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狐の争い ~裏山崩壊の危機~

 埼玉中央総合大学の裏手には、通称「絶望の丘」と呼ばれる、地味に傾斜のきつい裏山がそびえ立っている。


 普段は散策する学生もまばらなその場所が、今、大気圏突入時のカプセル内のような異常な熱量に包まれていた。


「のう、一尾よ。お主がこの土地を守っておるなどと吹聴していると聞き、妾は笑いが止まらぬのじゃ。一本の尾で守れるのは、せいぜい自分の寝床の埃くらいではないのか」


 金の髪を冬の風になびかせ、瑞羽が扇を優雅に広げた。三本の尾が、黄金の蛇のように蠢き、周囲の落ち葉を霊的な風圧で巻き上げている。


 対峙する狭霧は、萌葱色の瞳を静かに細め、銀色の尾をゆらりと揺らした。


「瑞羽殿。尾の数が増えるたびに、知性が外に漏れ出しているようじゃな。三本もの尾を振り回して歩くのは、リアスポイラーを三段重ねにした下品な改造車のようで、見ていて痛々しいぞ」


 瑞羽の眉間がピクリと跳ねた。


「なっ、……。この妾の美しき尾を、あのアスファルトを這いずる鉄クズと比較するとは。万死に値する不敬じゃぞ。お主、その銀色の毛並みをすべて抜き取って、準の部屋の座布団に加工してやろうか」


 空気がパチリと爆ぜた。


 狭霧の周囲に、青白い狐火が幾つも灯る。規則正しく明滅し、一気に燃焼温度を上げていく。


「準殿の名を出すな。お主のような騒がしい狐が近づけば、あの男の数少ない理性が完全にエンジンブローしてしまう。これ以上この山の地脈を汚すなら、霧ヶ崎の法によってお主を土に還してやろう」


「やってみよ。一尾の力で妾の三尾を御せると思うておるのか。今ここで、この裏山ごと埼玉県から消し去ってくれるわ」


 その時だった。


 ブォォォォォォォォン。


 激しいスキール音と共に、赤いセリカが山道のガードレールギリギリを攻めながら滑り込んできた。続いて、ノート、RX-8、フィット、レガシィ。S・H・Bのフルメンバーである。


「止まれ! 全員停止だ! 呉さんの工場まで不吉な地鳴りが届いてるんだよ!」


 加賀練斗が運転席から飛び出し、二人の狐の間に割って入った。


「加賀くん、危ない。今の二人のオーラ、ブースト圧二・五キロくらいかかってる。近寄るだけで俺の同人誌のインクが蒸発しちゃうよ」


 準がノートの陰で震えながら望遠レンズを構えた。


「ヘーーイ! ガイズ! 裏山が富士スピードウェイの火災現場みたいになってるYO! ピースにやろうデス!!」


 マイケルが星条旗を振り回すが、二人の視線はマイケルを完全に透過し、互いの急所のみを射抜いていた。


「加賀とやら、どいておれ。これは狐の格付け、いわば魂のドラッグレースじゃ。一本しかない尾で三本に挑もうとする無謀な魂を、完膚なきまでに粉砕せねばならぬのでな」


「ドラッグレースなら0-400で勝負しろ! 霊力で山を爆破してどうするんだ! 細田、お前の日本史的知見でこいつらを止めろ!」


「無理ですよ加賀さん。日本史の教科書に妖狐同士のマウント合戦の止め方なんて載ってません。平安時代に同じようなことが起きた時は、だいたい村が一つ消滅しています」


「雅紀、お前は何か無いのか」


「俺にできるのは、この状況をさらに悪化させて爆発の規模を一・五倍にするくらいだよ。諦めてセリカを避難させよう。俺たちの青春の塗装が剥げる」


 瑞羽が第一投を放った。


「散華、金狐旋風」


 黄金のつむじ風が裏山の木々をなぎ倒し、S・H・Bの車両へと迫る。


「させるか。氷華、銀霧防壁」


 狭霧が地面を叩くと、深い霧が展開された。黄金の旋風が霧に遮られ、不快な金属音を立てて霧散する。


「ほう。守りだけは得意なようじゃな。だが、これならどうだ」


 瑞羽の三本の尾がそれぞれ別の術式を起動させ、裏山の頂上が眩い光に包まれた。


「やめろぉぉぉ! 俺のセリカのコーティングが熱で溶けるだろ! 準、お前さっきから何を書いてるんだ!」


 加賀が準のノートを奪い取ると、震える筆致で新しい和歌が綴られていた。


『裏山の 狐の喧嘩 火を噴きて 俺のボーナス 修理に消える』


「歌を詠んでる場合か! そもそもお前にボーナスなんて無いだろ!」


「無いから、未来への絶望を詠んだんだよ!」


 爆発音が轟いた。裏山の斜面が一部崩落し、マイケルのレガシィのリアバンパーに巨大な岩が直撃しかけた。


「OH!! MY LEGACY!! 方向を考えてクダサイ!! USAの魂が傷ついたデス!!」


「やかましい、異邦の男よ。今はこの傲慢な三尾を黙らせるのが先決じゃ。瑞羽、お主の術、出力は高いが燃費が悪すぎるぞ。キャブレターの調整もできぬ三流の走り屋と同じじゃ」


「何じゃと。妾の術が三流だと。おのれ一尾。その減らず口を縫い合わせてくれるわ」


 瑞羽の妖力が臨界点に達した。背後に、巨大な九尾の影が幻覚として浮かび上がる。


 その時だった。


 カツーン、カツーン。


 不吉なほど規則正しいヒールの音が、爆発音の合間を縫って響いてきた。


 砂煙の向こうから、一人の女性が現れた。

 一ノ宮舞花である。


 その手には、巨大な工事立ち入り禁止の看板と、いつもの電卓が握られていた。

 彼女は一度立ち止まり、深く、冷たい溜息を吐き出した。


「はい。そこまで。二人とも、今すぐその低レベルな毛並み合戦をやめなさい。土地の資産価値が、一分ごとに十万円単位で下落してるわよ」


 舞花が、瑞羽と狭霧の間に、一切の恐怖を感じさせることなく踏み込んだ。


「なんじゃ、人間の女。妾の邪魔をすれば、お主もろともこの山を更地にするぞ」


「更地にする? 面白いわね。朱音、今の発言、不法行為の予告として記録した?」


「記録完了。器物損壊、森林法違反、および公共の平穏を乱す罪。二名の今回のバトルにより、大学側の被害見積もりは現在百五十万円を突破しています」


 朱音が感情の欠片もない声で告げた。


「百五十万……」


 狭霧が僅かにたじろいだ。銀色の耳が、気まずそうに後ろを向く。


「そう。百五十万。この金額、誰が払うのかしらね。準、あんたが連帯保証人として人生のすべてを捧げて払う?」


 舞花の視線が、震える準を射抜いた。


「無理です! 俺の年収は十二千円です! 唐揚げ棒を五年分我慢しても足りません!」


「じゃあ、この二人の身柄を、呉さんの工場の二十四時間労働者として売り飛ばすしかないわね。狐の毛は、高級な洗車用ムートンとして高く売れそうだし。特にそっちの三本。一気に三台分磨けそうじゃない」


 舞花が電卓を叩くカチカチという音が、黄金の雷鳴よりも鋭く響いた。


「なっ、……。この妾の美しき毛を、洗車に使うだと。格が死んでしまうわ」


 瑞羽の妖力が、みるみるうちに萎んでいく。黄金のオーラが、家計の火の車のように小さくなった。


「我も、ムートンにされるのは御免じゃ。瑞羽、今日のところは引き分けということにせぬか。これ以上暴れれば、この守銭奴の女に魂まで吸い取られるぞ。文字通り、毛も残らぬ」


「……。ふん。仕方ないのう。今日はこのくらいにしてやるわ」


 均衡が戻った。


 裏山は、あちこちが焦げ、木が数本なぎ倒されていたが、全滅は免れた。


「ふぅ、……。助かった」


 加賀がセリカのボンネットに、ようやく安堵して腰を下ろした。


「助かってないわよ。加賀、雅紀、細田、マイケル。この山の修復作業、一週間以内に終わらせなさい。無給よ」


「「「「無いです……」」」」


 夕暮れの裏山。


 狭霧と瑞羽は、離れた場所で互いにそっぽを向いていた。


 準がその間に入り、おずおずと口を開いた。


「あの、二人とも。仲良くしましょうよ。同じ狐同士じゃないですか」


「「同じにするな」」


 二人の声が完璧に重なった。


「………………まあ、息は合ってるにゃ」


 朔夜がAK-47を肩に担ぎ直し、おっとりとした顔で呟いた。


「誰の息が合っておるか!」

「妾の方が、呼吸の質が高いわ!」

「ほら、やっぱり合ってる」


 準が笑うと、二人の狐は同時に顔を赤くして、別の方向を向いた。


 その夜。S・H・B部室。

 全員が湿布を貼りながら、スコップと鍬を並べていた。


「明日から開墾作業か。俺たち、いつから農業サークルになったんだ」


「走り屋は、土の上でも最速を目指すべきデス! オフロード・トレーニングだと思えばいいデスYO!」


 マイケルだけが、泥だらけの顔で前向きだった。


「ポジティブすぎて逆に疲れるわ。俺の13B、明日から肥料の匂いがしそうだよ」


 雅紀が力なく笑った。


 朱音がメモ帳に最後の一行を書き込む。


 瑞羽と狭霧のマウント合戦。

 結果:裏山が一部崩落。

 勝者:一ノ宮舞花(経済的勝利)。

 敗者:S・H・Bメンバー(労働的敗北)。

 特記事項:瑞羽が舞花の電卓の音に、本気の生命の危機を感じていた。

 結論:狐の妖力よりも、人間の執着心(金)の方が、物理的破壊力が高いことが証明された。

 追記:朱音がペンを回し、窓から見える裏山の黒い影を見つめた。


「開墾作業の様子、ドローンで撮影して農業アイドルとして売り出してみようかしら。もちろん、主演はメイド姿の細田くんでね」


「俺をこれ以上別のジャンルに引きずり込まないでください!! VTECは土を耕すためのものじゃないんです!!」


 細田の悲鳴が、夜のキャンパスに響いた。

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