなんです!! 決して、このフィットで怪しいモノを運んでいるわけじゃ——」
「黙れ!! 魔法少女の呪いとか言ってる時点で、薬物使用の疑いが濃厚だ!! 全車両、一斉点検を開始しろ!!!」
警部補の号令と共に、警察官たちがハイエナのようにS・H・Bの愛車たちに群がった。
それは、走り屋にとって最も屈辱的で、最も心臓に悪い「青空車検(強制執行)」の始まりだった。
「おい、このセリカ! ウィングの端がボディからはみ出してるんじゃないか!?」
「1ミリも出てねぇよ!! コンマ単位でツライチに計算して装着したんだ!! 測ってみろ! むしろ内側に入りすぎてて俺は泣いてるんだよ!!!」
加賀が警官の定規を奪い取らんばかりの勢いで食ってかかる。
「こっちのノートNISMO……なんだこの助手席の荷物は。『尻尾の誘惑』? 『ケモナーたちの聖夜』? ……おい、これは公序良俗に反するわいせつ物——」
「芸術だぁぁぁぁぁぁ!!! 文学部が血反吐を吐いて書いた純文学だ!!! 触るな! その指の脂で表紙が汚れたら、お前の家のルーターに狭霧の呪い(Wi-Fi遮断)をかけるぞ!!!」
準が警官の腕に噛み付かんばかりの勢いで同人誌を死守する。
「ヘイ!! このレガシィのブローオフバルブ、大気開放されてるんじゃないデスカ!?」
「されてないYO!! リターンホースでちゃんと吸気側に戻してるYO!! 音だけデカく聞こえるのは、オレの魂の咆哮がマフラーから漏れてるだけデスYO!! USA!! USA!!!」
マイケルが星条旗を振り回して警察官を威嚇し、事態はさらに悪化していく。
まさに混沌。埼玉の静かな住宅街にある整備工場が、国家権力とバカ共の全面戦争の舞台と化した。
その時、ガレージの奥で黙々と作業を続けていた呉が、低く、重い声を出した。
「……おい、ポリ公。そこまでだ」
呉は、警察官が手に持っていた「音量測定器」をひょいと奪い取った。
「あんたら、このRX-8のマフラーを測ろうとしてるが……ロータリーエンジンの特性をわかってんのか? アイドリング時の排圧と、ローターが回り出した時の音の広がりは、レシプロとは次元が違う。斜め45度、距離50センチ……そんな画一的な測り方で、この『13Bの絶唱』を数値化できると思ってんのか、ああん?」
「な、何を……」
「機械を信じるな、耳を信じろ。この車はな、昨日雅紀が元カノとの決別を誓って、一晩中泣きながらポートを洗浄した結晶だ。汚れ一つねぇ音だ。……数値で俺たちの誇りを汚すんじゃねぇ」
呉の圧倒的な「整備士のオーラ」に、警察官たちが一瞬たじろぐ。
その隙を見逃さなかったのは、治安維持部隊のリーダー、一ノ宮舞花だった。
「——はい、そこまで。お疲れ様、警察官の皆さん」
舞花が、どこから持ってきたのか不明な「大学公認・外部団体立ち入り許可証(偽造疑惑あり)」をヒラヒラとさせながら、警部補の前に立った。
「この呉自動車は、我が大学の『自動車文化研究センター』の指定工場です。車両の改造はすべて学術的なデータ収集のために行われており、安全基準は大学側の厳格な(という名の適当な)審査をクリアしています。これ以上、研究の邪魔をするなら、学長経由で県警本部に『公権力による学問の自由の侵害』として正式に抗議しますけど?」
「……が、学問の自由?」
警部補が、フィットに描かれた泉こなたと、セリカに貼られた「峠の亡霊」ステッカーを交互に見た。
「……これが、学問?」
「そうです。埼玉の特殊な地脈における、人間の脳のバグと内燃機関の相互作用についての臨床実験です。朱音、今の警察官の動揺を『外部圧力に対する心理反応』として記録して」
「了解。警部補の右眉が3ミリ上がった。……動揺率、87%」
朱音が無表情でメモを取る。
「……っ、チッ。今日は引き上げるぞ!! だが、次に川越街道で火花を散らして走っているのを見つけたら、その時は逃がさんからな!!!」
警察官たちは、捨て台詞を残して嵐のように去っていった。
呉自動車の前に、再び(相対的な)平和が戻る。
「……ふぅ。姉貴、助かった」
雅紀が座り込む。
「助けてないわよ。ただ、あんたたちが逮捕されると、私のスキマバイトのスケジュールに影響が出るから追い払っただけ。……あと呉さん、今の貸し、雅紀の次の修理代に上乗せしといて」
「……わかってるよ、舞花。しっかりした娘だ」
呉がニヤリと笑う。
加賀は、警察官が触ったセリカのフェンダーを、親の仇を討つような形相で磨き直していた。
「……クソ。国家権力の指紋がついた。セリカ、ごめんな。今すぐ最高級のコーティングで浄化してやるからな……」
「加賀さん、それもう宗教の領域っすよ」
細田が、リアウィンドウの『マジカル・LOVE』をどうやって隠すか悩みながら突っ込む。
「うるさい。俺たちのセリカやフィットは、警察の物差しで測れるような安いもんじゃないんだ。……呉さん、さっきの言葉、かっこよかったっす」
「……何の事だ。ワシはただ、測定器の使い方がなってねぇと言っただけだ」
呉は照れ隠しにパイプレンチを回し、ガレージの奥へと消えていった。
朱音がメモ帳の最後の一行を書き留める。
『記録:第88話。呉自動車、国家権力の包囲を突破。勝因は舞花先輩の口八丁と、呉さんのロータリー愛。……なお、本日の一番の被害者は、警察に"わいせつ物"扱いされた準の同人誌(実質ただの落書き)である——記録完了』
夕暮れの空に、マイケルが鳴らすブローオフバルブの音が「プシュンッ!!」と勝利のファンファーレのように響いた。
しかし彼らはまだ知らない。この「国家権力との遭遇」が、後に彼らをさらなる公的な地獄へと引きずり込む前兆に過ぎないことを。




