埼玉のバカたちを見守るお姉さんズ
場所:学生会館・屋上。
時間:夕暮れ、17時過ぎ。
秋の空が、オレンジと紫の境界線を引いていた。篠原朱音は、屋上のフェンスに肘をついて、E塔裏の駐車スペースを見下ろしていた。棒つき飴を口に含みながら、メモ帳を膝に置いて。
隣で一ノ宮舞花が、缶コーヒーを一口飲んで言った。
「……さて。今日も始まりました、"S・H・B観察24時"」
朱音がメモ帳の上に何かを書いた。
「もはやライフワークですよね、これ。てか先輩、あの人たちいつ寝てるんですか」
「寝てないよ。たぶんオイルで血液を希釈してる」
「それ生理的にヤバいやつですよ」
眼下のE塔裏。コンテナの前に、5台が止まっていた。5台のボンネットが、全部開いていた。遠目に見ても、カオスな空気が漂っている。
「マフラー、これもう純正じゃなくて**"魂"で付いてんだよ!**」という声が風に乗った。
「兄貴、ネジ余ってますよ!」
「俺のVTEC、心の中で開いた!!」
「ワタシ、オイルこぼした!!」
朱音がメモ帳に書いた。
「17:12 全員正常(比較対象がなければ)」
舞花が遠い目をした。
「"平常"の定義、再考すべきだと思うの、私」
朱音のメモ帳の表紙には、几帳面な文字で「S・H・Bバカ行動リスト2025」と書かれていた。ページをめくると、びっしりと記録が並んでいる。
4月:部室に初めて訪問。なぜか溶接の匂いがした。
5月:マイケルが駐車場でブローオフを5回連続で鳴らした(苦情1件)。
6月:細田が「SOHCのどこが悪いんですか」と本気で聞いてきた。
7月:全員で炎天下のオイル交換。細田が廃油を顔に浴びた。
「今日の更新分です」と朱音。
「昨日の関越走行会。"合法"で走るって言ってたのに、フェアレディZに喧嘩売ったらしいです」
「その**"たぶん"**の部分が全てを物語ってるわね」
「あと呉さんにバレて"寝ろ"ってLINEが来たらしいです」
「おっちゃん、夜中に何してんの……万能かよ」
朱音がページに追記した。
10月:深夜の関越でZに煽られ一部応戦。呉さんに捕捉。
「これ、卒業するまでに何ページになるんですかね」
「本にできそうね。"バカと走り屋と友情の記録"」
「タイトルだけ良いやつ」
舞花が急に振り返った。
「てかさ。なんで私たち、毎回このバカどものフォロー、してんの?」
「それは……舞花先輩が頼まれたからでは?」
「別に頼まれてない。勝手にやってる」
「病気ですね」
「**"社会学的観察"**って言って」
「どんな社会ですか。"走り屋社会"か」
舞花が笑った。
「でも正直、嫌いじゃないのよ、あの集団」
「知ってます」
「あ、そんなにわかる?」
「毎回来てますから、先輩」
舞花が少し黙った。フェンスの向こう、E塔裏では、加賀が何かを指さして、雅紀が頷いて、マイケルが全力でうなずいて、細田がカー雑誌を持ち出して、準がそれを見ずにケモ本を読んでいる。いつもの光景だ。
「……見てて飽きないのよ、あいつら」
朱音がメモ帳にこっそり書いた。
(先輩、やっぱり好きじゃないですか、あの人たち)
書いた後、そっと閉じた。
そのとき。
ドゴォォォン!!!!
E塔裏から爆音が上がった。舞花と朱音が同時にフェンスに駆け寄った。白煙が少し上がっている。マイケルが何かを持って走り回っているのが見える。
「……今の何の音」
「たぶん**"爆鳴きマフラー"が限界を超えた**んだと思います」
「ちょっと見てくる」
舞花が屋上を出た。10分後、戻ってきた。
「……マイケルが消火器持って暴れてた」
「想像通りすぎて逆に安心しますね」
「消火器の粉が全部、加賀のセリカにかかってた」
「それは想像の上でしたね」
朱音が記録した。
17:31 マイケルが消火器を誤射。セリカが白くなった。
「加賀くん、どうしてました?」
「三秒くらい無言で見てた後、**"白いセリカも悪くないな"**って言ってた」
「メンタル強すぎる」
空の色が変わっていた。オレンジが薄れて、濃い青になりつつある。E塔裏の5台が、外灯に照らされ始めた。
朱音が缶コーヒーを一口飲んで、ぽつりと言った。
「でもさぁ……あの人たち、バカだけど、なんか楽しそうなんだよね」
「そりゃそうよ。自分の"好き"で世界回してんだもん」
「……"好き"か」
「そう。"好き"ってだけで、どんなバカでも無限にエネルギー持てるの。オイルまみれになっても、消火器かぶっても、部室が燃えても――また次の日来てるじゃない」
朱音が静かに頷いた。
「だから私、あいつら見てると、ちょっと羨ましいのよ」
「……先輩も、なんか"好き"なものないんですか」
舞花が少し考えて、缶コーヒーを見た。
「あるよ。でも私は……人を見てる方が楽しい、ってタイプなんだと思う。あいつらみたいな"好き"を全力でやってる人間を、後ろから見てるのが――一番好きなのかもな」
朱音は何も言わなかった。ただ、メモ帳に一行だけ書いた。
(先輩のそれが、たぶん一番かっこいいと思う)
そのとき舞花のスマホが光った。加賀からLINEだ。
『姉貴〜、スパナ無くした。貸して?』
舞花が即返信した。
『スパナどころかお前の理性が無くなってる』
『理性は最初から積んでねぇ』
『だろうね』
朱音が覗き込んだ。
「お二人、いつも会話がバトル形式ですよね」
「"ギアチェンジする関係"だから」
「意味わかんないです」
舞花が続けてLINEを打った。
『スパナは自分で買えあと昨日の関越、詳細報告しろ』
『ノリで走ったら楽しかったです』(報告終わり)
『ぶっとばすぞ』
『姉貴の方が速く走れないじゃん』
『言ってろ』
朱音が笑いを堪えながら記録した。
夜。屋上から見下ろすキャンパスに、ライトが灯った。
赤いセリカ(白い粉付き)、黒いRX-8、銀のノート、白いフィット、ネイビーのレガシィ。遠くから見ると、なんかかっこいい。
「……ねぇ先輩」
朱音が言った。
「もし、あの人たちが全部壊して大学追い出されても――見捨てます?」
舞花がしばらく考えた。
「うーん……まぁ、金になるなら助ける」
「金かよ」
「バイト代出るなら部室も直してやる。スキマバイト的に」
「ほんと、金の亡者ですね」
「お互い様でしょ?」
二人が笑った。笑い声が夜風に溶けていく。その下では、バカどもがエンジンを空ぶかしている。ヴォン! ヴォン!
「うるさい」と誰かが怒鳴った(呉さんだ)。
朱音がメモ帳の最後のページに書いた。
(どっちも本気。たぶんそれが、S・H・Bの真の構造だ)
そして、ページを閉じた。
帰り際。朱音が階段を降りながら、ふと振り返った。
「……先輩、来週も来ます?」
舞花が先に歩きながら、振り返らずに答えた。
「来るわよ。記録が途中だもん」
朱音はメモ帳をバッグに入れながら、小さく笑った。
「バイト代も出ないのに?」
「……うるさい」
その夜、グループLINEに一件。一ノ宮舞花から全員に。
『雅紀。消火器代、弁償な』
『姉貴が払ってよ』
『死ね』
『愛してる(兄妹的な意味で)』
『ぶっとばす』
加賀が一言だけ送った。
『仲良いな』
二人から同時に『違う』が来た。




