四月八日 水曜日
今日の季語は「椿」です。
綺麗な赤ですよね。
雨に濡れ 項垂れ椿 息潜め
あめにぬれ うなだれつばき いきひそめ
昨日は、小雨が続きました。
垣根の椿の花が、濡れていました。
潤うように、葉が緑の艶を増すのとは反対に、うつむく花弁が寂しそうでした。
泣いた後の、伏せ目のまつ毛を思い出しました。
涙を拭いても、まぶたが重くて気が晴れません。
悲しいと、下ばかり見てしまいますね。
それが全てのように、影を残します。
子供の頃の私は、頻繁に熱を出し、学校を休みました。
その度に、「キクチせんせい」に行かなければなりませんでした。
「キクチせんせい」は、町で一番の小児科のお医者さんです。
「キクチせんせい」の鼻の下には、ぴょんと跳ね上がった細い髭がありました。
診察室には、白い布に覆われた丸椅子が、「キクチせんせい」の前に置かれています。
私は、その椅子まで歩いていき、トンと座ります。
「キクチせんせい」は、また来たかというような目でチラリと見ました。
冷たい聴診器が碁石のように胸や腹に置かれると、看護婦さんの声かけが始まります。
「息を吸ってぇ、吐いてぇ」
「キクチせんせい」が、軽く、頷くと終わりです。
そして、太い万年筆を持ち、机に向かいます。
私は、丸椅子で背筋を伸ばし、覗き込みました。
起伏のある線を淡い黄色の紙に書いているのが見えました。
青いインクの線が、いくつか並びます。
後で、母に聞くと、「ドイツ語だよ」と言われ、それが文字だと知りました。
そして、黄色い紙は、カルテということでした。
それからは、診察のとき、カルテの書き込みを盗み見るのが楽しみとなりました。
時々、「キクチせんせい」が左眉を高く上げて、私に気づくこともありました。
それでも、「キクチせんせい」は、足の届かない丸椅子で、上半身を伸ばし、覗き込んでいる幼子を叱りませんでした。
なぜなら、次が「キクチせんせい」の本領発揮の場なのです。
私は、看護婦さんに背中を押され、部屋の窓際へ連れて行かれます。
そこには、どす黒い赤の皮の診察台がありました。
仕方なく、うつ伏せになります。
顔のところに、新聞紙が敷かれていて、臭いが直接鼻に入ります。
鼻の奥に鉛のような臭いがたまると、「あの時間」です。
顔の向きを変えても、同じです。
ペタペタというスリッパの音がして、うっかりそちらを見てしまうと、もう、恐怖の波が押し寄せます。
「キクチせんせい」は、小さな注射器と消毒薬の綿を持って立っていました。
その注射器を高く掲げ、注射液をピューと押し出したりしていることもありました。
私は目を見開き、起きあがろうとします。
その初動を察知した看護婦さんは、大きな手で、私を押さえつけます。
「見たら、怖くなる」
そう言って、ぐいと私の顔の向きまで変えました。
「すぐ、終わる、すぐおわるよー」
また、印字の臭いが鼻にきました。
それから、お尻の筋肉に「スー」と涼しい消毒薬が触ったかと思うと、「はい、おしまい」と聞こえました。
それからは、母に教えられた通り、「ありがとうございました」とおじきをして、診察室から出ていきます。
熱で赤い顔をもっと上気させてドアを閉めました。
お尻の痛みを抱えて待合室に戻ります。
注射の後、看護婦さんが針跡をぐりぐりと揉み込むので、更に痛みが続きました。
白い看護帽をつけて、スカートを履いた人が可愛いと思ったのは、幻想でした。
でも、確かに、注射はすぐに終わりました。
「明けない夜はない」
この言葉を聞いたとき、その通りだと実感できます。
私は、そぼ濡れる椿を見て、ささやきました。
「大丈夫、すぐ、晴れるよ」
ちょっと、得意げに。
英語
Damp with fine rain
A camellia hangs its head
Holding its breath
中国語
细雨润
垂首山茶花
屏息静
スペイン語
Bajo la llovizna
La camelia se inclina
En silencio
昔の医療のことです。
面白く読んでいただけたら、嬉しいです。
「明けない夜はない」
良い言葉ですよね。




