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ケモナーによる最終講義

 火曜日の午後。E塔裏の地獄コンテナ。


 今日の空気は、いつもよりさらに重かった。


 鈴木準がホワイトボードに巨大な相関図を描き殴っていたからだ。


「いいか、野郎ども。耳の穴をかっぽじって、ピストンの往復運動より精密に俺の言葉を刻み込め。今日という日は、日本の文化史に刻まれるべき重大なターニングポイントになる」


 加賀練斗は、手に持った14mmのレンチを指先で回しながら、ホワイトボードを凝視した。そこには「真理」「排斥」「マズルの法典」「肉球の純血主義」といった、大学生の日常には似つかわしくない不穏な単語が並んでいた。


「準。お前、脳のECUがリセットされたのか。これからマイケルのレガシィのプラグ交換をやる予定なんだよ。そのペンを置いて、今すぐ十mmのソケットを持ってこい」


「甘いよ加賀くん。レギュラーガソリンくらい甘い。廊下を歩けばウマ娘最高だのブルアカのケモ耳娘が尊いだの、浅薄な言葉が飛び交っている。あんなものはただの人間にオプションパーツを付けただけの、いわば純正風エアロに過ぎないんだよ。俺が求めているのは、フルカーボンボディにフルチューンエンジンを積んだような、根源的な変革なんだ」


 準はペンをホワイトボードに叩きつけ、机を激しく叩いた。雅紀の食べかけのアンパンが床に落ちた。


「いいかい。全身が毛に覆われていない時点で、それはケモナーへの冒涜だ。マズルが無い、鼻先が平坦な顔立ちのキャラクターをケモノと呼ぶ風潮。あれは、13Bロータリーからローターを抜いて走れと言っているのと同じレベルの暴挙だぞ」


 雅紀が、床に落ちたアンパンを悲しそうに見つめながら顔を上げた。


「え、でもお前、資料としてそれ系のアプリもチェックしてなかったか。お前のスマホの画面に灰色の髪の女の子が映ってるの見たぞ」


「資料としてだ。だが俺の魂は一度も屈していない。鼻先がツルッとしているのは、空気抵抗の観点からも、そして何より愛でるという観点からも欠陥品なんだよ。見てくれ、この俺が描いた理想の個体を」


 準がタブレットを掲げた。全身が白い毛に覆われた狐のような獣人。鼻先は適度に突き出し、瞳は宝石のように赤く輝き、中国風の煌びやかな衣装を纏っていた。


「JDMの誇りに賭けて聞くけどYO、準」


 マイケルがスマホの画面を見せた。アメリカのコンベンションで撮影された、カラフルで巨大な着ぐるみ(ファーリー)の画像だった。


「アメリカのファーリーは全身毛だらけデス。これこそ準の求めるTRUE BEASTじゃないデスカ」


 準は、マイケルのスマホを視線だけで爆破せんばかりの勢いで睨みつけた。


「マイケル。そこにJapanese Moeはあるのか。一ミリでも、古の日本人が大切にしてきた情緒や繊細な美意識が宿っているのか」

「……NO。どちらかというとパワフルでカートゥーンな感じデス」

「だろうな。それは単なる歩くぬいぐるみだ。獣が強すぎるんだよ。俺が求めているのは、獣の野生と、少女の可憐さと、和の情緒が三位一体となった奇跡なんだよ」


 細田が眼鏡をクイッと直して口を挟んだ。


「じゃあポケモンみたいなのはどうなんだ。あれは獣そのものだろ。毛も生えてるしマズルもある。ピカチュウだって可愛いだろ」


「細田くん。VTECの切り替わりを音で判断できる男だと思っていたが、今の発言はエンジンの組み付けを間違えたレベルの大失態だ。ポケモンはモンスターだ。俺が求めているのは、獣の野生と人間の知性が黄金比で混ざり合った——完全に言葉を解し、それでいて肉体的には百パーセント獣であること。この矛盾を突破した先にしか、俺の聖域はないんだ」


 加賀が大きなため息を吐き、レンチをポケットに突っ込んだ。


「準。要するに、お前は全身が毛で覆われていて、マズルがあって、でも人間のような知性と日本的な可愛さを兼ね備えた存在以外は認めない、ということか。注文の多い料理店かよお前は」


「その通り。それが唯一の正解だ。一箇所でもセッティングが狂えば、それは俺にとって不快な雑音でしかない」


「じゃあ、三次元の動物はどうなんだ。あれは完璧に獣だろ。上野動物園に行けば、お前の理想がそこら中に転がってるんじゃないのか」


「論理の破綻だね、加賀くん。本物の動物を愛でるのは愛護であって信仰ではない。俺は概念としての獣を愛しているんだ。触れることができないからこそ、その一本の毛に神が宿るんだよ。動物園の檻の向こう側に、俺の嫁はいない」


 雅紀が呆れた顔で指を差した。


「じゃあさ。狭霧様は何なんだよ。あの方は、人間に耳と尻尾を付けただけというビジュアルに限りなく近いじゃないか」


 準の動きが、一瞬だけ止まった。


 震える声で言った。


「狭霧様は、例外だ」


「「「「「「何でだよ!!!」」」」」」


 全員のツッコミが、コンテナの壁を振動させた。


「狭霧様は、存在そのものが概念なんだ。彼女の耳が動くたびに、俺の脳内の燃調が勝手に補正されるんだよ。だから、彼女は例外なんだよ。これは物理法則が適用されない特例措置なんだ」


「自分に都合の良い時だけ例外というニトロを使うな。お前のその性癖理論。最初からピストンが逆方向に組まれていて、排気管から吸気してるレベルの不具合だぞ」


 加賀がホワイトボードを消そうとした。


 その時、部室のドアがパタンと静かに開いた。


「騒がしいのう。準殿、お主の声、廊下の端まで不純な響きとして届いておるぞ。何をそんなに熱く語っておるのじゃ」


 狭霧が立っていた。銀色の長い髪、凛とした白い和装。不機嫌そうにピクピクと動く、自慢の狐耳。その後ろには、ライフルを抱えたまま眠そうな顔の朔夜が立っていた。


「狭霧様!! 今、ちょうどあなたの神々しさについてこの不勉強な者たちに解説していたところです!!」


 準が即座に這いつくばって擦り寄った。その動きは、呉さんの工場のピットに潜るスピードより速かった。


 狭霧は準の頭を、持っていた扇子でパシッと叩いた。


「お主の解説など不要じゃ。今、我が耳をオプションパーツと呼んだのは誰じゃ。あとで呉殿の工場に連れて行き、強制的に性格のオーバーホールを依頼してやろうか」


「僕です。すみません。でも準にゃんが変なことばかり言うから気になって来てみたにゃ」


 朔夜が準の裾を引っ張りながら言った。


「準にゃん、この白い毛だらけの絵、便利そうにゃ。枕にしたら寝心地良さそうにゃ」


「朔夜くん、これは枕じゃなくて俺の魂の結晶なんだよ」


 舞花が朱音を連れて入ってきた。朱音はすでにビデオカメラを回しており、準の相関図を克明に記録していた。


「分析完了。準選手の性癖。非常に狭小かつ矛盾に満ちた独自の美学。市場価値、ゼロ。精神医学的なサンプルとしてはS級の希少性あり。舞花先輩、この相関図を明治大学の資料室に売れませんか」


「いいわね。一ページ五百円で買い取ってあげるわ。雅紀の修理代の足しになるでしょうし」


「売らないでください。俺の遺言なんです。将来、俺の墓石に刻む予定の設計図なんです」


 加賀が準の肩に手を置いた。


「準。もう一度だけ聞く。お前の求めているものは、結局何なんだ。全身が毛で覆われていて、マズルがあって、でも可愛くて、三次元の動物ではなく、狭霧様は例外で、着ぐるみは嫌い。そんなもの、この宇宙のどこに存在するんだ。お前の妄想は、もはや設計ミスを通り越して、存在しない物理法則を前提にした欠陥住宅だぞ」


 準は少しだけ遠くを見た。窓の外には、夕日に照らされた埼玉中央総合大学のキャンパスが広がっていた。準は深く息を吸い込み、ゆっくりと口を開いた。


「俺にも、分からない」


「「「「「「分からないのかよ!!!!!!!!!!」」」」」」


 全員の怒号が、部室の空気を震わせ、棚に置かれていたパーツクリーナーの缶を数本なぎ倒した。


「分からないから、探し続けているんだよ。走り屋がまだ見ぬベストラップを求めて走り続けるのと同じように。俺もまた、自分の中の理想のケモノを求めて、今日もこの地脈を彷徨い続けているんだ。答えがないことが、俺のガソリンなんだよ」


「かっこいい風にまとめるな。内容が最低なんだよ。お前のそれはガソリンじゃなくて、単なるオイル漏れだ」


「結局。お前はただの、救いようのない、面倒な変態ってことだな」と雅紀。


「走り屋と変態は、本質的に同じ。大和田教授が昨日の講義でそう言っていた気がするよ」と細田が手帳を書き始めた。


 朱音がメモ帳の最後のページに書き込む。


 鈴木準:性癖の最終定義に失敗。原因、本人の理想が物理法則と論理的整合性を完全に無視しているため。

 狭霧:準の理論により例外という名の聖域に指定される。本人は不快そうだが、お札を貼る頻度が三十パーセント減少。

 マイケル:アメリカのファーリー文化を侮辱され、一時的に星条旗の彩度が低下した。

 結論:準の求める存在は、この宇宙には存在しない。

 追記:加賀が帰り道、マズルの長さで空気抵抗が変わるのか、と真面目に計算していた。汚染は着実に進んでいる。


 朱音はペンを回し、夕暮れの空を見上げた。朱音の目には、沈みゆく太陽が、巨大なケモ耳のシルエットに見えた気がした。


「マズル、ね。今度、呉さんに聞いてみようかしら。私の鼻を、どうすれば13Bの形状に改造できるか」

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