DAY 4 PM
羽田空港の第2ターミナルに到着すると、唐沢譲はオーバーヘッドコンパートメントからシルバーのキャリーケースを下ろし、降機待ちの列に並んだ。ボーディングブリッジで歩を進め、ムービングウォークでは、左側をゆっくり進む歩行者を次々と追い越し、脇目も振らずにタクシー乗り場に向かった。
タクシーは空港を離れ、巨大な立体交差に吸い込まれた。首都高速湾岸線を川崎方面へと進むと、視界の端に小さな公園や倉庫街が交互に現れる。川崎浮島JCTから県道357号の湾岸道路へ入ると、浮島町の工業地帯が生々しく迫り、巨大な倉庫と高架橋の隙間から、浮島町公園がぽつんと姿を現した。タクシーは公園の入口でゆっくりと停まった。
タクシーを降りた唐沢は公園に入り、海を目指した。
まっすぐ帰路につかず、しばらく一人になりたい。人の姿も見えず、声も聞こえない場所へ行きたい。
唐沢が公園に入るのを確認すると、別のタクシーから男が降りてきた。唐沢と同じように、ノーネクタイのワイシャツとネイビーのスーツ。黒い革靴の足元も一緒だが、二人の印象は違う。唐沢は身体に合った細身のスーツを着ていた。後からタクシーを降りた男のスーツは、太い上腕と分厚い胸板に見事にフィットしていた。
海沿いの公園は、平日の午後の間延びした明るさに包まれていた。連休が終わって人けがない。緩やかに起伏した芝生の広場の奥に、発電用の風車が一本、空へ向かってまっすぐ立っている。白い支柱は飛行船のような形をした巨大な部品を支えている。その部品から、ブレードが手を伸ばしていた。羽田を離陸した飛行機の、低い位置での旋回がすぐそばに見えた。
海を間近に見られる場所にベンチが並んでいた。唐沢はベンチには向かわず、芝生の上にキャリーケースを倒すとその上に腰を下ろした。何を考えるわけでもなく、空と海と飛行機を眺めていた。
海面に、ちらりちらりと波光がうねる。唐沢は膝を抱えてうつらうつらとまどろんでいたが、胸のポケットに入れておいた自分のスマホをバッグにしまうことを忘れなかった。
「やっと面を合わせることができましたね、唐沢さん」後からタクシーを降りた男が笑みを浮かべて目の前に立っていた。
「どちらさまですか?」唐沢は男を見上げて訊いた。
「坂出です」
唐沢は記憶を辿ったが、坂出という名前に心当たりがない。
「坂出刹那の夫ですよ、羽田からタクシーで追いかけてきました」
唐沢は動揺した。坂出と名乗った男からは笑みが消え、貫くような視線で唐沢を睨みつける。その迫力に、唐沢はあからさまに視線をそらせた。
「オレと結婚したことを刹那から聞いてないんですか?」
「なにも…」唐沢は刹那と会ったことを隠すことに決めた。
「刹那はそういう心遣いをする女です、オレも結婚する前に付き合っていた男の名前を教えてもらったことはないですから」
「そうですか…」
「さっぱりわからない、あんたのどこに魅力がある?」対話をする意思を放棄したかのように、坂出の声が太くなり、恫喝するような口調に変わった。「どこにでもいる普通のサラリーマンじゃないか? 妻子がいてさぞ幸せか? あなたみたいな不誠実な人間でも幸せを味わうことはできるってことか? オレは刹那以外の女と家庭を作るような不誠実な人間じゃないんだ」
声ではビビらないが、相手はガタイのいい男。力では絶対に勝てない。
「あんたみたいな不誠実な人間にはお似合いの妻だろう、夫が不誠実なら妻も不誠実、素晴らしい組み合わせだ、あんたの奥さんは城崎とできてる…、驚かないのか?」
唐沢は一度そらした目でもう一度黙って坂出の顔を見た。
「知っていたってことか?」
唐沢は返事をしない。
「どうでもいいってことか? 妻が部下と不倫していても見て見ぬふり、人間としてどうなんだ? 結婚した相手を最後まで愛するのは人間として当然だろう? その当然のことができない、ガッカリさせないでくれよ、最低だよ、おまえは、腹が立ってくる」
唐沢は無防備のまま、視線はそらさなかった。
「刹那の部屋からおまえの写真が何枚か出てきた」
唐沢は空を仰いだ。「脇が甘かったわ」という刹那の声が遠くから聞こえた気がした。嬉しくて口元を緩ませた。
「何かおかしいか?」
坂出の質問に唐沢はすぐに真顔になる。
「ずっとあんたを監視していた、家にいようが会社にいようが、あなたの行動は全部把握できている、位置情報も取得している、万が一刹那があんたの前に現れたときのために」
刹那と海に落ちたのを見られていたのか、…そう思った瞬間、唐沢には目の前にいるガタイのいい男がますます不気味に見えた。ずっと後を尾けられていた。話があるなら病室に来ればよかったものをどうして今この場所なのか。唐沢は今更ながら事の重大さを認識した。
「世界の誰よりもオレは刹那を愛している、言葉はたくさん伝えた、感謝は行動で示した、金だってたくさん稼いだ…」挑発するかのように、坂出は臆面もなく言った。
「刹那は理想の妻だ、刹那のためにタワーマンションの最上階を手に入れた、広い部屋だ、最高の部屋で子供を育てて、家族で暮らすつもりだった」
坂出は間を置いた。唐沢は口を開かない。坂出は言葉を継いだ。
「子供は流産した、あんたには理解できないだろう、オレたちの落胆がどれほどのものか…、オレが成功できたのは失敗から学んできたからだ、オレ一人でどうにかできることなら、失敗には成功の種がいつも潜んでいた、でも流産のせいで刹那は大切な身体にダメージを負った」
唐沢は表情を変えずに聞いている。
「刹那はいつも部屋を綺麗にしてくれた、二人の部屋に愛着を感じているのだと信じたよそうじゃなかった、まるでプロの仕事だ、有能な家政婦が部屋をピカピカにしてくれていた、流産が刹那を大きく傷つけた、傷を癒す時間が必要だった、その間オレは寝る間も惜しんで必死に働いた、企業価値を上げて会社をファンドに売却した、それがどれだけ奇跡的なことかはサラリーマンのおまえには絶対にわからない、生まれ変わったら二度と起業などしない、確率的に、こんな幸運が二度も続けて手に入るはずがない、とにかくオレはやり切った、刹那との時間を作るため会社を売った、刹那を都内のタワマンの一室に閉じ込めておきたくなかった、世界を見せてやりたかった、広い世界を…、オレの何が間違っていたんだ? 刹那はオレの前から消えた」
興奮しているのか。坂出の言葉の速度が上がった。
「刹那を取り戻せないなら、死のうと思ったよ、なあ、何でこの国にはピストルがないのだろう? 一発で確実に死ねるのに」
「あんたなら、ピストルの一つくらい、手に入るだろう」唐沢の声が震えた。
「オレはずっと刹那を探している、死ぬまで愛すると決めた」
声を出せたおかげか、唐沢の心の余裕が生まれた。
刹那、この人ヤバいよ、…もし刹那が側にいたらそう言いたかった。「ごめんなさい、私が拍車かけちゃったわ」刹那ならきっとそう言ってくれる。そして二人でゲラゲラと笑いたかった。
唐沢は吹き出しそうになるのをこらえて下を向いた。
次の瞬間、唐沢は腹部を思い切り殴られた。
痛い。
息ができない。
体の中で何かが潰れる感覚が広がる。
声が出ない。
唐沢は両手で腹部を抑えて背中を曲げた。今度は強烈な肘を背中に叩き込まれた。
激痛で地面に膝をつく。
体が折れる。
喉が詰まる。
肺に空気が入らない。
声を上げようとしても「アアアア」という振動のような音しか出てこない。
「立てよ」坂出が静かに言った。
痛いよ。唐沢は心の中で呟く。痛いよ、刹那。
唐沢は呪文のように心の中で刹那の名を唱えた。硬直していた気道が活動を再開し、声を出せる気がする。
「やり返して来いよ、この意気地なしが」
「意気地がないんじゃない」唐沢は声を吐き出した。「力では勝てない、身体を見ればわかる」
「だろうな、力っていうのは一番わかりやすい指標だ、どっちが上でどっちが下か一目瞭然だ」
坂出はしゃがみこむと、分厚くて大きな右手で唐沢の左右の頬と顎をグイッと掴んだ。
熱い息が顔にかかる。
「おまえは刹那に会ったのか?」
唐沢は顔の自由が効かないまま、上目遣いに坂出を見て言葉を返した。「尾行したんでしょう、オレのこと?」
坂出は、唐沢の顔から静かに手を離し、ゆっくりと立ち上がった。唐沢の背後に回ると、右足で思い切り背中に蹴りを入れた。
痛い。
倒れ込みたいのに、身体が動かせない。
「おまえの尾行? そんなものはプロに任せた、おまえが海に落ちたと報告を受けた、何かあると思ってここに来た、実際に会ってガッカリだ、だがせっかくだからいいことを教えてやる、好きなだけ刹那のことを思い出せ、そして苦しめ、おまえは刹那に会えない、刹那のいない地獄を味わえ、刹那は死んだよ」
坂出は一気にまくしたてると、荒い息をした。その息遣いに合わせるように、唐沢も呼吸を整えた。
「さっきと…言ってることが違う」唐沢は必死に言葉を吐いた。
「何がだ?」
「道理で…話が噛み合わない」
「はっきり言えよ」
「さっきは刹那を探していると言った、刹那は死んだ? 崖から突き落としたからか?」
「なんで知ってる? おまえ、刹那に会ったのか?」
坂出の形相が変わる。唐沢は答えない。目も合わさない。
「言えよ!」坂出は叫び、右足で、唐沢の左腕を思い切り蹴った。
「痛!」唐沢が鈍い声を上げる。内臓が影響しないので、今度は声が出た。「痛い、痛いよ、刹那」
「気持ち悪ぃんだよ」坂出は再び唐沢の背中を蹴った。
唐沢は地面に倒れ、芋虫のように這いつくばる。
「なんで刹那に助けを求める? なんで刹那に甘える? ふざけるな、他の女と結婚したおまえを刹那が助けるはずはないだろう!」坂出は唐沢の背中に罵声を浴びせた。
唐沢は両手で頭を押さえて怯えて震えていたが、坂出の攻撃が収まったのを確認して体勢を変えずに口を開いた。
「助けを求めたんじゃない、苦し紛れに名前を呼んだ、あんたに殺されたら二度と名前も呼べない」
唐沢の姿を惨めに感じたのか、坂出は諦めるように言った。
「もういい、蹴るのも殴るのもやめだ、約束する、身体を起こせ」
唐沢はゆっくりと身体を起こし、膝立ちになった。ネイビーのスーツがところどころ白く汚れている。突然目の前に坂出の足が伸びる。唐沢は両手で顔をガードし、目を閉じたまま体をそらせた。
「フッ!」坂出が耐えきれずに噴き出した。「なにビビッてんだ? 蹴らないって言っただろう?」
唐沢はゆっくりと目を開き、顔を上げて両手を下げた。
「オレがおまえを殺す?」坂出は唐沢を見下して笑みを浮かべて言った。「まさか! 甘ったれるのもいい加減にしろ、死ねば楽になれるなんて思うな、オレが味わった生き地獄をおまえも知ればいい、とりあえず立てよ」
唐沢はゆっくりと立ち上がり、自分の身体を見た。掌をすりむいている。スーツの膝が擦れて汚れ、右側は穴が開いていた。
坂出は蔑むように唐沢を眺め、言葉を継いだ。
「刹那はオレに離婚を申し出た、理由を訊くと、解放してほしいからと答えた、解放してほしい理由を訊くと、財産分与はいらないと答えた、オレと会話をする気がないようだった、刹那を失ったら生きる価値などない、オレは刹那を強く抱きしめて海へと飛び込んだ、一緒に死ぬつもりだった、着水した瞬間に水に溶けたように刹那が消えた、オレはしばらく海面で浮かんでいた、どれだけ待ったのかわからないが、刹那の身体がいつまでも浮かび上がらない、オレは自力で泳ぎ岩場にたどり着いた、日が落ちるまでずっと見ていたが刹那は上がってこない、刹那は死んだはずがない、消えたんだ」
最後は涙声になっていた。涙を隠すように坂出は空を見上げた。青い空に、白い飛行機雲の線が浮かんでいる。
唐沢はキャリーケースの方へ足を踏み出した。
「待ってくれ」背中越しに坂出の声が聞こえる。唐沢は歩を止めた。
「教えてほしいことがある」坂出は言った。唐沢は首を少し右側に傾けた。
「刹那は坂出という姓になったことをおまえに言わなかった、オレと過ごした時間をなしにしたいということか?」お手上げと言わんばかりに両手を上にして、坂出は笑みを浮かべながらゆっくりと近づいてくる。唐沢は何も言わずに、首を一度だけ横に振った。
「わかっただろう? 力はオレの方が強い、金だってたくさんある、社会的名誉だってほしければ手に入る。それにオレは他の女と結婚なんかしない、なあ、オレはこれ以上何をすればいいんだ? 教えてくれよ、おまえならわかるだろう?」
坂出は右の拳で、唐沢のみぞおちを殴った。
「グエ!」うめき声が出る。
「痛いだろう?」坂出が吠える。
言葉が後頭部に突き刺さる。
「痛いよなあ、楽になりたいか? 甘いよ、刹那は一緒に死ぬことオレに許さなかった、そして二度現れない」
坂出は唐沢の髪の毛をグイと掴み、顔を上げさせた。唐沢は微笑を浮かべている。坂出の両目が血走った。
「おまえのせいでオレの人生はメチャクチャだ、刹那はおまえの前では生きていてオレの前では死んでいる? そんなことあるか? 刹那は死んだ、受け入れろ、受け入れて苦しめ、おまえも地獄を見ろ!」
坂出は、唐沢の腰に重い蹴りを入れた。唐沢は前につんのめり、無様に膝から地面に倒れた。
痛い。
体中が痛い。
壊れそうで、どうにもできない。
そのどうにもならない痛みの中で、唐沢は陶酔していた。刹那が側にいる。元夫は怒り狂っている。楽しい。痛みが楽しくなる。身体が動かないのに、刹那の顔を思い浮かべると陶酔できる。
唐沢は顔を動かせないまま笑っていた。
その瞬間、穏やかな海から波が高い壁のようにせり上がり、可視光線のすべての色がグラデーションとなって、きらきらとあでやかに壁を染める。高さは10メートルを超えていただろう。壁となった波は、一枚の巨大で重みのある幕が突如落ちたかのように地面を覆い、唐沢の身体を包みこむと、ささあっと海へと引いていった。
すべてが一瞬だった。その一瞬の出来事が坂出の両目に焼きついて、ゆっくりと再生され、巻き戻され、また何度も何度も再生された。一度だけ坂出の耳にも声が聞こえた。
「ごめんなさい、探し物してたら遅くなっちゃった」まぎれもなく刹那の声だった。
坂出は声も出せずに、へなへなとその場に膝をついた。唐沢が倒れていた辺りに目をやると、小さな黒いものが見える。坂出は四つん這いになって小さな黒いものに近づいていく。正体は遠目に確認できた。ピストルだ。坂出は歩を進めた。坂出の指がゆっくりとピストルに触れる。撫でて感触を確認する。そして静かに持ち上げた。
とても軽い。
坂出はおもちゃのピストルを抱えて海を見た。
「これ以上、私のいない世界で生きないで」刹那の声が唐沢の耳にだけ届いた。
唐沢は、陶酔に溺れ目を閉じた。
穏やかな東京湾にわずかに波が立っている。波は音も立てず、色もなく、気が抜けたようなやる気のなさで海面を揺らせていた。
次回で完結します。




